大したことが起こらない田舎の書店員の目まぐるしい一日
すえもり
1. 何でもない一日の幕が上がるまで
書店員の朝は早い。……というわけでもない。
開店前に出勤する早番と、昼から入る遅番があるし、開店時間も閉店時間も、同じチェーン内でさえ店舗によって異なる。ビルの都合やら、近隣の競合店に張り合うためやらで。
僕の店は、書籍と文具を扱う郊外型の国道沿いの店舗だ。他の多くの小売店と同じく朝十時に開店する。仕事は九時から。社員は店長と僕の二人だけの小規模店。だから、早番で出る日は鍵を開けるために八時半には店に着いていないといけない。
たとえ台風の日だろうが嵐の日だろうが、これは絶対である。
そうエリア長に言われた時、ああホントにブラックな会社ってあるんだな、そこに入っちゃったんだなと思い知った。
何にもない、海風のやたらキツいこの町は、腹立たしいことに台風たちには愛されている。夏なんか、彼女たちが代わる代わる立ち寄っては激しい一夜を過ごしてくれるものだから、骨が六本や八本のふつうの傘は一瞬でゴミに変えられてしまう。
僕のホンダ・フィットのフロントガラスが飛んできたバケツでヒビ割れる可能性よりも、ワイパーがお飾りになるくらいの視界不良の中で事故に遭う可能性よりも、職場の状況を確認して上司に被害報告することのほうが大事なのだ。
僕だって書店で働くことを選ぶくらいには本と本屋が好きだし、あの静かな戦場のことは、それなりに愛してる。でも死の危険を冒してまで無事を確認しに行きたいと思うほどじゃない。安全になってからでいいじゃないか、どのみち警報が出ていちゃ、お客様も来るに来られないのに。
愚痴が過ぎた。これは僕の会社と噂で聞いた一部のチェーンに限った話だから、書店員を志す若者は、どうか引かないでほしい。
もっとも、これから始まる僕の一日の記録を辿って、地方の書店の現場仕事が世間のイメージの『静かそう』『人と話さなくて良さそう』『アカデミックな仕事』とはかけ離れた、『回し車で走るハムスターのよう』『体育会系のやっつけ仕事が多い』という現実に落胆しなければの話だけれど。
車が一台も止まっていない、だだっ広い駐車場。その奥のほうの停めづらい場所に車を入れる。それが店員の常識だと、これもエリア長に言われた。目立つゴミを集めながら入口に向かう。これも店員の常識。
自動ドアの下部にある鍵穴に、昨日持って帰った鍵を差し込み回す。手でこじ開け、スタッフが入れるよう少しだけ開けておく。入るとすぐさま持っている非接触キーで防犯システムを切る。
それから事務室に入り、打刻用PCを立ち上げておく。ロッカーに鞄を入れ、エプロンをつけて打刻。事務机の上のPCでメールと社内連絡ネットを確認して……。
この多瀬店に配属されて約半年、毎日続けてきたルーティンが、背後から忍び寄ってきた何者かの気配によって中断された。
振り向くと、背の高い天然パーマ・ベリーショートのフリーターさんが仁王立ちしていた。彼女は僕と同い年の二十五だが、勤務歴は僕より遥かに長いベテランである。
しかし出勤はいつもギリギリ十分前のはずだ。
「おはようございます。早いですね、青木さん。どうかしましたか」
彼女は満面の笑みを浮かべていた。大ぶりなビーズが連なったピアスが揺れている。明るすぎる髪色と水玉の大きすぎるドット柄のシャツを含め、本当は就業規則で禁止されているのだが。
「お・お・つ・き・くん。気付いたやんな?」
僕はたっぷり五秒――これが彼女を前にしたとき僕に許される最長の執行猶予だ――考えて、解答を告げた。
「新しいピアスのことですか? お洒落ですが、ちょっと目立ちますね……っ」
彼女は僕のネクタイを引っ張って首を絞めた。その目は、ちっとも笑っていない。
「店に入る時、なんかおかしいと思わんかった?」
そういえば入口前の駐車スペースにコーンが二つ、正月の門松のように置いてあった。駐車禁止の貼り紙もあった。てっきり、また天井のクーラーが壊れたとかで業者のトラックでも止める予定があるのかと、気に留めていなかったけれども。
「事故でもあったんですか?」
「あんた、風除室のガラス割れて全部なくなってんのに素通りしたやろ」
「えっ……あ」
入口の前には風除『室』とまではいかないが、ガラス張りの雨風避けが正面に立てられていて、左右から入るようになっている。あんまり綺麗にガラスがなくなっていたので全く気付かなかった。
青木さんの目がキリキリと音を立てそうな勢いで吊り上がる。その口から罵倒が飛び出す前に、僕は先手を打った。
「その話をするために早く出勤してくれたんですか。ありがとうございます」
青木さんは盛大に溜め息をついた。
「あんた、すごいわ」
「いや仕事も青木さんやパートさんには全然敵いませんし」
「謙遜するとこと違う。店長の書き置きちゃんと読んどいてや。午後から修理に業者が来る予定やけど、もし店長が出勤する前に来たら私を呼んで。昨日は警察も来るわ社長も見に来るわで大騒ぎやってんで」
社長を最後に見たのはいつだっけか。机の上には、恋文フォントみたいに流麗で細い字の書き置きがあった。店長からだ。
どうやら高齢の客がアクセルとブレーキを踏み間違えて突っ込んだらしい。幸いなことに怪我人はなかったが、入口前には車が停められないようコーンを置いておくとのことだった。
僕はその手紙を綺麗に畳んでズボンのポケットに仕舞った。
「読んだ? 私、朝一レジやから入金してくる。出して」
「わかりました」
金庫から、ずっしりと思い釣銭入りのバッグをレジの台数分取り出す。売上金と釣銭の管理については防犯上伏せるが、売上計算――前日の売上を翌朝チェックして書類を作成する仕事だ――を行った社員またはベテランのパートさんが用意しておいたものだ。
青木さんは神業的な速さで各バッグ内の紙幣と棒金(硬貨を五十枚ずつビニールで覆ったもの)を数えてチェック票に記入した。それをバッグ内に再度仕舞い、段ボール運搬用の台車に乗っている買い物カゴに入れていく。
青木さんは以前ナイトマネージャーだったことがある。社員が不在の夜間帯の責任者の肩書きだ。言い忘れていたが、うちのチェーンの郊外型店舗は深夜二時まで開いている。
が、会社はその金があれば次の店を出す。小売チェーンが成長する方法はたった一つ、新規出店だけだから。
「僕、持っていきますね」
この仕事は腰を逝かす人が多い。それに青木さんは以前に大病を患ったことがあるから、出来るだけ力仕事は代わってやるようにと言われている。
事務室を出ると、ちょうどパートさん達がゾロゾロと連なって現れたところだった。
「おはよー、あおちゃん、早いね〜」
「今日は昨日のアレに対する大槻くんの反応を見ようと思ったんですよ。見事素通りでした」
「あはは! さすが!」
「おもろいですよね〜、ほんま」
おとなしい男性社員というのは、主婦がメインの早番パートさんやフリーターさんのサンドバッグである。その運命に逆らってはならない。これは三年間で学んだことの一つ。
僕はノーコメントでレジに向かい、電源を入れ、店内の最低限の電灯のスイッチを入れた。
ついでにレジ裏の客注品棚脇にあるシフトを確認した。タイムテーブルのような表で、店長が作ったものだ。レジ、休憩、発注などの時間が書かれている。パートさんは全員必ず二、三時間はレジに入る。ジャンルごとに忙しい日を考慮してあるのは、うちの店長の優しさだ。
それにこの店では午前中、担当を持たないレジ専門の短時間バイトさんを入れていて、担当者がなるべく朝のうちに集中して品出しできるようになっている。一方でレジ専門バイトを入れない店もある。担当仕事をしていないと商品知識がつかず、問い合わせ対応の質が下がるからだ。
釣銭は入社した頃、手で数えて渡すものだったから、ドロワー内に各小銭を分けて入れていた。今はレジについている釣銭機に預かり金を投入すれば自動で出てくるため、朝に全部まとめて入金するだけだ。紙幣のみドロワーに入れておく。
棒金を一気に割り入れると釣銭機が消化不良で苦しむので、小分けにしてやる必要がある。騒音を立てながら必死で飲み込もうとする釣銭機を憐れみ半分で眺めていると、青木さんに横目で睨まれていた。
「この待ち時間にレジ袋の補充したら? いま何考えてたん?」
「釣銭機に同情してました」と言えば怒られそうなので「何も」と答えたが、大した差異を生み出せなかったと思われる。溜め息。
「今まで何人も社員見てきたけど、大槻くんみたいな何考えてるか分からんのはおらんかったわ」
「青木さん、人が何考えてるか読めるんですか」
もしそうだったら、僕の大して性能の良くない脳味噌の九十%が、ある人に占められていることがバレてしまうではないか。
「その返しがおかしいんやって。だいたい、ここの社員は地味メガネばっかやのに、大槻くんも店長も裸眼なん、ちょっと変わりもんなんちゃう?」
そう言われると、書店員のくせに本を読んでいないと責められているような気がしてしまう。実際、働き出してからは月に一、二冊読めたらいいほう。帰ってから読む気力も体力もほとんど残っていないからだ。文芸書担当でソフトコンタクトレンズ派の青木さんは、たぶんもっとたくさん読んでいることだろう。
「エリア長も裸眼ですね。でも遺伝ですよ。店長は変わりもんと違いますし」
「大槻くんと意思疎通できる時点で変わりもんでしょ」
「僕と会話が続く人ってあんまりいてませんよ、青木さん」
「ああ? ネクタイいがんでんの、開店までに直しや」
誰のせいだよ。
掃除または雑誌の付録づけをやり始めていたパートさんたちが朝礼のために集まってきて、ニヤニヤ笑っているのが見えた。
「あおちゃんと大槻くんが喋ってると、ここだけ大阪みたい」
「ちょっと、関西人やからってすぐ漫才にせんといてください」
ものすごく今さらながら、彼女の出自を知らないことに気づく。もちろん、この町では超レアキャラな関西人だということには気づいていた。あまりに自然に会話が続くせいで、そういう話の流れになったことがなかっただけだ。聞いてみようと口を開きかけたところで、また睨まれた。
「なに? 九時やで。朝礼はじめて」
最近、本気で伊達眼鏡をかけようかと思っている。強すぎる女性陣への防御力を上げるため、それから、田舎くさい方言で凄んでみせるヤクザまがいの客に舐められないために。そうしたら、某小学生探偵ミステリー漫画みたいに、眼鏡を光らせつつ表情をうまく隠せそうじゃないか。
朝礼では昨日の売上額と連絡ノートに書かれている事項――レジ渡し特典を含むキャンペーンのお知らせや、各担当者からの人気商品の入荷状況や、店長からの接客ミスの注意喚起など――と、本部からの指示やクレーム等々を共有する。ノートには他に、お客様の忘れ物だったり、ややこしい問い合わせをされたお客様が後日また来店される場合に備えた情報共有だったり、多種多様な内容が書かれている。メモは必須だ。
今日は例の風除室の件のみ。
そのあと、接客の七大用語を全員で復唱する。いらっしゃいませとか、ありがとうございましたとか。バカバカしいといえばそれまでだが、発声練習だと思えばいい。やっているうちに恥ずかしさなんて薄れてくる。
朝礼が終わると、再び掃除と開荷に戻る。ビル内の店はともかく郊外型の店では、駐車場とトイレの清掃も仕事のうちだ。フロアは夜間スタッフが閉店前にモップ掛け済み。棚の埃は基本的に各担当が仕事の合間に掃除する。サボっていると店長やエリア長に注意されてしまう。
店を綺麗に保つのは防犯の上でも大事なことだ。汚い店は店員の目が行き届いていないと思われ、悪い人たち、たとえば万引犯や暴走族や痴漢の類を引き寄せてしまうらしい。
ダ◯キンの紫色のモフモフした埃取りをズボンのお尻ポケットに差して歩くパートさんが何故か多くて、尻尾のようにフワフワと揺れているのは可愛い。僕はやらないけど。あれはかえって埃が舞う気がするし、ポケットからすぐ落ちそうになるし、小柄でも細身でもない男がやるとサマにならないから。
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