二人を保全する器(スカースカ)
岸正真宙
二人を保全する器(スカースカ)
「雨が降っているの」
私、ニナは彼にそう言った。私の部屋はいつでも雨が降っている。私は濡れたくないもの。私はそう言って徐に傘をさした。この低い天井の空の下で。
「それはいけないな。僕がきっとこの部屋を太陽で満たしてあげるよ」
彼は都会では誰も被っていない、麦わら帽子を手で抑えながらそう言ったと思う。サングラスをかけていたかもしれない。歯をにかっと見せて笑ったのかもしれない。何かの海賊の漫画の真似をしたのかもしれない。覚えてないけれども。
私、ニナは人に見られることが怖い。世間の目は私をみている。ニナのことを。その目はいつも、じっと見つめるか。まるで見ないかの二択なの。ニナは、その目が嫌いだから、いつも他のものに例える。その目は大体、魚になるのよ。熱帯魚よ。好きなのよ。カラフルで。綺麗じゃない? 私の前を通り過ぎたり、じっと止まって尾ひれをクリクリしたりするの。ほら、ブラッドオレンジライヤーテールモーリーが、ね。
私、ニナは靴を履くと、その靴は鳥になるの。羽が生えるの。つまり飛べるの。私の靴は、でも鳩。鳩か、ちょっと残念。でもいいの。鳩ってほら、平和だから。平和っていいじゃない。鳩の何が平和なのかしら。誰が言ったのかしら。でも中国産の友達が鳩は捕まえて食べられるって言ってたわ。つまり、食べられるから平和なのよ。そうでしょ?
「クルックー」
口笛を吹くみたいに私の靴がそう鳴くの。あなたは、飛べないの? 私を連れて。ニナを連れて。
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「西本くん。お茶を入れてくれないか? 会議室に3つね」
年配の男性にそう言われると、西本と呼ばれた女性はいつも使っている裏紙のメモ用紙に丁寧に文字を書いた。そのメモ用紙はA5用紙をさらに半分に切って几帳面に揃えていた。西本さんは書いた部分のメモの上に定規を当てて、そこだけを切り取った。そのメモの半切れを制服のポッケに入れて給湯室へ向かう。
西本さんが席を離れると、周りの女性社員達は目を合わせて声にならない笑い声を立てた。西本さんを小馬鹿にしている空気が充満した。それが誤って爆発しないように口の前の扉を閉めていた。それから彼女たちは画面に戻って業務に集中した。
西本さんは給湯室で、しっかりと茶葉の重さをスプーンで計量してお茶を入れた。メモを見返し、茶碗の数を用意した。それから腕時計の秒針を見てきっかり3分、茶葉が開くのを待った。お茶を注ぎ、お盆に乗せてから西本さんは困った。誰に届けるのかをメモし忘れていたからだ。それからどこの会議室かも聞いていなかった。西本さんは暗い顔になった。
「西本さん、山本部長にですよ。それから会議室はD会議室です」
後輩の男の子が給湯室の前に急に現れて、それから、まるで「ついででした」みたいに教えてくれた。
「ありがとう」
西本さんは口の中で、山本部長と、D会議室を何回も唱えていた。
「そっちはC会議室」
「ああ、すみません。ありがとう」
西本さんは東川君、後輩にお礼を言った。律儀に。
お茶を入れて戻ってきたら、西本さんはデスクの前で立ち止まった。デスクの配置に違和感を感じたからだ。どれだろう。置いていたメモ用紙の場所が移動している。それに気づき、なるべく周りを見ないように西本さんは座った。右奥の八幡さんの席で「くすっ」と笑う声が聞こえた気がした。メモに書かれていたことが何だったのかを確かめられたのだろう。西本さんはPWを叩き、キーボードを打つことに集中した。西本さんは集中した。
帰宅時間が近くなると、西本さんは時計を確認する。五時丁度にいつも会社を出るようにしている。そのためには十三分前から帰宅準備をする。西本さんはそれが好きだった。なんだって丁度がいい。と西本さんは思っていた。
「ねえ西本さん、手伝ってもらいたいことがあるんだけど」
八幡さんは見計らったみたいに、西本さんに仕事を押し付けようとした。
「何でしょうか?」
西本さんは八幡さんを見ながら聞いた。
「この資料を作るのを手伝って欲しいの」
西本さんは資料を確認した。
「明日の何時までですか?」
「朝一よ」
「何時ですか?」
「朝一の会議よ」
「それは何時開始の会議ですか?」
「・・・・・・はぁ。10時よ」
それを聞くと、西本さんは帰宅の準備を続けた。それから、データ印の日付を明日にしながら、八幡さんに伝えた。
「わかりました。明日の朝からで間に合うのでやります。資料の前準備のデータを共有のフォルダにアップしておいていただけますか? いつも私と八幡さんが使う共有のフォルダです」
その共有のフォルダにはすでに幾数回分の依頼されたデータが溜まっていた。
「はいはい。ありがとうね」
八幡さんはいつものように作り笑いをして、お礼を伝えた。
「じゃあ、お疲れ様でした」
西本さんは時計をちらりと見た。五時を三分すぎていた。西本さんは肩掛けカバンを持って、会社を後にした。ちらりと八幡さんを見ると、スマフォを取り出してメッセージを打っているところだった。その画面にはまるで事件が起こったかのようなスピードで吹き出しが昇っていた。
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「それから、電車が嫌いなのよ」
私、ニナはそう言った。ナマズみたいな電車が近づいてくる。そうよ。地下を走るなんて、全く汚いわ。地球の皮膚の中まで。それって、どうかしていると思うのよ。
「地下鉄ってさ、いい曲が流れるよ」
赤い電車がね。知っているよ、くるりの曲でしょ? いつも流れてないわよ。
「違うんだ。それぞれの電車の発車音を合図に、音楽が流れてくるんだよ」
彼は、そう言った。オーケストラみたい? ううん。朝のラジオのパーソナリティみたいに。あなたの今日の一曲を選んでくれるのよそう。そう言ったと思う。
私、ニナは電車に乗るわ。嫌いだけどね。でも乗るの。ほらナマズの中に入るわよ。でもこのナマズ。唄うの。朗らかに、今日は? どの曲? あはは。綺麗な曲ね。ナマズのこの子は、駅に着く度に色んな曲を唄ってくれるの。そうね、だから私は我慢できるのよ。頑張ってね。ナマズくん。私、ニナはナマズを応援したい。それから、彼の唄声を聴いていたい。
🐠
会社に行く時、いつも西本さんはお腹が痛くなる。ただ、休むともっと痛くなるのを知っているので、玄関でそっと蹲るだけにしている。蹲っている間、「ちゃお」に出ていたキャラクターを思い浮かべるようにしている。
西本さんの出勤時の駅は始発駅から4駅ほど先にある。その駅はベットタウンのため、黒いスーツを着せられた、カバンを持たされた、ふらふらとする大人が大勢駅に出没する。西本さんは両手で自分の肩がけカバンをもち、電車に乗り遅れないようにと気をつける。
会社に着くと八幡さんのメモ書きがPCのモニターの真ん中に貼ってあった。
「今日は15時まで外出。明日の会議用にデータを作っておいてほしいの。いつものフォルダにデータを入れているから! お願い」
メモは誰に見られてもいいように、可愛く書かれて居た。デコレーションに時間がかかったと思われる。お願いの後に、うさぎか何かの動物が手を合わせているイラストが描かれている。下手くそなので、げっ歯目にも見える。
八幡さんはとても綺麗な人だ。三十代と二十代の間に存在する。口癖は「彼氏ができない」だった。週末の予定はいつも詰まっていて、男性とのお出かけも十分ある。矛盾点で頭が捩れそうだが、西本さんは論理的に適合させるため、彼女の「彼氏ができない」はアナウンスだと認識し、周りに情報を提供しているのだと思うことにした。昆虫が毒性のある場合、非常に色味が強いのと同じで、自ら情報を発信することで引き寄せたり、不要なものを排除する目的があるのだと思う。
西本さんはお昼ご飯を一人で食べる。その方が静かに食べられるからだ。一度、社員の女性たちと一緒に食べにいったが、何を話していいのか、何を訊いていいのか、何を笑えばいいのか判らず、ついに箸も止まってしまった。それからは、目的の栄養摂取のためには一緒に行動すべきではないと理解した。いつも近くにある定食屋にいくことにしている。
「はいよ。仕事頑張ってる?」
定食屋のおばちゃんが西本さんにお茶を出しながら声かけてきた。
「頑張ってはないです。普通です。」
「あははっ。玲奈ちゃん、それは、もう頑張ってるんだよ。普通に毎日を続けることは頑張っていることと同義なのよ」
そう言われて、メモを取り出した西本さんをおばちゃんは手で制した。
「ダメダメ。辞書で調べるでしょ。玲奈ちゃん。やめてよおばちゃんは学が無いんだから」
おばちゃんは西本さんと付き合いが長い。西本さんはおばちゃんに向かってすみませんと言いながらメモをポッケにしまった。それを見ると、おばちゃんは西本さんの席を離れた。おばちゃんも他の人と同じで一方的に話してくる。ただ、いつも疑問符で、質問対象は西本さんだ。おばちゃんはおばちゃんの話をしない。西本さんが他との区別をつけられるのはそれだけだが、西本さんにとって十分な差に感じられた。時計の針を見たら、昼食時間の終了まで残り二三分だった。西本さんは会計をした。
「いつもありがとうね」
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「……いつ帰ってくるのよ」
私、ニナは彼の帰りを待っている。彼は、随分と勝手なやつだ。いきなり現れて、そして、私、ニナを置いて出て行った。空っぽの部屋だ。彼ひとり分のスペースが余っている。もともとここは一人暮らしのサイズなのに、彼が勝手にきたんだからね。その空白が、私を、ニナを見つめるのよ。ねぇ、あれどかしてよ。あの空気人形。
「ちょっとだけ、出かけるよ。また戻ってくる」
彼はそう言ったと思う。多分だけどね。笑ってた気がするんだけど。私、ニナは泣いてた気がする。
だって、雨がやまないもの。
傘に、水滴があたるのよ。
私、ニナは新しい傘を買うことにした。彼が太陽を連れてくるまでは、雨が続くのだから。毎日使うものは、いいものにする。そのほうが、その物も喜ぶのよ。そんなことも知らないの? と私、ニナは彼に言った。言ったっけ? 居なかったけ? そうか、あの空気人形に言ったのか?
お店は私のお気に入りのお店。このお店は、空に浮いているの。厳選されたものは、遠くの国や日本の色々なところから集めてきているの。それって、どうやって集めているの? すると、店主はネズミに頼むって言うの? それって、黒い耳の? と聞くと。あの子は違う子。あの子は、違う国の子。だって。ネズミっていろんな種類がいるのね。そう? 違う?
そこで買った、赤い折り畳み傘。小さくなるの。カバンに入れられるのよ。ボタンを押すと開くの。魔法みたいに。パッて。それを懐にしまい込んでるの。私、ニナは今みんなに魔法をかけないでいるの。懐に隠しているの。ほんとは、カバンの中だけどね。
早く、帰らないと。
彼が、戻ってくるかもしれないから。戻っているかもしれないから。
🐠
改札を抜けたら、外は雨だった。西本さんは傘をさして帰ることにした。赤い折りたたみ傘だ。ボタンを押して、パッと花が咲いた。黒い傘の海の中、小さな、赤い一輪が泳いでいる。几帳面な赤い花は、周りに当たらないように真っ直ぐと進む。
鍵を回す感触がいつもと同じだった。傘を何度か開いたり閉じたりして、水滴を払ってから部屋に入った。真っ暗な廊下の先に、真っ暗な部屋が見えた。西本さんはカバンに入れていた、タオルを使って体を拭いた。壁にある、鍵かけに鍵をかけた。
その部屋には誰も居ないことが明らかだった。
🐠
私、ニナはスカートをはく。フリルのあるものがいいわ。踊るとふわっと浮くのよ。カラフルな飴が好き。それを空中に浮かせて、食べるの。口に入れると、ポップに跳ねる。テディベアーは好き。見つけたら、中に入るの。それから、口の隙間から外を覗くの。
お城に住むのが夢なの。それからティアラを頭につけるのよ。お城にいるのはトランプの兵士? 喋る猫? 歩く時計? どれでもいいわ。全部連れてってあげる。
雲に乗るのが得意なの。
口紅を塗ると、時間を止めれるの。
音楽は音符を触れるの。
私、ニナ。私、ニナ。
ねぇ、帰っておいでよ。早く。私、独りじゃ生きらなれない。
私、ニナは、部屋の中。独りで傘をさした。雨が、止まないの。
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西本さんは、部屋に入り部屋の電気をつけた。白い蛍光灯がジリリと音を立てた。部屋の中は湿気が充満し、いつもよりほんの少しだけ酸素が重かった。西本さんは、早く晴れ間が来て欲しいと思った。乾燥をしなければならない。空気を入れ替えて清潔にすべきであった。
誰もいない部屋の空気は少し灰色だ。いろんな色味が、孤独のガーゼで防いだせいで、滲み出てしまったのかもしれない。電気をつけていない、廊下の先のドアが暗闇に塗りつぶされていた。そこから先が無いかのように。
西本さんはシャワーを浴びて、家着に着替えた。この時が一番落ち着くのだ。ふかふかの熊のパジャマである。小学生の頃から同じメーカーのパジャマにしている。体がこれに包まれている時が一番しっくりする。
リビングを出て、自分のベッドールムにはいる。頭上から吊るした、アクリルの魚たちが西本さんの頭をかすめる。部屋にはたくさんの魚たちが浮いている。部屋の隅には袋に入ったカラフルな飴玉が絨毯の上に無造作に散らかっていた。テディベアの人形がベットの横で2人寄り添っている。大きくて邪魔であった。スカートが何枚も外に出ていた。部屋の天井は場違いな空模様の壁紙が貼られていた。
西本さんは、ため息をついて、目を閉じた。
「早く帰ってきてよ」
🐠
西本さんの母親はよく西本さんをぶった。それは、よくあることだった。家の鍵を無くした時。学校でお友達を椅子で殴った時。買ってもらったばかりの筆箱をバラバラに分解した時。学校でみんなで飼っているカブトムシを持って帰ってきた時。母親の大事な指輪をお鍋で煮た時。西本さんは、自分がやったことや思ったことの全てが間違えているのだなと思い始めた。そうして、少しずつ西本さんは自分が間違えたことをしてしまうのは「もともと」なのだと思うようになった。
それは、きっと頭の回路の一部に羽虫が入ってしまい、羽虫は脳の中でその脳脊髄液に窒息し、蠢いて、そして、大脳皮質の上で死んでしまったからだと思う。今も、西本さんの耳には羽虫の音が聞こえる時がある。
そうして、家では部屋の隅に身を隠すようになった。いつも机の下に隠れて、そこで太陽の画を描いていた。いつまでも沈まない、曇らない太陽を、毎日、毎日。そんな風に母親の視界から消えることで、怒られることを減らしたのだ。西本さんはそうやって大きくなった。
🐠
ある雨の日、西本さんは彼を見つけた。彼は街の中で蹲っていた。西本さんは思った。何かから隠れているのだろうなと 。
その日は、土砂降りの雨だった。都会は昼間なのに、水墨画に出てくる景色のようだった。雨は黒く、アスファルトを叩きつけていた。彼は、雨を避けるわけでもなく、ただ蹲っていた。近くの雑居ビルの屋上からの雨垂れに勢いよく水が流れ落ちていった。雨の音よりも高くて大きい音が出ていた。それが耳障りだったのだろう。彼は耳を塞いでいた。
西本さんは、彼が会社の後輩の男の子だと気づいた。いつも、ニコニコと笑っている子だった。誰にでもそのように接していた。もちろん西本さんにも。誰からも疎まれなくて、誰からも拠り所にされていた。
「傘を持っていないの?」
西本さんは、彼に聞いた。
「あ、西本さん。あはは。忘れちゃった」
西本さんを見上げた彼は笑っていた。目元も、まつげも、眉毛も、頬もすべてゴテゴテにメイクがされていて、それが剥がれ落ちそうになっていた。黒い涙で泣いていた。西本さんは、じっと彼を見つめていた。笑って細めた彼の目を。
「気持ち悪い顔ですね」
彼の頬は、緩まったままだった。
「その顔、気持ち悪い。ちゃんと拭えば?」
「えー、厳しいな。これでもまだ、顔はいい方だと思うんだけど」
もう、彼は座っていなかった。立ち上がると、西本さんよりも頭一つ分背が高かった。目を細めて、歯を見せていた。西本さんの傘が彼の頭に当たっていたが、気にしていないようだった。
「傘は要らないのね? じゃあ。さようなら」
西本さんは、振り向いて帰宅しようとした。その残り手の手首を、彼はいっぱいに引っ張った。
「えっ、帰るの? あんな風に言ったくせに? もう少し付き合ってくださいよ」
「傘がいるの? 私が欲しい? そういうところが気持ち悪いのよ」
西本さんはいつもと同じ声音でそう言った。それから、彼に傘を突き出した。彼はその傘を受け取らなかった代わりに、西本さんの手を離した。西本さんは傘を手放し、また帰路につこうとした。
「西本さんの方が」
彼はヘラヘラと笑って言った。
「西本さんの方が、楽ですよね! だって、変だから。それって、楽じゃないですか? 僕はもっと辛い。あなたの何倍も何倍もですよ。そうやって、僕を見下すのを辞めてもらえませんか? あなたのどこが偉いんですか? あなたの何が、そんなに。そんなに……」
雨が、二人の間を落ちていた。周りの雑踏の黒い影たちは、二人のことをまるで居ないこととしているように、その間をすり抜けていった。彼らは雨を防ぐのに忙しい。
「じゃあ、おいでよ。私なら、あなたの声を聴いてあげられるわ」
西本さんは、右手を差し出して、指を広げた。雨粒が指を滴り落ちた。べったりと張り付いた細い髪の毛の束が西本さんの眉間を抜けていた。目だけが濡れていなように、彼女は言った。
彼は、一歩、前に足を進めた。履き慣れた、ローヒールのパンプスには鳩が描かれていた。それは、水たまりを、跳ねて、飛んだ。
🐠
朝起きると、陽の光が部屋に差していた。部屋に浮かぶ無数の埃が少しだけチラチラと見えた。雨が止んだのだろう。
西本さんが寝ているベットの脇に一人分のくぼみがあり、その分の重さを感じ取れた。部屋の片隅には東川くんが傘を傘をさして佇んでいた。
「おかえり」
「やあ、帰ったよ」
「ねえ、いい加減この部屋なんとかならないの?」
「どうして? ニナは好きでしょ?」
「私は、ニナじゃ無い。西本玲奈よ」
そうすると、東川くんはちょとだけ寂しそうな顔をした。
「あなたのニナのせいで、こんな風になっているのよ。私の睡眠はとても規則的なの。それには寝るにふさわしくないこんな部屋はお断りなのよ」
西本さんは、起き上がりもせずに東川くんに言った。東川くんは、困った顔をして、自分の髪を撫でた。
「それに、家を空けるのは、ルール違反よ。私とあなたは一緒にいる契約をしたじゃない」
「契約じゃない。約束だ。仕方がないんだ、僕の中のニナが外へ出かけたがるんだよ」
「約束じゃ弱い。契約。あの日、私はあなたにメールで書面を送ったわ」
「ああ、あれね」
それから、東川くんは、頭を抱えた。指と指の間から、東川くんの綺麗な髪がこぼれ落ちていた。東川くんは、小さくブツブツと西本さんへの呪詛を唱えた。どんな言葉も東川くんにとっては鎖のようになる。西本さんはそう思いながら身体を起こした。
「僕は、ニナと旅に出ていたんだ。だから、許してよ。そうじゃなきゃ。そうじゃなきゃ、ニナが泣いてしまうんだ」
東川くんは、西本さんを下から覗き込んでお願いをした。目の焦点が合わなくなるのは東川くんを責めた時の反応として一番わかりやすいリアクションだった。それからどこにも居ないニナにすぐに頼るところも。
「もう、いいわ。おいで、私の太陽で温めてあげる」
そう言って、西本さんは東川くんを抱き寄せた。東川くんの服は少しジメッとしていて、雨の匂いがした。
西本さんは、今日の会社を休むことにした。天気がいいのだから、二人で、布団に包まっていたい。それから、夜になる頃には二人で泳ぎたい。
二人を保全する器(スカースカ) 岸正真宙 @kishimasamahiro
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