5. ちょっとイレギュラーなサビ残
僕はバイトの子に、店長にもヤツが来たことを伝えるよう指示してから、コミック売場に急いだ。
いた、学ラン。新刊台のあたりをウロウロしている。ヤツは近隣の、ちょっとガラの悪い男子高の生徒で、夕方から深夜にかけて、ときどき学ランときどき家着で現れる。売場の奥で補充の品出しをしているコミック担当の藤野さんと目が合った。藤野さんもヤツに気付いて見張っているようだ。
防犯タグが見つかるようになってから、藤野さんが執念で在庫数のズレと監視カメラの記録を洗った結果、ヤツがエロ系コミックや十八禁コミックを腹のあたりに隠して盗っていることが判明した。これまでの被害冊数はこの三ヶ月で三十以上。既に本部に私服警備員を申請しているが、週に二回しか頼めなくて、今日は不在だ。
ヤツは大抵、売場奥の棚の間で犯行に及ぶ。店員がいると警戒して、新刊の平台から動かない。おそらく藤野さんが離れる隙を狙っているのだろう。
僕はふだん買い物する時と同じように新刊台のあたりを眺めつつ、ヤツを監視し続けた。
今回、ヤツにはどうも連れがいるらしい。合流してきた同じ高校の生徒だ。面白かったコミックの話をしている。
おいおい、それ、お前が盗んだやつだろ。こいつら、グループ犯か?
後ろから腕をつつかれたので振り向くと、エプロンなしの店長が「私が来たから帰っていいよ」と囁いた。僕は首を横に振った。
「男子高校生相手ですから、念のために居ます。連れもいます」
店長は腕時計をチラリと見た。
「ごめんね。ホントは夜スタッフに頼めばいい話なんだけど。いま七時過ぎだから、八時には上がって」
僕は頷いた。今日は一人休みだから、監視に割ける人員はいない。
店長がヤツを、僕が連れを見張ることにした。
万引きは現行犯でなければ警察に突き出せない。でも、中々そううまくいかないものだ。だから、こちらが警戒していると気付かせ、未遂で帰らせることができれば、それでよい。スリルを味わいたいゲーム感覚の奴は捕まえるに限るが。
グルかもしれないという勘は当たった。連れが藤野さんに問い合わせしている隙に、ヤツが棚の中に消えたのだ。やはり十八禁コミックのコーナー。僕と店長は天井の隅にある鏡が見える位置に移動した。まだだ、隠すところを見て捕まえないと。
ヤツは他の客の気配と監視カメラの位置をしきりに気にしている。
微かにシュリンクがパリパリ言う音が聞こえた。随分と手慣れたものだ、専用カッターなしだとそれなりに力が要って爪も痛いのに。
ヤツがタグを棚下に投げ込んでいるのが見えた。
やめとけよって気持ちと、やるならさっさとやれ、捕まえてやるって気持ちが入り混じる。ふつうに生きていて、犯罪現場を目のあたりにすることなんか滅多に無いから、何度張り込んでも全然慣れない。まるでテレビ番組の監視カメラ映像を見ている時のようにハラハラする。
ヤツが鏡に背を向けて何やらゴソゴソしはじめた。たぶんシャツの中にコミックを隠しているのだ。僕は店長に目配せをした。二人で挟み撃ちして、まず僕が声を掛けることになった。
何気ない風を装ってヤツのいる通路に入ると、さっきのマンガは綺麗さっぱり消えていた。当の本人は素知らぬふりで棚を眺めている。僕はその隣に立った。
「なあ、きみ、さっき持ってた本どうしたん?」
「な、なんですか、いきなり」
ヤツは丸刈りで日焼けしていて目がクリクリしていた。フィリピン人って呼ばれていた高校のクラスメイトの、野球部の四番にそっくりで変な気持ちになった。
「さっき防犯タグ抜いて棚の下に入れたやろ。あの本どこ?」
「何のことですか。というか、何なんですかあんたは」
店長が平台下の表板を外す。タグが出てきた。
「店長と社員ですよ。キミがこの三ヶ月の間に三十冊近く盗ってることは確認しています。事務室まで来てもらえますか?」
しかし高校生はシラを切った。
「鞄の中を見てくださいよ。人違いです。坊主なんかいっぱいいるでしょ」
僕はヤツの腹に指先を突きつけた。
「いつもお腹に隠してるやんな。とりあえず事務室来てもらっていい? 店長の前で脱げとは言わんから」
「やめてください! 証拠は無いじゃないですか!」
「キミかどうかは監視カメラの記録を見たら分かるからね。事務室で確認しましょ。お友達も一緒に」
あんなに怖い店長の笑顔を見たのは初めてだった。
僕はヤツと連れを事務室に連れ込んで扉を閉めると、自首を求めた。ここで強制的に脱がせたりしたら、同性とはいえ問題だから。二人は微動だにしない。
あー、お腹減った。この二人、エナメルバッグを持ってるから部活帰りなんだろう。お腹減ってるんじゃないか。それともどこかで買い食いでもしてるんだろうか。
母ちゃんは夕飯を作って待ってくれてるんじゃないのか。
僕は思ったことをそのまま言った。
「晩ご飯、もう食べたん? おうちの人待ってくれてるんちゃう? 僕もさすがに全部脱げとは言われへんから、正直に言ってほしい。本隠してたん、鏡で確認してるから」
こういう時、関西弁はなかなか効くらしい。二人はバツの悪そうな顔になった。
僕はいつも女性陣からヘタレ扱いされているが、別にそういうキャラで二十五年間生きてきた訳じゃない。三年の間に色々あって紆余曲折を経て、演じているだけだ。口下手なのは元からだけど。学生時代は陸上部で、一人黙々と走りたくて長距離をやっていた。一人が好きな近寄り難い奴だと認識されていて、舐められることはなかった。
僕は腕組みして無言でじっと待った。
ヤツは、とうとう観念してシャツの下からコミックを引っ張り出した。
A5版の重量感のある十八禁コミック。よく隠したものだ。表紙には美少女のあられもない姿が描かれている。欲しくても買えないから盗ってたんだろう。今どきネットで漁ればこの手のものはいくらでも転がっている、でも小金稼ぎついでにやっていたんだろう。
店長には見せたくないので、僕は本を受け取ると裏返しにして事務机に置き、扉を開けて店長に声を掛けた。
時間が掛かったからか、店長は心配そうな顔をしていたが、怯えた様子の二人を見て、今度は僕の顔をガン見した。一体何をしたの? と言いたげに。僕は内心ショックを受けた。店長の中で僕はドSな尋問官に仕立て上げられてしまったのだろうか……。
「自首してくれました。時間がかかってすみません」
「んん、そうなの? ごめんね、嫌な役をやってもらって」
店長はチラリと机上の十八禁コミックを見た。タイトルを読むだけでも店長が汚れてしまいそうで、今すぐ本を消し去りたくて仕方なかった。
「じゃあ、カメラを確認しますね。いま警察も呼んでるので、あとで一緒に見てもらいます。ご家族にも学校にも連絡させていただきます」
店長は手慣れた手つきでカメラの録画映像を遡り、ストップを押した。
「はい、ここでキミが店員さんに声掛けて注意を逸らしたでしょ。で、キミがタグ外して捨てて、様子を窺ってからお腹に入れてるね」
カメラの死角に入ったつもりだったようだが、残念。コミック売場には可動式のカメラがあって、事務室のモニターから遠隔操作できるのだ。僕はレジを出る前に、あの女子大生バイトの子にもう一つ指示を出していたのだ。出来る子だから、使い方を前もって教えていて良かった。
「何回も万引きしてましたね? ずっと二人でやってた?」
ヤツは床を見つめながら、「ずっと僕一人で、今日だけ二人です」と小声で答えた。友人を庇っているのだろうか。手伝ったほうは終始無言。
「データで三十冊出てるけど、何冊ですか。まだ家にありますか? 売りましたか?」
「わかりません。全部売りました」
蚊の鳴くような声だ。店長は振り返ると、二人の正面に立った。
「どの店ですか。レシートは取ってますか」
「近くの古本屋です。ありません」
「それで、いくらくらい儲かりましたか」
「覚えてません。千円くらいだと思います」
僕と店長はため息をついた。
「十八禁で買えへんから盗んだん?」
「そうです」
店長の目が、すうっと冷める。悪いのはコイツらなんだけど、僕は全男子代表で土下座したい気持ちになった。ここはたぶん、僕が説教したほうがいいなと思った。
「あんな、うちの損失は三万ぐらいや。パートさんが半月働いてやっと稼げる額やな。君の母ちゃんは専業主婦か」
「パートです」
「うちで働いてるのもほとんどパートさんや。君ぐらいの息子さんがおる人もおる。一ヶ月一生懸命働いたぶんな、修学旅行代で消えるんやて」
二人は何も言わない。
「ちょっと気の迷いで得したろと思ってやったんやろ? でも君らは僕らの給料盗んだんや。本屋なんか毎月ほんまにギリギリやねん。万引で潰れた店もある。毎日頑張って守ってんのに、店潰れたら、何年も一生懸命働いてくれたパートさんみんな切られてまうんやぞ。そこの家の子どうなるん。ほんで、この地域で一番大きい本屋潰すって意味わかる? 毎日数百人お客さん来てるねんで。どんだけの人が困るかわかる?」
わかっているのかいないのか、二人は無表情だった。たぶん僕の話より、親と学校と警察に話が行くことが怖いのだろう。それでも静かなだけマシな部類だ。
店長は、覚えている分はタイトルを書き出すようにと言って、二人を椅子に座らせた。
まだ手元にあるなら買い取らせて弁償させられるが、売られてしまったものは戻ってこない。この店は近くに中古書店がないが、真正面にある店は、もっと被害がひどい。だから明らかに怪しい客が来たら報告してもらうよう頼んでいるという。それでもどれだけ食い止められているか……。
それぞれの親御さんが来て、それから警察が来た。僕は、親御さんの怒った顔や悲しい顔、情けない顔を見るときが一番つらい。
店長は僕に、もう帰っていいからねと少し疲れた顔で言った。時刻は八時半を過ぎていた。
「ありがとね。私が言いたかったこと全部言ってくれて」
「いえ、勝手にすみませんでした」
「ううん、きっと少しは反省してくれたよ。働いたことないとわかんないもんね、お金を稼ぐのがどんなに大変なことか」
大人でも盗んでいく連中はどうなっているのかと思う。他人のことならどうでもいいのか。
「でも捕まえられて良かった。大槻くん、一か月分くらい喋ってくれたね。残業申請、出しといとね」
僕は笑ってよいのやら恥ずかしいやらで何も言えなかった。店長は天使のような微笑みを残してから戻っていった。
僕は事務室を出ると藤野さんに経緯を軽く伝え、店をあとにした。
長かった一日がようやく終わったのだった。
一日の終わりを祝して、帰る前に駐車場の喫煙コーナーに寄った。ついさっきまでは死ぬほどお腹が減っていたのに、もう峠は過ぎ去ってしまっていた。
胸ポケットにお守り代わりに入れっぱなしの箱から一本取り出す。僕の手の中で、ネオンイエローの百円ライターから小さな炎が生まれ、白い煙草の先端へと移る。
僕は指の間で感じる煙草の熱が好きだ。すぐに消えてしまう小さな存在だけど、僕の手の中にいて温めてくれる。
火は感染るもの。
だから何だって話。
僕の内側に
この仕事は好きだ。朝起きた時は怠いと思うけど、出勤すると楽しくなってくる。非常識な客が現れたりトラブルがあったり、お腹が減ったりしたら早く帰りたくなってくるけど、いざ終わりが近づいてくると寂しい。
そして夜眠る前は、終わりの見えない日々に少しだけ絶望していたりもする。
夢も希望もない町で日々繰り返される、スカイブルーとマンダリンオレンジとミッドナイトブルー。遅番の日はオレンジ抜きでほとんどブラック。早番でも残業ばかりのせいで、夏の終わりの燃え上がるようなバイオレットもマゼンタレッドも、きっと見られないだろう。そう思うと、人生損しているような気がする。
今どんな気分でここに居るのが正しいんだろう、と思った。
牢獄の中で、もう何年も見ていない空の色を瞼の裏に描き出そうとしては、密かに涙を流す囚人の気分? 夜に凪いだ大海原の上でたった一人、残り少ない食糧のことを考えて焦っている漁師の気分?
故郷にいようが離れていようが、僕はいつも自分が何を感じているか、どこにいるのか、霧の中にいるみたいによくわからないのだ。
それは、僕が一人でいることが多くて、自分を写してくれる鏡がないからだって、数少ない友人の一人は言った。僕は欠陥品だから、みんなみたいに相手に合わせて何種類も仮面を作って付け替えてを続ける、器用な生き方が出来ないんだろう。
だから、カラフル極まりない本と本棚の世界に逃げ込んでいる。あそこにいる間は生きている心地がするのだ、色のない町のことも先の見えない未来のことも深く考えている暇がないから。
本屋にいられない間はニコチンとメンソールが必要なんだ。
でないと、好きな人に何も差し出せない己の不甲斐なさを数え上げては笑う、もう一人の僕に喰い殺されてしまいそうだから。
やめやめ。もう上がったんだから、仕事のことは考えずにいよう。
息を深く吸い込むと、独特の甘い香りが広がって、肺がほんの少しスッと冷たくなる。火の暖かさが好きなくせに、この冷たさが好きで堪らない僕は、矛盾しているのか、単に優柔不断なのか。
このハイライト・メンソールに出会ってから、僕は少しだけ自分を好きになれた。
ずっと、兄貴とは違う道を選ぶよう心掛けてきたからだ。俺じゃなくて僕、サッカーではなく野球、短距離走ではなく長距離走、理系ではなく文系、東京ではなく田舎。自分の意思を通さない消極的な選択方法に没個性を感じていた。
だから、自分自身で好きなものを見つけ出せたことが嬉しかったのだ。
なあ、ハイライト。僕と付き合ってくれへんかな。もう何回もキスしてるやん。
あー、こういうこと言っちゃうとポエマーって言われるんだっけ。もしも青木さんに心の内がダダ漏れだったら大変だな、なんて小さく笑っていたら――
「どこのくたびれたサラリーマンかと思ったら大槻くんやん」
本当に青木さんが現れて、僕は思い切り咳き込んだ。
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