第36話 イシヲモツチカラノモトニ

 永い長い悠久の時を思わせる程に、長い時間を掛けて階段を登り続け、少女はその先に光り輝く扉を見た。



「ここは?」

「なんだろう?凄く穏やかな世界……。「神界」とはまた別の場所みたい」


 そこはとても穏やかだった。他にいくらでもある表現の全てがの穏やかさだ。

 暖かい春の陽気を思わせる陽射しがあり、優しい「そよ風」が草の香りを運んでくれている。

 木々は青々と茂り、その木には眩いばかりに輝きを放つが実っていた。少女はその空間を一人歩いて行く。



「貴女が……、母様?」


「あら?よく来たわね。大変だったでしょう?」


 少女は木陰で佇む一人の女性を発見し、声を掛けた。声を掛けられた女性は振り返っていく。


 ダークブラウンの髪。腰までかかる長くツヤのあるその髪を、三つ編みにして後ろに垂らしている。

 頭には白いベールを被り、そのベールに負けないくらい肌の色は白かった。

 Aライン型で清潔感のある純白のドレスをその身に纏い、あおく輝く瞳には慈愛がたたえられている。



「貴女が、ホントに母様……なの?」


「えぇ、そうよ。どうしたの?そんな顔をして。今にも泣き出しそうじゃない?何か辛い事や悲しい事でもあったの?」


「母様、母様ッ、アタシ、アタシはッ」


 少女のその瞳からは今にも大粒のなみだが溢れ出そうとしていた。少女の視界は歪んでいく。そして母親に向かって歩を進めた。

 母親はそんな少女を優しく抱き締めると、既に溢れ始めた泪で顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくる少女の頭を、ゆっくりと優しく撫でるのであった。



「落ち着いた?」


「うん」


ぽんぽん


「偉いわね」


ぐずっ


 それは初めて感じた母親の温もりだった。今まで知らずに生きてきた母親の温もりだった。

 少女は今まで母親を知らずに生きてきたから、特に何の感情も抱いていないハズだった。

 だからこそ、何を話すべきか階段を登りながら必死に考えていた。

 だからこそ、初めて会う母親にどんな顔をして会おうか必死に考えていた。

 なのに、感情は母親に会った瞬間に爆発してしまった。抑えきれない想いが溢れてしまった。




「そう、ヘラが。そんな事を……。まったく


「母様は、やっぱり「神界」には戻らないの?」


わたくしは自分が結んだ宣誓を自ら破ってしまったの。だから、自分の名を捨て、その「名」が持つ権能すらも捨てたのよ。だからもう、「神界」に戻る事は出来ないの」

「でもね、わたくしは貴女と言う娘を、とても誇りに思っています。だから、決して貴女を産んだ事を後悔しないわ。だって、貴女はわたくしの「宝物」なんですもの」


「母様……」


 母親は少女に向けて優しく言の葉を紡いでいた。そして、屈託の無い笑顔を少女に贈った。

 その笑顔は少女の笑顔と「うりふたつ」だった。



 それから母と娘は色々な話しをした。人間界での出来事。「魔界」で見てきた事。父親の事。爺の事。

 少女の口から語られる様々な言葉を母親は相槌をもって聞き、表情豊かに少女に返していた。

 少女の口から発せられる様々な物語を、母親は大事に大事にその胸の中にしまっていった。



「そう言えば、母様の名前って何なの?神話になぞらえるなら、「ヘスティア」だと思ってたんだけど、アテナに「間違いは無いけど違う」って言われてしまって」


「あら?まぁ、アテナったら。うふふ。わたくしの名前は「ウェスタ」よ。ウェスタ・アシヌス・ファーネスよ」


「ウェスタ!?それって……」


「どうしたのかしら?姓が気になったの?」


「う、うん……」


「そうね。わたくし達夫婦は元々ヒト種じゃないですからね。名前も偽名ですしね。かと言って本来の姓を使うワケにはいかないから、父様パパが考えて下さったのよ」

「それに「ヘスティア」の名は人間界に降りた時に捨てなければならなかったのよ。だから、その「名」はもう名乗れないの、もう死んでしまった「名」だから」




 その昔「ヘスティア」と言う名の女神がオリュンポスにいた。その女神はクロノスの長女として産まれ、紆余曲折うよきょくせつを経て末妹まつまいになった。

 「ヘスティア」はその類稀なその美しさ故に幾度と求婚されていた。だが下心丸出しで形ばかりの求婚を行う男性に対して嫌気が指し、その申し出を断り続けた結果、最終的に「処女神」となる事を選んだのだった。

 そして、家に於ける祭壇の守護者として、外に出る事を自ら絶つ誓約を設けたのである。


 「ヘスティア」にとって、それは求婚から逃げる為の口実であったが、自分が望んだ「宣誓」でもあった。だからそれを破るつもりは毛頭無かった。

 だがある時、運命に転機が訪れる。



 「ヘスティア」は人間界の様子を自身の権能を使って覗く事が好きだった。いや、むしろ「趣味」と言ってもいいだろう。

 外界げかいの様子を探る事だけが、唯一「ヘスティア」に許された外界と関わる手段だったのだから。

 それでも自身が望んで行った「宣誓」があるので、外界に行く事など考えもしていなかった。




 「ヘスティア」は外界をいつものように覗いていた際に、1人の男性に目を奪われ、その男性の事を次第に追い掛けるようになっていった。寝ても覚めてもその男性の事ばかり考える日々を送り、外界の様子を見る時はその男性の姿ばかりを追い掛けていた。

 「ヘスティア」の乙女心は名前も知らない男性の一挙手一投足に、のだ。

 だからストー……ではなく、「」と称して外界の様子をしょっちゅう探っていたのだった。



 ある時、「ヘスティア」は追い掛けていた男性が挫折し心を打ち砕かれ、打ちひしがれていく姿を目撃してしまった。だから、いても立ってもいられなくなってしまい、やらなければならない事にも手を付けられず、その男性のコトを救いたいと考えてしまったのだ。



 「ヘスティア」はそれをきっかけに外界に降りる事を、自らの「宣誓」を破る事を決めた。

 「ヘスティア」の名を捨て、その権能すらも捨て誰にも気付かれる事無く「神界」から姿を消した。



 「ヘスティア」は人間界に降りると必死にその男性を探し、その男性を立ち直らせる為の手段を講じた。だが、心を凍り付かせていた男性は何をしても立ち上がろうとせず、かたくなに、意固地なまでに言葉を受け取る事をしようとしなかったのだった。


 「ヘスティア」は神界でその男性の勇姿を見ていた。そして、それ程までに強く、勇ましかった男性の変わり果てた姿に泪を流した。



 男性は何故、自分の為に泪を流しているのか理解出来なかった。だが、その泪は少しずつ男性の心に張った氷を溶かし、凍った心に春の温もりを与えていった。



 「ヘスティア」は男性の心が晴れていくのを感じ取り、1つの村へとその男性をいざなったのだ。



 紆余曲折を経て「ヘスティア」はその男性と結ばれる事になった。2人の事を知る数少ない友人達から祝福され、2人は幸せな時を過ごしていた。

 お互いがお互いに自身の内情を秘密にしていたものの、2人が結ばれてから少しの時間が経った頃、その男性からカミングアウトは始まった。


 そして、「ヘスティア」はその男性のカミングアウトに衝撃を受けるのと同時に、自身の事もカミングアウトしたのである。


 お互いがお互いのカミングアウトに衝撃を受けたが、でも2人の愛は冷める事無く更に燃え上がっていった。

 そして遂に「ヘスティア」の持つ「処女性」は失われる事になったのだった。



 2人の間に無事に子供が産まれたが、その子供の特異性に対して力を使った事で「神界」に気付かれる事になってしまう。

 「神界」へと連れ戻されるその時まで、2人はお互いがお互いを想い、愛し合っていた。だから、その家庭は幸せだったと言えるだろう。

 それは離れ離れになってからも互いに想い合っていたのだから尚更のことだ。

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