5. 聖女様は恋愛が苦手らしい
所長室から出て、研究室へ向かう途中、リタはアレクサンダーと出くわした。
彼と会うのはたいていこの廊下だ。
「殿下」
「リーダー。また会ったな」
「先日のハリス主教の件は……申し訳ありませんでした」
あのときハリスがリタとアレクサンダーのどちらを狙ったのかは定かではないが、アレクサンダーにその気があれば、王太子暗殺未遂事件として国家間の問題に発展してもおかしくはなかった。
彼が公表しないと言ってくれて本当によかった。
所長から聞いた話では、アレクサンダーは教会と交渉を行ったということだった。
「構わない。ここでスティエン公国との関係が悪化してしまっては、我々の計画が台無しだからな――そうだ。セオ、あれを」
アレクサンダーが側に控える従者のセオドアに何かを要求する。
セオドアは革の鞄の中から布に
アレクサンダーが布を取り去ると、出てきたのは小さな木枠に布が張られたもの――本くらいの大きさのキャンバスだった。
「あなたにこれを。研究がうまくいくように、願いを込めて」
アレクサンダーがキャンバスの向きを変え、リタに渡す。
リタはそれを両手で受け取った。
「これは、祈願花の……。あなたが描かれたのですか?」
キャンバスには、祈願花が一面に咲き乱れる風景が描かれていた。
あの日、二人で見つけたあの場所だ。
「ああ。ちょっとしたものだろう?」
アレクサンダーが得意げに微笑を浮かべる。
「美しいです、とても」
目の前の絵が記憶の中の祈願花畑と混ざり合う。
草木の匂い、手にひらに刺さる太陽の光、頬を撫でる風。
それらを今この瞬間に再び体感しているような不思議な錯覚に陥る。
はっと我に返り、アレクサンダーの方を見ると、なにやら満足げに頷いていた。
「こんな素敵なものをいただいてもよろしいのですか?」
「もちろんだ。そのつもりで描いたのだから」
彼の顔を見ると、心臓が全身に血液を送り出す間隔が普段よりも幾分短くなっていることをリタは自覚した。
これは良くない傾向だ。
これは良くない。
「あ、ありがとうございます――キザなことをするのですね」
照れ隠しで少し棘のある言い方になってしまった。
リタは彼から目を逸らし、手元のキャンバスに視線を落とす。
「そうだろうか。言われてみればそうかもしれない」
女性に自分の描いた絵を贈ることの意味を生まれて初めて理解したといった様子で、彼は頷いた。
「やはり軟派な方です」
「ま、待ってほしい。私が自らこのようなことをしたのは生まれて初めてだ」
「この前、同僚が『アレクサンダー様って、聖女に惚れて匿ったくせにリタに対しても距離が近いよね。やっぱり結構プレイボーイなのかな』と言っておりました。それは本当ですか?」
「……私の女性遍歴については発言を控えることにする。言い訳ではないが、聖女以外には絵を贈ったことはない」
リタは目を細めて彼を見る。
「ひどいです。聖女様という素敵な女性がそばにいながら、私を弄ぶなんて」
リタは片手を目元まで持っていき、泣き真似をした。
「それを言うのは反則ではないか? 意地悪な方だ」
アレクサンダーの眉尻が下がる。
こうして言葉を交わすようになるまで、リタは彼のことを冷徹な人間だと思っていた。
それがどうだ。どんなことにも動じなさそうな大きな体躯を持つのに、リタの言葉ひとつで表情を変える繊細な部分も持ち合わせている。
彼と関わることは仕事だと割り切っていた。
でも今は、彼のことを好ましく思い始めている。
それを意識すると、またも鼓動が早くなった。
ふと、二人の間に沈黙が落ちる。
「素敵な絵を、ありがとうございます」
リタはなんとなく気まずくなって、再び感謝の言葉を述べた。
「あ、ああ。喜んでくれたのなら、なによりだ」
リタの感情が伝染したみたいに、彼の優雅さもまたたく間に消失した。
居心地の悪い空気を引きずったまま、ふたりは別れた。
ウィリアム王子が新しい婚約者のレネー・マーシャルを連れて研究の視察に訪れたのは、チームが発足してちょうどひと月経った時分であった。
研究チームのリーダーであるリタは、不安もあったが所長とともに二人の応対をした。
簡単な挨拶が済むと、所長とウィリアムが二人で話をするということで、リタはレネーの対応を任された。
ウィリアムから「くれぐれも頼んだぞ」と言いたげな強い視線を向けられ、リタは身を引き締める。
レネーへの対応は、決して間違えてはいけない。
応接室に移動し、リタとレネーは向かい合ってソファに座った。
「リタ・ハミルトンだったわね? ハミルトン……どこかで聞いたことがあるわね」
レネーの意思の強そうな視線がリタの目に突き刺さる。
長い前髪で目元を隠し、眼鏡までしているのに、見透かされそうで不安になる。
リタはさっと視線をテーブルの天板に落とした。
「辺境の男爵家です。西側の」
リタはぼそっと答えた。
「思い出した。へえ、あの家に同世代の子がいたなんて知らなかったわ」
「10歳からの養子ですので、こちらの方ではあまり知られていないかもしれません」
「身分も変わらないし、そんな畏まった話し方しなくていいわよ」
「ですが、未来の公妃様に――」
「いいじゃない。最近会う人会う人、堅っ苦しくて疲れるのよね」
レネーは首元に手を当てながら言った。
「そう……わかったわ。これでいいかしら」
「ありがと。ねえ、あんた。もうちょっとはっきりと喋れないわけ?」
リタはふと考える。
思えば、レネーとはまだほとんど話したことはない。
それならば、試しにはっきりと話してみるのもありかもしれない。
「話せるわ。あなたが望むなら」
それまでぼそぼそと喋っていたリタが声をボリュームを上げる。
「なんだ、できるんじゃない。あんたその方がいいわよ。綺麗な声してるし。あとはそのうざったい前髪もなんとかした方がいいけど」
「前髪はダメよ。秘密保持契約に反するわ」
「ぷっ。なによそれ」
何を話したらよいのかと、内心ヤキモキしていたリタであったが、同い年ということもあり、意外にも話は弾んだ。
レネーは勝ち気な性格で語気が強いところはあるが、話を広げるのが上手で、会話の苦手なリタでも話しやすかった。
お互いに去年まで学生であったことから、話の中心は学生生活のこととなったが、リタの話しやすい勉学の話題を選んでくれたことに、リタは感心した。
聖女の婚約破棄事件で急に後釜として公太子妃という大役を背負わされ、彼女の肩にのしかかる重圧は相当のものがあるだろう。
リタはそのことが気がかりであったが、レネーとこうしてしっかりと話したことで杞憂であったと安心した。社交界で最も求められる素質は社交性である。優秀であることなど二の次だ。だから、むしろ彼女の方が公太子妃に向いているとさえ思った。
「――で、わけもわからないままこうして公太子妃の仕事をこなしてるってわけ」
レネーが肩をすくめて言った。
「おかしいとは思わなかったの?」
リタが尋ねる。
「思ったわよ。おかしいところだらけでしょ。そもそもあたし、あれがいじめだなんて思ってないし。階段から突き落とそうとしたのは――まあ、さすがにやりすぎだとは思ったけど、今思うとそんなに強く押されたわけでもないのよね。階段の件以外は、王子の婚約者として正当な行動の
「わからないわ。次期公妃ともなると民に求められる清廉さも変わってくるでしょうし」
レネーが苦い顔をした。
自分がまさに清廉さを求められる立場にいることを思い出したのだろう。
「それはそうだけど。でもあたしはね、あの婚約破棄には何か裏があると疑っているわ」
レネーはリタに真剣な目を向ける。
「裏?」
リタが聞き返すと、レネーは深く頷いた。
「私もヘンリエッタも、政治的な抗争に巻き込まれたのよ」
「レネー――それは考えすぎよ」
独自の理論を展開しようとする彼女をリタは
「いいから聞きなさいよ。今ってヘンリエッタ以外は聖属性魔力を十分に使えないじゃない? そんな彼女が公妃になったら、スティエン家の権力が強くなりすぎるでしょ? 裏でどんな取引があったかは知らないけど、そういう政治的なバランス調整の結果、ちょうどよく公太子に色目を使ってる女がいて、ちょうどよく婚約者の聖女がその女に意地悪をしていたから、利用してやろうってことだったのよ」
「仮にそれが本当だとして、レネーはそれでよかったの? あなたの推理だと、ウィリアム王子はあなたのこと……」
「気にしないわ。むしろできすぎなくらい。王子の寵愛は――受けられたらそれは嬉しいけど、そこまでは望まない。だって――あの家から出ることができれば私はそれで――その上さらに、贅沢な暮らしまでできるんだもの。それで十分でしょう?」
レネーは一瞬暗い表情を見せた。
生まれ育った家に不満を持っているらしかった。
「あなたが納得しているのなら、それでいいのだけど。でも、公妃になるなんて大変じゃない?」
「それはまあ、その通りね。今も公妃に必要なことを毎日教育されてるし。でもね、あたしなりに結構楽しんでやってるわ。教養としていろんなことを学べるのよ? あたし、こう見えても学ぶことは好きなの。学院ではあの聖女の次に優秀だったんだから」
レネーは得意げに胸を張った。
「素敵ね」
レネーの前向きな考え方はリタにはないもので、純粋に感嘆した。
彼女は生きるのが
「でしょう? 暗記科目だけならあたしが勝ち越してると思うわ。まあ、あの女はあたしを認識してたかどうかも怪しいけど。ほとんど話したこともないし」
考え方を褒めたリタの意図とは異なり、レネーは勉強ができることを褒められたと受け取ったようだった。
今からステキな考え方ね、と言い直すのも気恥ずかしいから、リタは話を合わせる。
「そんなことはないわ。私も学校では常にトップだったけれど、科目によっては負けることもあったの。そういうとき、誰に負けたのかはやはり気になるものだし、ライバル意識のようなものすら持っていたわ。相手は私がそんなこと思ってたなんて知らないでしょうけど」
「へえ、そうなの」
素っ気ない口調だったが、彼女の表情は嬉しそうだ。
「それにしても、あなたは意外と聖女に好意的なのね。研究チームの間では、聖女ヘンリエッタは国家の危機を招いた無責任な女という意見がほとんどよ」
「それはそうね。でも、この感覚はたぶん、学院生にしかわからないわね」
「どういう意味?」
「彼女、学院では絶対的な存在だったのよ。卒業パーティまではだけどね。半ば偶像化されていたというか。それはきっと、聖女という肩書が無くても同じだったと思うわ。それくらい女として、いいえ、人として完璧だったの」
「――完璧ね。そんな素晴らしい方があなたに対して陰湿な行為を働いたわけだけど」
「聖女も女だったってことよ――だけど」
レネーが言葉を切り、遠い目をした。
「だけど?」
「やっぱり腑に落ちないのよね。ヘンリエッタがあんなことするなんて。だって二年生まではそんなことなかったし――そういえば、ヘンリエッタからの嫌がらせが始まったのって一年前の卒業パーティの後からだったわ。あの日、エンケル王国から王太子様も招かれていて……。まさかそのときに?」
レネーはリタに向かって話していなかった。
記憶をなぞり、考え事が口からこぼれて出ているようだった。
彼女は何かに気づいたように、ハッと息を呑んだ。
「レネー、なんの話をしているの?」
リタは思考の海からレネーを引き戻そうと声をかける。
「ねえ、リタ。あたしわかっちゃったかも」
「レネー、今のあなた少し怖いわ。あまり深く考えすぎない方がいいんじゃないかしら」
「あたし、ヘンリエッタも巻き込まれた側だと思ってたの! でも違った。あの子は最初から今の状況を望んでたんだわ!」
レネーの声が興奮で高まる。
「望んでたって、婚約破棄されることを?」
「そう。彼女にはきっと、取り巻く環境に不満があったのよ。ウィリアムに対してか、スティエン家に対してかわからないけどね。それで、そのことをパーティに来ていた隣国の王太子に打ち明けたら、王太子はこう言ったの。『俺様の国へ来い。俺様ならお前を幸せにしてやれる』ってね。その殺し文句にときめいたヘンリエッタは計画を立てたのよ。上手い具合にウィリアムから婚約破棄されるように一年かけてあたしをいじめたってわけ。そこに政治的な抗争も絡んできたのはさすがに彼女にとっても予想外でしょうけど」
「あなたは想像力が豊かなのね。でも、それはさすがに飛躍しすぎだわ」
リタはため息をついた。
「わかってるわよ。少し脚色を加えただけじゃない。でもヘンリエッタとアレクサンダー様のつながりができるとしたら、やっぱりあの日くらいだわ。きっと大筋は合っているはずよ」
「脚色するならアレクサンダー様の口調は、もっとまともなものにできなかったの? あの方はもっと……」
素敵だ、と言おうとしてリタは口を
男性に対してそのような感想を抱いたことは生まれて初めてで、そんな自分自身に戸惑いを覚える。
その様子を見たレネーが、ニヤニヤとした顔を向けてくる。
「ふうん? へえ? やっぱりリタもああいう感じが好きなんだ? 意外とふつうの女の子してるのね」
リタは顔に血が集まるのを自覚する。
「べつに、好きとか、そういうのではないわ。あなたのアレクサンダー様のモノマネがあまりにもおかしかったから、失礼にあたらないように直そうとしただけよ」
「すごい早口になってる。でも大変ね。肝心の王太子様は聖女に夢中みたい」
「聖女の婚約者に手を出したあなたには言われたくないわ」
「玉砕覚悟で行ってみなさいよ。あたしみたいにさ」
「そういえばあなた、聖女のことを完璧だとか言うくせに、よくウィリアム様に手を出せたわね」
「ふふっ。甘いわね。完璧な女が恋愛強者とは限らないのよ。王子が聖女に対して劣等感を抱いてたらどうなると思う?」
リタは一瞬考えこんだが、答えは思いつかない。
「わからないわ」
「正解は、
「与しやすい?」
「わかってなさそうね……。要は勝算はゼロじゃなかったってことよ。だから安心して。リタにもまだ勝ち目はある」
あくまでもリタがアレクサンダーに好意を抱いていると決めつけるレネーに、ため息がこぼれる。
アレクサンダーのことは嫌いではない。しかし、恋愛的に好きかと問われると、リタは今その答えを出すことを躊躇していた。
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