クール系眼鏡先輩を言いなりにするが、無自覚あるいは悪意で反撃されるので拮抗中。

木元宗

第1話


 須藤先輩とは俺の知る限り最もチェスが強い人で、今まで勝てた試しが一度も無い。


 夜の闇に飲まれ始めた太陽を背に浴びた彼女は、細いシルバーフレームの眼鏡が似合う華奢な輪郭と、艶のある長髪を輝かせながら目を伏せる。


「……参った。私の負けだよ」


 知的な顔付きに似合う凜然としたハスキー声は、衣擦れの音さえ聞こえてきそうな程静まり返っていた部室に、はっきりと響いた。


 二年間追い求めて来た勝利の瞬間は思っていたより呆気無く、それに浸るよりも先に訪れた安堵に、つい椅子に息を凭れて吐く。俺と彼女の間に置かれたチェス盤では、数時間に及ぶ戦いの跡がまだ生々しさを放っていた。


 先の言葉を放つ直前まで熟考を続けていた彼女は、動かそうとしていたのだろう、ずっと指をかけていた黒の騎士ナイトを漸く手放す。駒に映えていた白く細い指が宙を泳ぐその様で、やっと試合は終わったのだという気分になれた。


 彼女は、苦みのある微笑を浮かべながら瞼を持ち上げる。


「まさか最後の最後で、君に負けるとは思わなかった。もう二ヶ月後には、卒業と同時に引退なのに。私からチェスを取ったら、何も残らないよ? まあ来年は、君がこのチェス部の部長になる訳だから、先代から一勝ぐらい取っておかないと格好が付かないか」


 彼女は疲れたのか眼鏡を外して、ぐっと眉間に皴を寄せたりゆっくり瞬きしながら、セーラー服の胸ポケットからクリーナーを取り出しレンズを拭いた。眉間に皺が寄るたびに、目付きが別人ように鋭くなって息を呑む。眼鏡を掛け直すと元の知的な顔付きに戻って、満足そうに俺を見た。


「おめでとう。君を次の部長に推薦した身として、君を二年間見て来た先輩として、鼻が高いよ」


 余裕たっぷりの笑顔に、つい黙った。


 彼女は何かを察したのか、面倒そうに眉を曲げる。


「……何だい不満そうな顔して。部長候補だから来年は頼むって、春に伝えた筈だけれど」


 それは勿論覚えているし、だから今年は副部長に任命したと言われた事も忘れていない。


「……そうじゃなくて、先輩にはチェス以外にもいい所がいっぱいありますよ」


 彼女は目を丸くして、ふっと目を細めた。


「そう。ありがとう。嬉しいね。でも私は、今は先輩じゃなくて部長だよ。私がただの先輩だったのは君が入部して来た去年の話だし、“先輩”じゃあ、どの先輩の話をしているのか分かりにくい。時間はもう流れたんだ。さ、暗くなってしまう前に、さっさと帰ろう。勝負が長引いて、下校時刻をすっかりぶっちぎってしまってるからな……。顧問が施錠しに来る前に、さっさと帰らないと怒られる」


 そう言ってチェス盤に手を伸ばした、彼女の表情が曇る。


 据わった目で、じっと俺を見上げた。


「……もう決着がついたし万一イカサマをしても意味は無いけれど、どうして私の手を掴むのかな。利き手でも無い左手一本でチェスを片付けるのは、億劫なんだけれど」


「俺も手伝います」


「普通の感性を持っているならそうだろうね。先輩に片付けをさせる後輩なんていない」


「先輩ってどの先輩の話か分かりません」


「いやこの流れなら分かるだろ。この場合の先輩とは、今君に右手首を掴まれてイラついている私、須藤部長に他ならないだろ。君が入部してから毎日チェスで挑んでは返り討ちに合っている間に年が明けて、新年度と共に部長になった須藤だよ。去年は新入部員だった君に、部について色々と教えたじゃないか。そんな冗談より、私の手を掴んでいる理由を教えてくれないかい。今日は三学期の最終日だから短縮授業だし、以降の時間は君との勝負の予定に最大限当てていたから、昼食は適当に済ませてあってもう腹ぺこなんだ。離さないと私の手を掴んでいる、君の手を齧るぞ」


「お腹が空いたから不機嫌なんですか?」


「お前ッ……。君ねえ。君に負けたから不機嫌なんだよ」


 彼女は怒りと柄の悪さが顔を出しかけるも、部長という体面を保つ為持ち直す。


「入部したての頃は道場破りにでもやって来たみたいに、この部で一番チェスが強いのは誰だって、喧嘩を売って来たのは君じゃないか。はあ、全く。あの頃は馬鹿正直な戦い方だったくせに、今となってはあの手この手と嫌らしい、全く可愛く無い奴になってしまって……。一体誰の影響だろうな」


「一番対戦したのは須藤部長です」


「だからそれは君が挑んで来たからだし私の戦い方は至って堅実だろう。突っ込んで来る君の手をはたき落とすだけ。特に派手さも無いじゃないか。それで、いい加減に手を離しちゃくれないかい。そもそも何で掴んだんだ」


「今日別れたら次に会うのは卒業式じゃないですか」


 また目を丸くされたが、今度は明らかに呆れられた。


「はあ……。それは知っているし、カレンダーを見れば分かる。卒業式が三月にあるのも通常だろう? 何か変わった事なんて……」


 彼女はもう会える回数が限られている状況で、そんなにあっさりかつ鈍感とした態度を取れる人間は少数派であると知らないらしい。


 こちらから伝えないと意図に気付けないだろうと、気恥ずかしさはあるが正直に伝えた。


「…………。寂しいからもう少しお喋りしませんか」


 また彼女の目が丸くなる。ただ、今度は呆れでは無く、挑発が滲む。


「……へえ? 嫌だって言ったら、今度は何するつもりなんだ? こんな他に誰もいない所で」


 左手で頬杖を突きながら放たれた、意図しているのか読めない蠱惑的な微笑に、つい動けなくなった。


 かと思えば、無邪気に笑い出す。


「はは。冗談だよ。付き合うさ。何だよ、可愛い所が残ってるじゃないか。いつもそうして欲しいもんだね」


 矢張りわざとだったのだろうか? それとも天然?


 堅実だの派手さは無いと言っていた彼女だが、盤上での俺の動きを予測しているような鉄壁の守りには毎度翻弄されるし、本人にもこうしてしっかり、先の読めない所がある。


 なんて考えていると、彼女はまた不満そうに俺を見た。


「……いや何でまだ離さないんだよ。おかしいだろ」


「まだ大事な用件が残ってるじゃないですか」


 まさか予想外の言葉だったのか、彼女は目を丸くした。


「……戸締まりとかか? 今日は私と君しか部員はいないし……」


「もし俺が一回でも部長に勝てたら、何でもお願い聞いてくれるっていう約束をまだ果たして貰ってません」


 彼女はもう、それ以上は開けないぐらいに目を丸くする。


「? まあ別にいいけれど……。したっけ? そんな約束」


 マジかよこの人。



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