7/8 正しい言葉に苛まれる

 7月8日。よいお天気。だけど気分は曇り。


 期末レポートの終わった彼氏が、今日は一緒にいると言っていた。目を離していると危なそうだからと。新居を一緒に見に行こうとか、そのまま外食をするのもいいねとか、昨晩はそんな話をしていた。が、全て無に帰す。


 1時過ぎ。「お腹すいたからお昼買いに行こう」とぐらぐら揺さぶられる。それでも起きられずにいると、彼はひとりでコンビニに行った。帰ってきてから、無理やり抱き起される。小さめのお弁当を食べたあとも、眠くて、何も手につかない。

「何かやりたいことある?」

 何も考えられなくて、訊いてみる。「うーん、荷造り?」本棚を眺めながら彼は言った。

「……無理」

 身体に力が入らない。頭がぼうっとして、思考がまとまらない。

「でも、やらなきゃいけないでしょ。もうすぐ引っ越しなんだから」

 ぐうの音も出ないほどの正論。荷造りをしなければいけないことは、私だってよく分かっている。だけど、やるべきことほど、今はできない。そういう精神状態だった。

 起きられないでいると、彼は段ボールを玄関から持ってきて、組み立て、本を入れ始めた。やめて。何が嫌なのか、うまく言葉にできないけれど、恐怖感に似た拒否感が胸の中で膨れ上がる。

 やめて、と言っても、彼はしばらく手をとめなかった。本棚の本が箱の中に入れられていく。クローゼットの底にぐしゃぐしゃに押し込まれている服を出して、「これ、いるやつ?」と訊いてくる。

 途中で、腕に縋りついて止めた。彼は困ったような顔をしていた。

 自分でも、何がこんなに嫌なのか、どうしてこれほど耐えられなかったのか、わからない。彼に理があることだけはわかる。自分が正しくないことも。


「自傷か煙草か、どっちかやめて」

「リスカは本当にやめて。俺が嫌だから」

 手の傷を見つけた彼のこの言葉も、きっと、疑いようもなく正しい。

 自分を傷つけることも、それをやめられないことも、私がいくら自罰感情からだと言葉にしても、きっと心底からは理解できないのだろう。彼はまっとうで、清くて、正しい世界を生きているから。

「何がそんなに嫌なの?」

 私がそう尋ねた時、彼は「なんというか、許容の外にあるっていうか」と、説明しにくそうに言葉を重ねた。あまりにも自明のこと過ぎて、改めて言葉にできない、という風に見えた。

 夕方からバイトがあるので、彼は4時半ごろ私の家を出た。


 目に見えて傷があると、きっと怒られる。それでも自分を傷つけることは止められなくて、私は手首をつねる。煙草を吸う。

 正しい言葉は、正しいからこそ、苦しい。自分が正しさの外にいるということを、改めてつきつけられるようで。


 今日、日本で一番長く総理大臣を務めた人が、銃で襲撃された。

 どこもかしこもそのニュースで溢れかえっていた。たくさんの動画、画像。

 それが人を傷つけうるものだとわかっている人が、呼びかける。

「しんどさを感じた人、感じやすい人は、すぐに情報をシャットアウトしましょう。自分の好きなことをしましょう。心を守ることが優先です」

 フォロワーさんからも、「しばらくツイッターから離れた方がいいですよ」とアドバイスをもらった。

 けど。ネットを見ず、ニュースを遮断したところで、自分の好きなものが手につくわけでもない。ただでさえ最近、好きなものを好きだ・楽しいと感じる回路がうまく動いていない。その上この不安なニュース。ざわざわした気持ちは、少し距離をとるだけでは簡単に収まらない。

 何をすることもできずに、なんとなく、呆然とTLを眺めてしまう。

 そうこうしているうちに、元首相が亡くなった。

「少しでもつらい人はネットから離れましょう!」

 正しい言葉が、またTLに流れていく。

 私は、正しくいられないまま。


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