夜と金の円舞曲

くもの すみれ

夜と金の円舞曲

 五年後の自分に手紙を書こうと言い出したのは、友人の木下園香きのしたそのかだった。園香は小学校時代からのあたしの友達であり、あたしの中では親友と称していたい人物だった。

 あたし、草松円くさまつまどかと、木下園香。か行で始まり、か行で終わる。あたし達は、ずっと一緒に学生生活を謳歌している。

 そんな彼女が唐突に、未来の自分自身に対して手紙を書こうなどと提案してきた理由がさっぱり分からず、小首を傾げるほかなかった。


「タイムカプセルなら小学校の時にもやったのに。」

「円、小学生と高校生で考え方変わったかもしれないじゃん。」

「それはそうだと思うけど。」

「ほら、五年後といえば私達って二十歳になるでしょ。十五歳ってなんだか節目にもちょうどいいじゃん。だから、ね。」


 曖昧で大雑把な理由付けに、イマイチ納得できない部分はあったが、これ以上追求したところで、具体的な言葉を聞けるとも思えなかったので、頷いて大人しく了承することにした。

 タイムカプセルというものを、このようなタイミングで行うとは想像もしていなかったが、まだ見ぬ未知なる自分へ二度目のメッセージを残す行為に、非常に気分は高揚していった。


「なんだかこういうの、ちょっとしたSFや青春の始まりみたいでワクワクするよね。」

「そうかなぁ。青春っていうのは同意出来るけど、SFってどこら辺が?」


 高校一年生となったあたし達は、クラスは違うが、毎日一緒に登下校をし、同じ美術部に所属した。学校側のルールで、一年生は必ず部活動に入部しなければならないのだ。

 部室に向かう途中、あたしは思ったことをそのまま園香に伝えたのが、あまりピンときていない様子で純真な賛同は得られなかった。

 ネイビーとホワイトの、ギンガムチェック柄のスカートがひらひらと膝の辺りで揺れ、あたし達の会話になんとない彩りと、高校生であることの実感を与えている。


「二十歳になっている頃には、私にも素敵な彼氏が出来ているといいな。」


 園香は瞳を輝かせ、天使に願いを乞うように呟いた。反応に困ったあたしは躊躇ちゅうちょなく部室の扉を開け、苦笑いで彼女の言葉を躱すことが精いっぱいだった。

 あたしにはよく分からないのだ。恋とか愛とか、そういったものは未だに無縁の世界のように思えていた。


「どうもー、って誰もいないじゃん。」


 園香は静まり返った部室内を見て、項垂れていた。いつもならば、最低でも二人は部室に居るのに、誰の姿もなかった。

 美術部は一年生から三年生まで全員含め十二人の部員がいる。しかしその殆どが所謂、幽霊部員で、在籍していることになってはいるが、部室に顔を見せたことは一度も無いような人たちばかりだった。熱量が違うのか、はたまた個人的な理由が他にあるのか。


金指かなざし先生も、明美あけみ先輩もいないなんて予想外過ぎる。」


 薄暗い部室には、木製のテーブルが前列と後列に三台ずつ分かれて置いてあり、合計六台が部屋の六割ほどを埋めていた。

 テーブルの上には、画材等が乱雑に放置されている。しかし、それらを使用するような人の気配は一切感じられず、仕方がないと諦めて、園香と適当な場所にスクールバッグを置いた。


「委員会の集まりってわけでもなさそうだし。先生はもしかしたら会議とかがあるのかもしれないけど、明美先輩はどうしたんだろ。」

「分からない。連絡、入れてみる?」


 園香は首を横に振った。あたしも彼女の考えに賛成だった。それぞれ何かしらの事情があって今日は部活に来ていないのだろうから、わざわざ連絡して事の真意を確かめる必要性は特に感じられなかった。

 明美先輩は三年生の先輩で、来年の春にはこの部活からも学校そのものからも去ってしまう。三年生の部員は明美先輩しかいない。


「今日はみんないないし作業はお休みして、手紙、書いちゃいますか。」


 自身のスクールバッグの中身を漁ると、園香はレターセットを取り出した。一体いつの間に用意したのかと驚くあたしに、得意げな様子でにやりと笑う。

 善は急げって言うでしょ、とことわざまで添えて、園香は次にペンケースをテーブルに置いた。


「タイムカプセルって埋める場所はもう決めてあるの?」

「そりゃもちろん。埋めるっていうか、隠すの。」

「隠す、って、どこに?」


 質問ばかりを投げ掛けるあたしに、園香は嫌な顔一つせず丁寧に答えてくれた。

 彼女の些細な大らかさが、あたしはすごく好きだった。気兼ねなく、素の状態のあたしで居られるって、当たり前のように思えるけれど、全然そんなことは無い。


「私の家。」

「え、園香の家?」

「そう。もちろん隠すのは私じゃなくて、お母さんに頼むから任せておいて。五年後、みんなが元気に居られたら無事にタイムカプセルを開けられるでしょ。だから、これは願掛けでもあるの。」

「それってどういう意味の願掛けなの。」

「私も円も、私のお母さんも、みんなが元気に居ますようにっていうことよ。」


 彼女はそれだけを言って、便箋に向かってペンを走らせた。あたしは、いつまで経っても一文字も書けないままでいた。五年後の自分に伝えたいことがまるで浮かばなかったのだ。

 気分転換でもしようと、書くことに夢中になっている園香をそのままに席を立った。

 部室内をゆっくりと歩きながら、画材の持つ独特な香りに嗅覚が鈍っていくのを楽しんだり、デッサン用に調達された彫刻をぼんやりと眺めたりした。

 そして、ある一か所で、ぴたりと足を止める。目の前には、キャンバスがあった。イーゼルに乗り、真っ白だったであろうキャンバスには、一人の青年が描かれていた。油彩の香りが鼻先を掠め、これが絵であることを痛感する。

 夜の海を彷彿とさせる、青みを帯びた黒い髪。金色の瞳と豊かな睫毛、そして鼻筋の通ったその青年は、いかにも美男と称されるであろう容貌をしていた。


「こんな人が居てくれたら、いいのに。」


 きれい、と言いたかった筈なのに、あたしはまるきり違うことを口にしていた。金色の瞳をまじまじと凝視し、切に願うといった風に呟いていた。恋愛のれの字すら知らないあたしが、誰かに対して欲望を向けている気がした。

 それは単に、青年の顔が物凄く整っているからというわけではなかった。もちろん、これほどまでに完璧に近い好みを捉えた人が現れて、あたしと恋をしてくれるのであれば、こんなにも幸福なことはないだろうが。


「どうかしたの、円。」


 園香に問われたが、あたしはなんでもないと誤魔化した。

 彼の存在を、他の誰かに魅せたくはないと思ってしまったのだ。自分の作品でもなんでもないのに、どうして独占しようとするのか、感情に解説が付けられなかった。園香をちらりと見遣れば、まだ彼女は集中したまま便箋に向かっている。彼女は情熱的な人物なのだ。


「……羨ましい。」


 独り言は、彼にしか届かないものだった。カリカリとペンが紙に文字を刻んでいく音だけが部室には響き、その効果音によりあたしの言葉は簡単に搔き消された。内心、安堵し、青年を見据えた。


「あたしも、あんな風に何かに夢中になってみたい。恋だって、いつかは出来るのかな。」


 応えてくれるはずもない青年に投げ掛けた。表情一つ変わらず、青年は金色の瞳で、なにかをずっと見ている。それがあたしであるのか、天井なのか、違う物体かは不明だ。青年は穏やかな顔をしていた。僅かに、口元を綻ばせている気がするのだが、きっとあたしの都合のいい妄想だろう。

 十八時になった頃、あたしと園香は部室を出て、職員室に向かった。金指先生の机に行くと、先生は何食わぬ顔で椅子に腰かけており、二人揃って肩を落とすことになった。


「なんだ、草松さんも木下さんも来てたのかい。」


 金指先生は五十八歳になる美術の先生だった。美術部の顧問としては最適任だと思われる先生は、纏う雰囲気になんとなく小花が舞っていて、黄桃色の優しい空気が漂っている、ように見える時がある。

 あたしは金指先生に、部室の施錠を頼んだ。すると先生は相分かったと頷き、そのまま部室へと直行しようとする。園香と共に先生の背を追いかけた。別段このまま帰ってしまえばよかったのだが、もう一度、あの青年を見たい気持ちがあった。

 どうしてこんなにも惹かれるのかは、やはり分からなかった。


「そういえば文化祭までに作品は出来上がりそうかな。」

「あ、はい。大丈夫だと思います。」

「私も間に合います。」


 美術部員は毎年、文化祭に自身の作品を展示しているらしい。なので幽霊部員を除いた部員達はみんな、作品に没頭し、文化祭の行われる十月に向けて頑張って作業を続けていた。

 そうかいそうかい、と金指先生はどことなく嬉しげに頷いて、部室の扉の前に立つと、そのまま鍵穴に鍵を差そうとしていた。


「あっ。」

「ん、どうかしたのかい。草松さん。」

「ちょ、ちょっとだけ。いいですか、先生。」

「構わないけど。何か、忘れ物かい。」


 まあそんなところです。と、適当に相槌を打って、園香と先生をそのまま置き去りに、あたしは急いで部室に入った。

 キャンバスの前に立ち、ごくりと息を飲み込む。青年は金色の瞳を暗くなった部屋の中でも、きらめかせていた。

 触れたい。素直に、そんなことを思った。

 触れてみたい。けれど、それは決して許されることではなかった。彼に触れるという行動は、彼を壊し、そして憧れの先輩の作品を汚してしまうことと同じだ。

 何故、どうして、彼はキャンバスの中にしか居てはくれないのだろう。そんな情けない我儘と本気で事実を悔やんだ。平面の世界でのみ生きる彼と次元の違う、あたし。


「あなたの名前も知らないなんて、悲しい。」


 知りたい。触れたい。それらが交互に脳内を占領していく中、金指先生が戻ってこないあたしを心配してか部室内に入ってきた。

 ぎくりと身体を強張らせるあたしに、先生は驚きも問うこともなく、何故か、そうかいそうかい、と頷いてすぐに部屋から出ていった。



 その日、奇跡が起こった。なんと青年が出てきたのだ。あたしはタイムカプセルに書く手紙の内容に悩んでいた。

 場所は特定出来なかったが、一面草原に覆われ、なんとなく異質さを覚えた。あたしの隣には当たり前のようにあの青年が、明美先輩の描いた青年が座っており、真っ白な便箋を覗き込んでクスクスと笑っていた。


「それじゃあ、五年後の自分が可哀想だよ。何か、言葉を贈ってあげなければ。」

「そうなんだけど、ちっとも思い浮かばないの。」


 どうしよう。彼を見上げ、眉を八の字にするあたし。彼は、そうだなあと柔らかな声音で答えた。こんな声をしているのか、あたしは夢のような気分で恍惚に耽った。

 彼の提案を何個か聞いて、あたしはすらすらと便箋に文字を書いているのだが、どういうわけか内容だけが霞んで読めなかった。


「あたし、草松円っていうの。」

「僕は、荒谷優大あらやゆうだい。」

「あらや、ゆうだい。」


 彼は、円ちゃんとあたしを呼んだ。いきなり名前で呼ばれたものだから、あたしは嬉しいやらびっくりするやらで、間の抜けた、へ、としか言えなかった。


「僕を見つけてくれてありがとう。円ちゃん。」


 でも、どうしてこんなに嬉しいのか、分からない。手紙の内容も分からない。彼がどうしてあたしの隣にいて、声を発しているのかも、分からない。

 分からないことが点と点になっており、それらを結び付けた瞬間、意識は覚醒した。ああ、これは夢だ。

 その日、部室には明美先輩がいた。あたしは先輩に、彼の名前を聞いた。


「この子の名前は、荒谷優大。」

「あらやゆうだい。」

「そう。夜空を具現化させたかったの。」


 夢の中で教わった通りの彼の名。じっくりとキャンバスにいる彼を見つめ、ごくりと息を飲み込んだ。もしかするとまだ夢を見ている最中かもしれない。頬を抓り、痛みが走ったことで、現実だと判断するも、信じ難い。

 明美先輩は、意地らしく微笑んで言った。


「草松さん、彼に興味があるの?」

「えっ、なんでそんなことを。」

「だって、熱烈な眼差しで彼を見ているもの。」


 そんなに分かりやすかっただろうか。狼狽えるあたしに、明美先輩はクスクスと声を漏らした。

 先輩の言うことは多分当たっている。あたしは、明美先輩と話しているのに、意識は彼に注がれてばかりで、気になってきになって仕方がない。

 夜空を具現化させたかったという彼の名前に、それらを想起させる漢字がないことが、なんだか彼らしい気がした。優しくて、大きい。そこだけを切り取ると、夜空とも、満月とも、あったかいお風呂とも、思える。


「そうだ。文化祭が終わったら、彼を貰ってくれないかしら。」

「あ、あたしが、ですか。」

「うん。それが一番いい気がするの。私も、この子を本気で大切にしてくれる人の傍に居てくれるなら、安心出来るから。」


 明美先輩に、これで決まりねと半ば強引に約束を取り付けられ、話は終わりを迎えた。それから文化祭までは月日があっという間に流れ、あたしも園香も作品作りに勤しんだ。

 あたし達は揃って水彩画を選び、園香は朝を、あたしは夜を描いた。モチーフが先輩と重なることを詫びたが、明美先輩は気にしていない様子で、笑顔で快諾してくれた。

 あたしは、自分の作品に星も月も、描けなかった。

 真っ暗闇の中に、彼の瞳があってほしかった。そういう気持ちが膨らむほど、あたしの絵は色を濃くしていく。あたしは、明美先輩に断りをいれ、何度も彼を眺めた。一言も言葉を交わせないあたしと彼。あの日以来、夢にも現れなくなった荒谷優大を、見失いたくなかった。触れたい、触れてみたい。夢で会えたのなら、よかったのに。


「どうしてあなたに心惹かれるんだろう。」


 答えは今も明確には出てこない。けれど、それは認めてはいけない気もしていた。一度自覚してしまえば引き戻すことが出来ない感情が、もうすぐそこにまで迫ってきているように思えた。あたしは、急いで真っ白なままの便箋と、ペンをスクールバッグから取り出した。彼の前で、必死に五年後の自分へと手紙を書いた。


 五年後のあたしへ

 荒谷優大という青年への答えは出ましたか。あたしは、分かっているような気分でいます。夜空と月と星を眺めていると、彼のことを思い起こします。キャンバスの中にしか彼がいないという真実が、どうしたって悲しいんです。五年後、まだ、彼に心惹かれているのであれば、その時は、そのときはどうか彼を目一杯に、大切にしてあげてください。いつの日か、きっとまた。幻想の中でも会えると信じて、愛してあげてください。だって彼は、キャンバスの中でも、生きていてくれる筈だから。


 彼の瞳が輝いていた。金色の双眸が、あたしを見ている。あたしは、そっと彼に手を伸ばした。決して触れることの出来ない彼に、どうしたって触れてみたかった。ぽたりと頬に、粒が伝って、あたしは泣いていた。彼は、ちょっと寂しそうにほほ笑んでくれていた。



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