丹羽みらいのみらいの料理

藤原くう

第1話うちゅうてきこーひーのつくりかた

「はい、こんにちは!」

 ぎこちない笑みを浮かべた丹羽みらいが言った。

 シミ一つないコックコート、首に巻かれたネッカチーフ、腰に巻かれたエプロン……どれをとってもみらいを料理人たらしめている。キッチンに人間工学やらユーザビリティの観点から配置されたものは、みらいの半身といえる商売道具たちだ。

「丹羽みらいの『みらいの料理』へようこそ! 私の名前は丹羽みらいと言います。えっと、わたしはFFSの第一人者で……」

 その声は、震えている。緊張しているのだ。みらいにとって、生放送ははじめての試みだった。FFS――FringeFoodScienceの略で境界性食品科学のこと――という自らが起こした学問の楽しさを伝えようと思って、生放送という形をとっていたものの、いざやってみると覚悟はどこへやら、ガチガチに上がっていた。

 みらいは小さく首を振った。話したいのはそういうことではない。

「さ、さっそく調理に入りたいと思います!」

 舌を噛みそうになりながらも、みらいは何とか言いきった。調理に入ってしまえば、どこからともなくやってきたこの緊張と不安も、忘れてしまえるだろう。それだけ、エキサイティングなものなのだから。

 よし、と小さく呟いたみらい。キッチン下部の収納から、用意していたものを取り出す。

「今日はコーヒーを淹れたいと思います」

 ドンと置いたそれは、箱の中から身を乗り出しているネコのイラストがあしらわれた袋だ。その中にコーヒー豆が入っている。

「FFSでコーヒーの抽出を取り扱うのか、という疑問はあるかと思います。でも、FFSでは食品であれば、どんなものでも試してみるのです。料理の新しい可能性を切り開くためですので」

 そもそもFFSは特殊な学問というわけでもない。どちらかといえば、単純だ。既存の料理を超えた料理をつくる。それだけである。そのために、通常料理では使用しない道具やら技術やら動物やら植物やらを、ちょっとだけ使ったりするだけなのだ。だから異常者扱いしないでほしい――そうまくしたてようとしたみらいはぐっと言葉を飲み込んだ。

「まずはコーヒーについての説明をば」

 カンペを引っ張り出して、みらいはコーヒー豆の説明をする。

 コーヒー豆。実は豆ではなく種であるそれは、コーヒーチェリーの中に、おおむね二つ入っている。それを取り出して乾燥し、焙煎することであの茶色い豆ができるのだ。

「ここにあるのは、そうしてできたコーヒー豆を粉砕して粉にしたものとなります」

 袋を持って、振る。かさかさと粉が揺れる音。真空パックではないのは、これが長期保存を目的としていないからである。

「このネコちゃんに見覚えのある方はコーヒー通ですね。これはシュレディンガーコーヒーと呼ばれます」

 シュレディンガーコーヒーは、量子猫にオリンポス山で収穫されたサムライという品種のコーヒー豆を与えることでできる。量子猫は量子的な存在であり、マクロなコーヒー豆をほとんど消化することができない。ほとんどというのがミソで、量子猫の体内を通過し排泄物として排出される際に、発酵が進み独特の風味を持ったコーヒー豆ができる。それがシュレディンガーコーヒーであった。通称SコーヒーあるいはCatと呼ばれ、高値でやり取りされる。量子猫というあやふやな存在にコーヒー豆を与えることが難しいから、というのが理由の一つだ。

「もう一つは、量子ブレードでしか加工することができないからです。だから、豆自体が流通していない。量子ブレードなんて、ほとんどの家にはないでしょうし、わたしだって持っていませんから」

 幸いなことに、シュレディンガーコーヒーの産出地である火星には、量子関係の視線が大量にあった。そのために、量子猫が生まれて住み着いているという学説もあるが、とにかく、量子カッターはシュレディンガーコーヒーが見つかってまもなく生み出された特殊なブレードである。説明するとそれだけで論文が書けてしまうので、詳細は『氾濫する量子』という本を読んでほしい。量子ブレードが、量子カッターを風車のように配置したものであるということがわかるだろう。

 それはともかく、今はシュレディンガーコーヒーである。粉砕されたものがこちらです――言いながら、みらいが開封する。途端に、袋から芳醇な香りがキッチンへと放出される。何とも言えないすっぱい匂いは、量子猫の体内を巡った際に発酵が進んだからだ。

 開封した袋にスプーンを突っ込み、中から茶色い粉を必要な分だけ取り出す。Sコーヒーは袋の中を見ないようにして、取り出さなければならない。別に臭いからではなく――むしろ匂いはフルーティだ――量子の影響のせいで、中を見てしまうとその瞬間に酸化が始まってしまう。見なければ酸化しないので半永久的に保存がきく。画期的だが、その分値は張る。

 本来であれば、取り出す前に道具の説明をするべきであったが、緊張していたみらいは手順を前後させてしまった。これでは、コーヒー豆が酸化してしまう。手痛いミスであった。しかも、生放送であるがゆえにやり直すこともできない。混乱するかと思われたけれども、みらいはむしろ吹っ切れた。

「コーヒーの抽出に用いる道具ですが、今回はドリッパーを用いようと思います」

 おっとそこのあなた――とみらいは画面の向こうで座している視聴者へ指を向け、その指を振るけれど、それ以前から下の序の細い手はかすかに震えていた。

「ただのドリッパーではありません。FFSにおいてはただのドリッパーなど使用するわけがありません」

 みらいは、息を吸う。ここが今回の放送の核心部分ともいえる大切なことであったから、噛むわけにはいかない。

「このシュレディンガーコーヒーに最適なドリッパーは、渦巻銀河にゃんでしゅ」

 噛んだ。それも二回も。

 言った瞬間に、みらいの顔が真っ赤に染まる。恥ずかしくて、今すぐにでも放送を中止したい。冷蔵庫でキンキンに冷えたビールを一バレルは飲んで、噛んだ瞬間を一銀河中に放送されてしまったという事実をきれいさっぱり忘れたかった。

 でも、生放送だから、そういうわけにもいかない。

 一時の間フリーズしていたみらいは、すみませんでした、と小さく呟く。気を取り直して、作業を続ける。

「渦巻銀河なんてその辺にあるけどそれがドリップに使えるの、という疑問はもっともです」

 渦巻銀河とは、その名が示す通り渦を巻いた銀河である。銀河は大小はともかくとして、基本的には楕円と渦巻しかない。その他はレンズ型とかリング型とか、そもそも不定形、というのもある。そういうわけなので、渦巻銀河というのはそこここにあった。しかしながら、銀河というのはあまりに大きい。天の川銀河からすればその他の銀河なんて赤子も同然だが、それだって惑星やら衛星やらが億はあるというのだから、あまりに大きい。そもそも、液体を注げるのかという当然の疑問もあった。

 そう言った視聴者の懐疑の声を聞いているかのように、みらいはうんうんと頷いている。そのしぐさはどこかわざとらしい。

「しかし――できるのです、この革新的なドリッパーがあれば」

 意気揚々とそう言ったみらいは、引き出しから「革新的なドリッパー」とやらを取り出そうとする……のだが、どこか慌てている。動画上では映らないところに件のものを用意していたはずなのに、どこにもない。手だけを動かして引き出しをまさぐるが、体勢は傾いてしまっていて、顔には滝のような汗が浮かんでいる。焦っていることは明白で、このころには面白いやつがいるとギャラクシーネットワークでトレンド入りを果たしていたのだが、この時はまだ知らない。

 やっとのことでお目当てのものを見つけたみらいは汗をぬぐって、それを取り出した。

 そのドリッパーは形的に言えば、市販されているものと何ら変わらない。円錐形のドリッパーは黒い物体からなっているが、円錐形の頂点付近が膨らんでいるのが変わっているといえば変わっているか。

「これは、開発されたばかりのものなのですが、ここのふくらみがわかりますか。このふくらみには銀河があります」

 銀河があります、とみらいは続ける。自分が製作を依頼したものではあったが、本当に形になるとは思っていなかった。まるで夢か、詐欺にあっているかのような気分だ。しかし、現実世界に形となって存在しているし、光を反射しない謎の物体の覆いを外すと透明なふくらみの中で銀河がゆったりと回転している。飾りかと言われたらそうなのかもしれなかったけれども、知り合いの天文学者に聞いたところ銀河の振る舞いを忠実に再現していることは確かなそうで、もっといえば、黒い部分は樹脂製と見せかけて光を全く反射していないそうだ。ちなみにどうやってつくられたのかは企業秘密でみらいも知らない。

 銀河そのものが圧縮されて入れられているにせよ、銀河が再現されたものが入っているにせよ、やることはただ一つ。

 これでコーヒーを飲んだらどうなるのか、という話である。

「銀河が通常のドリッパーでいうところの、フィルターの役割を果たします。では入れてみましょう」

 そういうわけでようやく、ドリッパーにコーヒー粉末が入れられる――というわけではない。といっても、地味な部分なのでダイジェストである。

 お湯を沸かし――既定の温度に設定し、維持できるものだとなおいい――それをドリッパーと、その下のコーヒーサーバーにお湯を通す。こうすることで、抽出中に温度が下がるのを防ぎ、均一に抽出できるのだ。余談であるが、沸かした水はオリンポス山の雪解け水で、こういうのはコーヒー豆の産出地のミネラルウォーターを使うというのも手である。

 お湯はちょうど一秒で沸いた。それをドリッパーに注ぐ。透明な液体は、ドリッパー下部の三つ穴からコーヒーサーバーへ流れ落ちる。異常はなさそうであった。用意していたコーヒー粉末をドリッパーに入れ、ゆすって粉末を平らにならす。これで、準備は完了した。

「よし。それでは抽出していきますよ」

 お湯を沸かしたケトルは、先端が細くなっている。カップラーメンにお湯を注ぐのにはじれったいが、コーヒーをドリップする際には最適だ。そっと注いでいくことで、余計な刺激を与えることなく、全体にいきわたらせることができる。とぽとぽと注いでいくと、パチパチと泡がはじける。粉末が二酸化炭素を噴き出している。ここで一分計る。蒸らすことで、酸味やら苦みやら香りやらが抽出されやすいようにするためである。あまりに泡があるのも考えもの――コーヒー不足であった時代には、不純物のせいで爆発したことも――だが、今回はちょうどいい塩梅だったようで、みらいはほっと息をつく。スプーンで湿った粉末を攪拌する。

 二度目の注水。これを繰り返すことで、コーヒーは抽出されるというわけであった。

 三度目と四度目を行う間、みらいは気が気ではなかった。

 これで本当にいいのだろうか。

 そんな疑問が、先ほどからみらいの頭の中で繰り返されていた。こんな調子で、境界性食品科学の楽しさを伝えることができているのだろうか。できていないようないるような……もやもやとしたものがみらいの心の中を埋め尽くしている。不安のせいなのか、テストのときには行わなかった五回目の注水へと行おうとしていた。

 四回も五回も――百回やったって何も変わりはしないだろう。そう思われるかもしれない。しかし、違うのだ。

 みらいが使用しているドリッパーの内部には銀河がある。この際、天然物か人工物かは考えない。銀河には変わりなく、その銀河に対して、お湯を注いでいる。これは、言い換えれば外部からエントロピーを与えていることに他ならない。エントロピーを与えられた宇宙がどうなるのかは未だによくわかっていないものの、特異点に収縮していくか、逆に飛び散ってしまうかの二つが有力視されている。

 そうなるとわかっていたのならば、みらいはもう少し慎重になっていたかもしれない。しかし、実際のところは教えてもらわなかった。作った人間が教えるのを忘れただけだったのかは今となってはわからなかった。

 ポンと、一つ音がした。それは、真空のはずのドリッパーが弾けた音。

 ドリッパーがあったはずの場所にはドット抜けのような点が生まれていた。その無次元の点へと、みらいは吸い込まれていく。銀河自体がブラックホールと化してしまったのだ。普通、銀河すべてがそこまで成長することはなかったが、エントロピーを与えられたせいと考えられる。

 何かが起きた、とはみらいも認識しただろうが、それ以上のことはわからない。その時にはすでに、点へと落下しているからだ。

 無限の落下。終わることのない浮遊感は、自らの体が超重力に押しつぶされるまで続く。

 ふと、天を仰げば、無限大に広がる世界が見えた。崩壊しつつあるキッチン。その向こうには青空があり、その向こうには宇宙があって、異常を察した軍隊が動き始めている……。

 しかし、すべては後の祭り。

 でも、みらいにとっては幸いだったかもしれない。その瞬間を見ることはなく――みらいの視界は真っ黒に塗りつぶされたのだから。

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