閑話:一方その頃、森の中では……
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」
暗い森の中で体を密着させ、荒い息を吐く男女二人。だがそんな二人の間に漂っているのは甘く艶めかしい空気ではなく、生き残るための必死さだ。
「大丈夫ですかアランさん?」
「ああ、大丈夫だ……悪いが、もう少し頑張ってくれ……」
「はい!」
孤児院の院長でしかないハンナが、狩人であるアランに肩を貸して移動する。通常なら全く逆であろうこんな状況に陥った原因を、アランは朦朧とする意識のなかで考える。
(何でこんなことになったんだ……?)
事の発端は、一三歳を迎えた子供達を手伝いに迎える場合、どのような仕事をさせるのかを知りたいというハンナの提案だった。それ自体は何年かに一度やっていることだが、院長がハンナに代替わりしてからは今回が初めてだ。
とは言え、今年で三二歳となり、人生の半分以上を狩人として生きてきたアランからすれば、別に難しいことではない。足手まといの若い女性が一緒だとて、子供よりはずっとマシなのだから尚更だ。
故に、アランは予定通りに森の浅い場所へと出向き、薬草やキノコ、山菜などを実際に採取してみせた。途中でハンナも手伝い、「大変なお仕事なんですね」などと微笑まれてちょっとだけドキッとしたりもしたが、ただそれだけ……それだけのはずであったのだが……
(どうしてあんなところに熊が出た? それに……)
ガサガサガサッ!
「えっ? キャッ――」
「シッ! ハンナさん、大きな声を出さず、ゆっくりとそのまま後ずさってください」
草葉の影から現れたのは、大きな熊。思わず悲鳴を上げそうになったハンナの口を手で強引に塞いでから後ろに押しやると、アランは静かに熊と対峙する。
(何でこんな浅いところに、こんな大物が?)
そんな疑問が頭をよぎるが、まずはここを無事に切り抜けるのが先決。ハンナが下がったのを確認し、アランもまたゆっくりと後退を始める。だが……
「アランさん!? 熊が着いてきてます!」
「そうみたいですね。大丈夫ですから、大声を上げたり、走って逃げたりだけは絶対にしないでください」
「は、はい……」
当たり前の話だが、熊にも色々な性格のものがいる。臆病なものもいれば、好奇心の強いものも、好んで人を襲うようなものだっている。そう言う意味では、人に興味を示して追いかけてくる熊というのは、そこまで珍しい存在ではない。
だからこそ、対策はちゃんとある。アランは腰に着けていた鞄から、小さな包みを取り出して熊の鼻先に投げつけた。
「グァァァァ!?」
それは強い臭いや刺激のある植物を粉末にして混ぜ合わせた、獣を撃退するための小道具だ。瀕死の重傷を負っているような極度の興奮状態でもない限り、これを喰らえば大型の肉食獣であってもたちどころに逃げ出すものなのだが……
「グァァァァァァァァ!!!」
「馬鹿な!? ガフッ!?」
「アランさん!?」
熊は逃げるどころか、アランに向かって突進してきた。重い頭突きを喰らって吹き飛ばされたアランは、すぐに自分の足に違和感を感じる。
「そんな!? アランさん、足が……っ!?」
熊の爪で切り裂かれたのか、左足に大きな三筋の切れ込みが入っていた。肉の裂け目からは白い骨が覗いており、おそらくは骨折もしていると思われた。
「大丈夫だ、このくらいなら問題無い。それよりハンナさん、こいつは危険だ。ここは俺が何とかしますから、ハンナさんは町に――」
「嫌です! アランさんを見捨てて、一人で逃げたりしません!」
手持ちの縄で左足の付け根をギュッと固く縛りながら言うアランに、しかしハンナが強い口調で言う。しかしそれはアランからすれば、物知らずの我が儘でしかない。
「あのですねハンナさん。貴方が…………何だと?」
「? アランさん?」
「……前言撤回します。できるだけ移動したいので、肩を貸してもらえますか?」
「っ!? わ、わかりました! どうぞ!」
アランの言葉に、ハンナが嬉々としてアランの腕を肩に回し、体を起こす。なお、勿論これはアランの気が変わったというわけではない。こちらの様子を伺っていた熊が、クルリとアラン達の背後へと回り込むように移動したからだ。
(町の方向を理解してる? 俺達を逃がさないつもりか?)
単なる偶然かも知れないし、熊は賢い生き物なので、あり得ないと言うほどのことでもない。それに理由はどうであれ、その動きによってハンナだけを町に帰すという選択肢がなくなってしまった。故にアランは激しい音と光を出す閃光玉を熊の前に投げつけ、熊が混乱している内に二人は熊と反対側……町から離れ、森の奥へと続く方へ逃げ出したのだが……
「ハァ……ハァ……ハァ…………」
「頑張ってくださいアランさん……はぁ、はぁ……」
「俺は、平気だ……それより、ハンナさんは……」
「私だって平気です! 子供達の相手はとっても体力がいりますから……はぁ、はぁ」
幸か不幸か、アランは足の痛みをあまり感じていない。だが流れ出る血は如何ともし難く、意識を保つのも難しくなってくる。
それに、ハンナの体力だって限界だ。極限状態で男の体重を支えながらの慣れない森歩きとなれば、今こうして前に進めているだけでも奇跡に近い。
「もう少し、行ったところに……避難用の…………」
「グルルルルルルルル……」
「あ、アランさん!? 熊が!」
「チッ……もう追いついて来やがったのか……」
森の中に点在する、緊急避難用の小屋。しかしそこに辿り着く前に、闇の中からランタンの光に照らされる範囲に、黒い毛皮が姿を現した。
(くそっ、どうする? 小屋まではまだ距離がある。ハンナさんじゃ、方角を教えるだけじゃ辿り着けないだろう。かといって俺にも、これ以上は……)
ハンナにランタンを託したところで、見慣れぬ森の中で指定した方角にまっすぐ移動するなど、素人には無理だ。然りとてアランにも、この状況をどうにか出来る体力や道具はない。ならばとアランは、鞄から小さな陶器製の小瓶を取りだした。
「…………最後の手段を使います。ハンナさんは、少し離れててください」
「最後の手段? 一体何を……」
「…………毒を飲んだ俺を、こいつに食わせます」
それは本当に最後の手段。自決用と同時に、人の味を覚えた獣を確実に殺すため、狩人が必ず持っている切り札。だがそれを聞かされたハンナは、当然ながら大きく目を見開いて否定する。
「そんな!? そんなの駄目に決まってます! というか、毒があるならそれをそのまま放り投げたら……」
「ははは、それを食ってくれるような相手なら、確かに楽なんですけどね……」
森の中には毒虫に毒キノコ、毒草などなど、食べたら死ぬようなものは幾つもあるが、当然獣はそれを食べない。事前に新鮮な肉なりを調達したうえで毒を仕込むというのならまだしも、毒の入った小瓶を投げたところで、踏み潰されて終わりである。
「このランタンをお渡しします。俺を食った熊が動かなくなったら、怖いでしょうがここで一晩明かしてください。あの熊の死体があれば、この辺の獣なら怯えて寄ってこないでしょうから」
「駄目、駄目です! そんなの絶対駄目です! もっと他に……そうだ!」
言って、ハンナがアランの腰をまさぐる。そうして取りだしたのは、獲物を解体するためのナイフだ。
「これにその毒を塗って、熊に刺せば……倒せませんか?」
「そりゃ、倒せるとは思いますけど……まさか、できるわけないでしょう!?」
「そんなの、やってみなくちゃわかりません! アランさんはそこで休んでてください!」
「馬鹿な!? ハンナさん……くっ……」
必死に止めようとするも、アランの体にはもう力が入らない。朦朧とする意識のなかで、ハンナが自分の前に背を向けて立つ。
「さあ熊さん。今度は私が相手です!」
「だ、めだ…………に、げ…………」
威勢のいい言葉を発してはいても、ハンナの腕も足もガクガクと震えている。大きく目を見開いているというのに、その視線の先にあるのは熊ではなく、孤児院で世話をしている子供達の笑顔。
(ああ神様、アランさんを犠牲にしてでも自分が生き残ることに執着できない、弱い私をお許しください。そして願わくば、どうかあの子達に幸多き未来をお与えください)
「ガァァァァァァァァ!!!」
「あぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
直立したことで二メートルを超える巨体となった熊が、ハンナに向かって爪を振り下ろす。対するハンナは恐怖の余り目をつぶり、破れかぶれに叫びながらナイフを突き出し……
「ていっ!」
ズガーン!
「…………えっ!?」
盛大な音と衝撃を立てて、熊の巨体が横に吹き飛ぶ。ビックリしたハンナが恐る恐る目を開けると……
「見習い聖女アプリコット、お助けに参上です!」
そこにいたのは、夜の闇を優しく斬り裂く、白いローブに身を包んだ少女であった。
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