第四章 彼岸の向こう側

027 仮面の素顔

『ふふ、はははは。また会いましょうね』

『――しぃぃぃねえええええッッ』

『いつでも視ているわ。あなたのことを、いつまでも』





 そして気がつくと、俺はよく晴れた空を見上げていた。


 鉛色の空は嘘のように消え去り、暖かな、それでいて懐かしい感じのする晴天が木々の隙間から漏れていた。


 

「ここは……って、なんかデジャブだな」



 二週間前にもやったなこれ。

 軽い頭痛に眉を寄せながら、立ち上がる。

 しかし、俺はどこに飛ばされてきたのだろうか。

 あたりを見渡してみても、ここがどこなのか全く検討がつかない。



「あの野郎……好きなだけ俺を甚振って、ヤリ捨てしやがってくそ……ッ」



 思い出したくもない魔王の蹂躙。いまだに感じる、拭えないアドルフォリーゼの唇の感触。触れられた指の体温。舌と粘液。鼓膜を震わす嬌声。屈辱の快楽。

 たとえ相手が美少女だとはいえ、いいように体を弄られてよしとする俺じゃない。耐えがたい恥辱に顔を顰めながら、俺は木に拳を叩きつけた。



「……少し頭を冷やすか」



 倒れた木の向こう側から見えた川。

 近づいてみると、案外きれいな流水だった。流れも穏やかで、魚の類は見当たらないが透明感あふれた水は飲んでみても害はなさそうに見える。



「そういや、しばらく何も口にしてなかったな。ダンジョン出てからずっと戦闘続きだったし」



 飲み物や食料の類もすべて、俺専属荷物持ちユズキに持たせていたし。

 今回はそれが仇となってしまった。飢えた腹をさすりながら、ため息を吐く。


 

『わたしが、まもって……あげるから……』



 脳裏に蘇るユズキの表情と声音。

 ……メンヘラっぽいことしやがって、ふざけんな。

 沸々と煮えたぎってくる怒りを抑えるためにも、俺は頭を水中に叩きつけた。


 あの野郎。死んでたら許さねえからな。

 ある意味で勝ち逃げしていったあの女の胸を揉みしだくまでは、絶対に許さねえ。



「……ふぅ。想像してたほど冷たくなかったな……。あとは魚でもいりゃよかったんだが。いや熊ならいそ――」



 びしょ濡れになった前髪をかきあげる。気持ちのいい爽快感と共に視界を開いた俺は、瞬間絶句した。



「――な」

「―――」



 二〇メートルほど離れた向こう岸で、目があった。

 そこにいたのは、熊ではなく青髪の長い女。


 

「つっ――」



 今まさに、川辺に身を浸そうとしていたのだろう。豊満で素晴らしい裸体を空気に晒した女は、俺の存在に気がついた途端に絶句した。

 みるみると真っ赤にしていく顔。限界に達した熱は、彼女を殺意の塊へと変貌させた。



「こ、——このケダモノめッ!!」

「―――!」



 キッと碧色の瞳を釣り上げて、女は傍に置いていた見覚えのある剣を手に水の中を走る。

 顔面をこれでもかと真っ赤にして、片方の手で豊満な胸を押し潰し、恥辱だと言わんばかりに肉薄する姿はどっからどうみても萌えるのに。

 俺は、酷く冷静に、襲いかかってきた女から身を引いて剣を躱す。

 

 冴えのない一閃。

 刃を掻い潜り、間合いを詰めるのは容易だった。



「――くぅっ」

「………」



 手首を握り、外側へねじり込むように力を加える。想像していたような抵抗もなく、凸凹とした地面に女が倒れ込むと、俺は容赦なく腹の上に跨った。



「く、こ……殺せ……っ」

「おまえ、こんなとこで何してんだ?」

「黙れ……こんな恥辱を受けて、生きていられるほど私は恥知らずじゃない……! このまま汚されて死ぬのなら、舌を噛み切ってでも――」

「まあ待てよ。なんだっけ……おまえ、エミネミつったっけ?」



 エミネミ――確かあの時、そう自らを名乗った黒騎士は、目尻に雫を溜めて俺を睨みつける。



「薄々女っぽいなとは思ってたが、本当に女だったんだな。しかも美女」

「だ、黙れ殺すぞ……!」

「死にたいのか生きたいのかどっちなんだおまえ、情緒不安定か」



 向こう岸に置いてきた騎士甲冑がないからか。今のこいつからは、全くの気迫がなかった。

 現にこうして睨まれても怖くないし、剣で襲い掛かられてもビクともしない。こいつが魔人だと知覚していなかったら、ラノベよろしくラッキースケベをかましていたところだ。


 こんなにもいい女を、しかも裸の状態で押し倒してるってのに、これっぽっちも興奮しないのはあのクソ魔王に搾り取られたからか。あるいは……



「……でも、こりゃ色々と残念だな。折角の美人が台無しだぜ」

「……貴様には、関係のないことだ」

「確かに、そりゃそうなんだが」



 あれほどの膂力と、凄まじい魔剣の一閃をコントロールしていたとは思えない、華奢な肢体。大きすぎない質のいいしなやかな筋肉は理想的だが、白い素肌と質感は戦を知らぬ令嬢のそれ。


 ただ、それらがなければ。



「噛まれたのか?」

「………」

「だいぶヤバいんじゃないのか、これ?」



 ふくらはぎにに残る咬傷。まるで肉食動物に歯を食い込まれたかのような痛々しい生傷は、不自然に赤黒く腫れ、気色の悪い血管のようなものが浮き出ていた。

 それは上へうえへと左半身を侵食し、太もも、腰、腹を伝って今は首にまで伸びていた。


 これを俺は、あの燃える町の中でみていた。


 正直、頭に血が上ってよくよく観察したわけではないが、ゾンビになった連中は皆、顔や体にこの血管のようなものが浮き出していたのを覚えている。

 つまり、こいつはあのゾンビに噛まれたのだ。いつかはわからないが、こいつほどの手練れが油断するとは思えない。

 恐らく、魔王に吹き飛ばされ、意識を失っていた間にやられたのだろう。



「どうにかならねえのか、これ」

「……おかしなヤツだな。敵の心配なんてして」

「敵だが、まだ決着がついてねえ」

「……決着、か。馬鹿を言うな。明らかに、私の勝ちだろう」

「魔王が割って入ってきたんだ。あれがなきゃ俺が勝ってたに決まってんだろ」



 当然だろと、迷いもなく言い放った俺の言葉に、エミネミは含み笑った。



「どこからそんな自信が出てくるんだ、貴様。……あの時もそうだったな。倒れてしまえば楽だったろうに、勝敗のわかりきった戦に喰らいつく。貴様は、馬鹿なのか? あるいは一体、どんな信念が貴様を奮い立たせる?」

「勝ちたいからだよ」



 間を置かず言い切った俺は、続ける。



「つっても、それ事態魔王にボコられてる時に湧き出てきたモンなんだけどよ。やられっぱなしってのはどうしても嫌だし、コケにされんのも納得がいかねえ。やられたら倍以上にしてやり返す。俺が拳を鍛えたのだって、それが理由だし。

 悔しいとか、腹立たしいとか、ふざけんなって咆える気概と憤怒だったりとか。それら含めたないまぜの感情ってのは、要は勝ちたいから出てくるんだろ?」

 

 

 負けを認めた時、そんな感情は一ミリ足りとも出てこなかった。そこにあるのは、悲しいとかそういうネガティブを通り越した究極の無だけ。


 

「俺は負けたくなかった。勝機がなくとも、どうしても勝ちたかった。勝って勝って、勝ち続けて人の上に立ちたい。それが俺のモチベーションだ」

「勝利を……か」

「おまえは、なんのために戦ってんだ?」



 俺の問いかけに、エミネミは肩をすくめた。



「……貴様は、いつまでレディの上にまたがっているつもりだ?」

「ああ、悪りぃな。退いてやるからいきなり襲ってくるなよ?」

「それはこちらの科白だ。今だけ剣を納めてやるから、私に触れるなよ」



 互いにそう休戦協定を結び、俺はエミネミの上から退いた。



「……おまえさ、俺ら人間種に恨みでもあんのか?」

「当然だろう。貴様ら人間種が、我々魔人種にしてきた行いを考えてみろ」



 訝し気に俺を見遣るエミネミは、俺を置いてそそくさと向こう岸にまで駆けていった。どうやら、向こうに着替えを用意しているみたいだ。

 俺も追いかけて川を渡り、堂々とエミネミの生着替えを覗く。



「いやさ、俺この世界の人間じゃないからそこんとこよくわからねえんだよ」

「……やはり、貴様は異崩人エトランゼか」

「おう。薄々わかってたんなら、敵意向けて来なくてもよくね?」

「貴様が襲いかかって来たのが始まりだろう」

「いや、おまえがおっちゃん刺したのが悪りぃんだよ。ふざけんな」

「……私は頼まれたんだ。人間のままで死にたいからとな」

「それってつまり……そっか。おっちゃんは、じゃあもう……」

「貴様……わかったなら目を瞑るなり後ろを向くなりしろよ」



 騎士のくせにエロい青色の下着を通すエミネミは、俺を侮蔑の目で見ながらブラを手に取った。


 そうか。アモンのおっちゃんとはもう、会えないのか。

 浮かび上がってくる思い出と悲しみに塗り潰されないように、俺は歯を食いしばってエミネミの肉体を見た。

 やはりというか、なんというか。



「なんだかこう……おっちゃんには悪いんだけどさ」

「おい……指一本でも動かしてみろよ。必ず殺す」

「さっきまで興奮しなかったのに、すっげえ興奮してきた」

「!?」

「おまえ、やっぱいい女だよな。胸デカいし、細身だし、スタイルいいし。顔も可愛いし、ゾンビに汚染されてるところもなんかこう、チャーミングポイントっていうか?」

「げ……ゲスが。貴様は、見境がないのか……!?」



 振り切ったからだろうか。

 どうやら俺は、解脱したらしい。よくわからんが。

 ともかく。

 いざ、参らん。煩悩の極地へ。


 下着を身につけたエミネミへ手を伸ばした俺は、首元に添えられた魔剣にビビって体が硬直してしまった。これ以上、動けそうにない。



「……すまん」

「……ふん。気軽に触るなよ、ベスティエ



 仕方なく、俺は直立して動じない性剣を抑えるために川へ飛び込んだ。心地よい水の中、ゆらゆらと泳ぐ魚を見つけた。そして膨れ上がる俺の妄想。



夕餉ゆうげに魚を獲ってきてやったぞ、どうだエミネミ。俺に惚れたか?』

『ふん。貴様は、まったく懲りない男だな。しかし腹が減ったのも事実。……その、少しくらいなら、いいぞ。も……揉んでも』



 よし、獲ろう。めちゃくちゃ獲ろう。

 そして揉みしだこう。あわよくば先っちょだけでも挿れさせてもらおう。


 こうして俺は、小一時間ほど魚捕りに勤しんだ。


 

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