アル・アンダルスの夢見る召使

ババトーク

前編

 古今東西、恋の話といいますと、皆が聞きたがり、皆が喋りたがるのが世の常でございます。時代が違い、場所が違えど、人が恋バナにうつつを抜かすのは、人の営み、おなじみの光景と言えるでしょう。


 古今でいえば古、東西でいえば西、11世紀前半のイベリア半島、これはスペイン、ポルトガルのあるところですね、この頃のイベリア半島は、イスラームのウマイヤ朝という王朝が支配しておりました。アル・アンダルスと言います。


 そのアル・アンダルスにイブン・ハズムという学者であり詩人の人がおりました。この人は、恋についての話をまとめた『鳩の頸飾り』という本を書いております。

 その本の中で、イブン・ハズムは、夢の中で見た異性に恋をし、一か月もこの恋に鬱々として打ちひしがれている友人をいさめる、という話を紹介しております。

 神様に作られたわけでもない、存在するわけでもない夢の中の異性に恋するなんて、風呂場に描かれた異性の絵に恋した方がまだ理解できる、と、この人は、このように書いているんですね。


 日本語訳の翻訳者の方は、この部分、イスラームは人物画を禁止しているはずなのに、ローマ帝国時代の風呂場がまだ残っており、そこに人物画も描かれたまま知られていたことは興味深いと、そのようなことを注釈で述べております。


 さて、昔々、ここ、アル・アンダルスに、若い女性の召使と、その女主人がおりました。


 *


召使「ご主人様、ご主人様」

主人「何だね、レイラ。そんなに慌ててどうしたんだい?」

召使「お願いでございます。私のために恋文を書いてはいただけないでしょうか」

主人「おや、まあ。レイラ。あんたに神の慈悲あらんことを。恋文ですって?」

召使「さようでございます。ああ、私は文字がわかりませんので、私の思いを文にしたためていただきたいのです」

主人「最近のあんたは何だかぼーっとしていることが多かったけれど、なるほどあれは恋の病だったというわけだね。いいよ。あんたは器量もいいし、仕事もできる、長いこと私に仕えてくれたことだし、喜んで力を貸そうじゃあないか」

召使「ああ。偉大な神の祝福あれ。ありがとうございます、アイーシャ様」

主人「それで、相手はどこのどんな男なんだい?」

召使「それが、素性のわからないお方なのです」

主人「ふうん。ここらでは見ない顔かね?私はこの町なら、多少なら顔は利くよ」

召使「いえ、どこにお住まいかもわからないのです」

主人「いいねえ、岡惚れかい? 名前もわからないんだろうね」

召使「神にかけて、何も知りません」

主人「わかったわかった。でも、相手がわからないんじゃあ手紙も出しようがないね。あんたはその方をどこで見かけたのかね」

召使「私の夢の中でです」

主人「・・・・・・何?何だって?」

召使「夢の中でございます」

主人「・・・・・・」

召使「一昨日、立派な身なりの男性の夢を見たのですが、目が覚めても恋心が去らず、恋情しきりといった有様でございます。起きている間は胸の苦しさが収まらないのでございます」

主人「おお、レイラ、あんたときたら・・・。神よ、この子を見守りたまえ!」

召使「私、どうしたらいいでしょうか?」

主人「ありもせぬものに心をわずらわし、現実に存在しないものに気を取られるのは愚の骨頂というやつだよ」

召使「ああ、でも、あのお方の印象がどうしても脳裏から離れず、それが私の胸を今も高鳴らせているのです」

主人「現実に見たことのある男性にときめきなさい、レイラ。これならまだ風呂屋の壁画の男に恋をした方がましってもんさ」


 *


 女主人がそう言うと、召使はよよと涙をこぼし、袖を濡らします。召使があまりにさめざめと泣くものですから、女主人もなんだか気の毒になりまして、夢の中の男性に恋をするなんて聞いたこともありませんでしたが、せめてこの子がきっぱりと思いを断ち切り、実りのないこの恋に諦めがつくよう事を運ぼうと思いめぐらしました。


 *


主人「よしよし、泣くのはもうおよしよ、私のレイラ。あんたがそこまで思いつめているのなら仕方がない。私が夢の中で、そのお方に手紙を届けてあげようじゃないか」

召使「ああ、ありがとうございます!アイーシャ様に至高の神の慈悲がありますように!」

主人「やれやれ、変なことになってしまったねえ」

召使「ご主人様だけが私の頼りでございます」

主人「それで、私はどうしたらいいのかねえ」

召使「それでは、今日の夜、アイーシャ様は、私の夢の中にいらしてください」

主人「・・・・・・この子は何を言っているのかね?」

召使「ご主人様と私のベッドの位置からしますと、ご主人様が夢の中で階段を10段ほど降りていただければ、そこはもう私の夢の中ですわ」

主人「神にかけて、神様は夢をそのようにはお創りになっていないよ、レイラ」

召使「やはりこういうときは梯子はしごなのでしょうか?」

主人「降り方のことを言っているのではないよ、レイラ」

召使「では、ご主人様の夢の中に井戸がありましたら、それに飛び込んでくださいませ。そうすると、私の夢の上の方からご主人様がストンと落ちてきます」

主人「レイラ、夢の中とは言え、私は井戸に飛び込みたくはないよ」

召使「では、どうやって、アイーシャ様はあのお方にお手紙をお渡しするおつもりなのですか?」

主人「それは、ほら、私の夢の中で渡せばいいんじゃないのかい?」

召使「あら、私の夢にはお出でくださらないのですか?」

主人「神にかけて、レイラ、私はあんたの夢の中には行けないよ」

召使「最近のご主人様は出不精ですからね・・・・・・」

主人「そういうことじゃないよ、レイラ。というかレイラ、あんたは私のことを出不精だと思ってるのかい!?」

召使「あ、いえ、滅相も!」


 *


 女主人も年老いたとはいえ女丈夫じょじょうふです。若いもんにコケにされて、黙っていられますか、見てなさい、今夜あんたの夢に出てやるからね、と、幽霊みたいなことを言いまして、この場での話はこれで終わりとなります。


 その日の夜、主人は枕元に羊皮紙とインクとペンを用意します。これでいいのかはわかりませんが、こんなこと考えたって仕方がありません。ええい、後は寝てしまってから、夢の中で考えよう、神のお求めになるままさと、そう思い、眠りにつきます。


 そして夜が明け、女主人は目を覚まします。ぐっすりと眠れて、はて、夢を見た記憶がありません。枕元には何も変わっていない羊皮紙とインクとペンが置いたままとなっております。

「あらら、夢の中の私ときたら、約束した仕事もせずにサボっちまったんだね。あんたが仕事をしないと、こっちの私が言い訳をしないといけないじゃないかい、まったく」

 と、女主人はそのようなことを独り言ちます。


 さて、女主人がベットから出て、身なりを整えまして部屋から出ると、そこには待ち構えていたかのように召使が立っておりました。


 *


主人「わっ、びっくりしたねえ。どうしたんだい、これはまた」

召使「ご主人様。夢の話でございます。昨晩は本当にありがとうございました」

主人「ど、どういうことだい?」

召使「私、見ておりましたのよ。ご主人様が白亜のお城の塀の上で、あのお方に何やら手紙をお渡しするのを。ちらっとこちらに目配せもしていただいて、それにつられて、あのお方も私の方を向いてくださりました。ああ、初めてこちらを向いてくださったのです!皆に神の祝福あれ!今も胸が張り裂けそうですわ!」

主人「おやおや、夢の中の私はちゃんと仕事をしていたようだね。こちらの私が忘れていただけかい」

召使「え、忘れていた?」

主人「何をおっしゃい。私はちゃんと仕事をしましたよ。ほら、あの、金髪の殿方でしょう」

召使「ああ、神にかけて、左様でございます!」

主人「猪みたいな首をして、肩はがっしり、立派な髭を蓄えた、美しい首飾りを身に着けた」

召使「ああ、ああ!おっしゃるとおりです!間違いございません!」

主人「ふん、あんたの好みなんて見なくてもわかるよ。どれだけの付き合いだと思ってるんだい」

召使「え、見なくてもわかるとおっしゃいました?」

主人「たとえ話だよ。いちいち突っ込まないでいいんだよ」


 *


 召使は頬を赤らめて、飛び跳ねんばかり。とても嬉しそうにしておりました。


 しかし、その喜びも長くは続きません。夢の中の殿方に手紙を渡したのに、当たり前と言えばそうですが、相手からの便りは待てど暮らせど一向に来ないのです。


 召使は、以前と変わることなく、夢の中で例の男性を遠くから見つめるばかりでした。男性は以前と同じように、振り向きもしません。こうなりますと、こちらの好意に気が付いているにもかかわらず、相手にもしてくれないと、そういうことになります。それが召使には悲しくて仕方がないのです。こんなことなら、私のことなんか知られないままの方がよかったんだわと、そう思い、召使の瞳に涙が溜まることが増えてきます。


 女主人もそんな召使のことを気の毒に思います。そして、よし、これはまた、何か策を講じなければならないねえと、そう思うわけでございます。

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