冷えたウイスキーのある柔らかい構造

赤川凌我

プラトンとアリストテレス

プラトンとアリストテレス

 僕は日本の芸術家、鹿島川我だ。厳密には画家だ。18歳でうつ病を抱えてからは家に閉じこもって一人で絵画に没頭している。僕が憧憬しているのはゴッホ、フィンセントファンゴッホ。彼は僕にとっての英雄だ。東京の二流大学の英文学科に通っていたものの、うつ病によって僕は大学をやむなく退学した。両親にその事を話すと、「そっか、大変だったね。でも人生は長いのよ?これから調子を万全にしてから社会人になれば良いし、資金があって、意欲があるのなら機が熟した時にまた大学に入れば良い。あなたは昔は学年一位の品行方正、成績優秀の生徒だったじゃない。とりあえず、今は心の充電期間だと思って休んで」と僕の母親は言った。僕もその言葉をもっともだと、正論だと思った。そして今は東京郊外のアパートで独り暮らしをしている。そもそも上京を機に僕は一人暮らしを始めていたのだ。今は10月、季節は秋で、僕は運動も兼ねて、なにやらSNSで有名な紅葉に横溢した公園に行った事もある、まあ三日前の話だが。僕は今はニートだ。生活保護の需給も視野にいれてはいるものの、親からの仕送りと今までの貯金があるので何とか健康で文化的な生活は遅れている。

 「こんなとこかな」僕は稲妻のように描いたデッサンを基としてまずは絵画の下書きを完成させた。僕はうつ病で大学を退学した時に、画家として身を立ててやると思った。30歳になってもまだ落伍者やニートなら死んでやる、そうも思った。僕はスポンジのように絵画を勉強した。絵画史を筆頭として、表現技法や、彩色の極意、など様々なものを学んだ。また21世紀は情報化社会であるので、ネットからも有益な情報を入手した。無論ネットの情報は玉石混合だし、書いている情報のことごとくを鵜呑みにする程僕は低能ではない。僕は中学時代、高校時代には理論物理学の書物を読んだりしていた。あの頃は将来画家になろうとは寸毫も思わなかったが、僕は中学校時代に他の少年少女や、時には教師までも一緒くたになって、僕の絵画の才能を褒めたたえてくれた経験が何度かある。中学時代、僕は完全に社交的な男子であった。休日はほぼ例外なく僕の家に友達が来ていた。僕は彼らと馬鹿な事をしたり、馬鹿話をしたりして過ごした。中には動画サイトに共同で作ったナンセンスな動画を投稿したりした。今考えても非常に懐かしい。それと今の孤独な日々が僕の眼前には広がっている。首都にいるのにここまで孤独なのはある意味皮肉である。

 僕は高校時代の中頃まで、一人称は今の「僕」ではなく、「俺」だった。しかしそれは付和雷同の産物に過ぎない。僕にはやはり「僕」の一人称が自分のキャラにあってるし、しっくりくる。「俺」なんてこけおどしだし、何だか野卑だ。こういう思想を持っているという事はもしかすると僕は「俺」という一人称を繁多に使用している諸氏を内心では馬鹿にしているのかも知れない。しかしそれは別に構わない。人間は万人を平等に愛する事など理論的に不可能だ。僕は数時間音楽を聴きながら、過去を回顧しながら、現在の画家としての活動との対比、コントラストを楽しんでいた。僕は今、油絵を描いている。僕の住んでいるアパートは8畳程の広さで、アトリエは部屋の一隅に象徴的に鎮座している。 僕が本格的に絵画の勉強を始めたのはここ数か月だったが、それ以前にも少年期青年期を通して様々な巨匠の作品を鑑賞し、無意識にその魅力を倒錯しようと懸命の眼で考えていた。ビートルズがそうであったように、自分達の芸術を全くのゼロから始め、発展させる事は出来ない。またかのアイザックニュートンだってケプラーやコペルニクス、ガリレオなどの存在がなければニュートン力学の着想をあれほどまでに壮大な代物にする事は出来なかっただろう。自然科学における史上空前の天才とも称される彼でもそうなのだから僕のような雑魚でもそうなのだ。このように僕は実は科学史にも若干の興味関心を抱いていた事があり、高校時代は科学史の本を貪り読んだりした。あのアインシュタインですら、パラダイムシフトの規模から見ればニュートン未満であるとも言われている。ニュートンは偉大だが、僕は彼とは違い、画家として功績を残したいのだ。僕は人類史上最高の画家になりたい。ダヴィンチやダリ、ゴッホを超えて。

 僕は自分の作品に彩色をし始めた。実は僕は彩色は大の苦手だ。中学高校ではデッサンは上手いと教師からよく褒められたものだが、色を塗れば自分の作品は完全な駄作に転じる事もしばしばだった。一部の生徒からは「へたくそ」だのと歯に衣着せぬ事をいう連中もいた。僕は絵画に対して自信を持っていたので観衆の罵詈雑言を経て衝撃を受けた。しかし一部では僕の絵画を「天才だ」という生徒もいた。実際天才の仕事というものは、斬新で革新的なものであればあるほど、周囲からの反発も多い。したがって天才の仕事が理解されたり評価されたりするのには凡人や秀才のそれと比べてタイムラグがある事は必至だ。

 僕は、アートは不完全なものだと思う。アートは人間の文化の水準や価値観の水準、時にはバイアスの水準において非常に評価が変わってくる。弁証法的発展を経て、アートは容貌を変えていく。敢えてヘーゲルの言辞を使用すればアウフヘーベンというものだ。実は僕は高校時代に暇を持て余して難解な哲学書を読んでいた事もある。僕は高校時代は読者としての黄金時代そのもので、豊穣かつ柔軟な感性で僕は自分の食指の動くまま、様々な本を読んだ。高校時代の人間関係は中学までの浅く広くから、狭く深くになっていった。高校時代は川本なんて親友も出来た。非常に良い思い出だ。今高校時代を思い返すとノスタルジックになるあまり思わず涙腺が緩くなってしまう。泣くな、男だろ、僕は作業をしながらそう自分に言い聞かせた。

 そしてそういった日々を5日程過ごしたら僕の絵画が完成した。僕は自分では傑作だと思っているがそれも今だけだろう。時間が経てば自分の作品の粗探しをしてしまうのが僕の習性だ。しかし僕はあくまでも自分の理想を綿密に自分の作品に落とし込む事で昇華する事が出来ているこれまでに描いた油絵の作品は4点。鉛筆や色鉛筆がメインの絵画は13点である。なまじ時間があるだけに僕の画家活動は非常に血気盛んな力量に漲っていた。

 そしてそれを画商の下に持って行った。安価でも良いから買い取ってくれないかと言った。画商は僕の作品を見るとそれまでの傲慢で冷笑的な顔面から一転、顔色が変わった。「鹿島さん、これ、あなたが?盗作やトレースではないですよね?」彼はわなわなと口を震わせながらそう言った。僕はかぶりを振って、「無論、盗作の類ではありませんよ、モチーフから原案から、絵画の表現技法まで、全て僕が創りました」その絵画は確かに新たな表現を使用していた。一般相対性理論から着想を得た絵画構図を作品内に採用していたり、彩色も印象派のようでありつつも、シュールリアリズム的な絶妙なバランス感のもとで成立していた。風景画は写真の風景と遜色のないレベルの写実性を堅持している。そして何より絵画の中心から少し右にずれた位置にウィトルウィウス的なある意味での比率を計算した美貌の女性が佇立している。画商は言い値で買いましょうと言った。しかし僕は絵画の平均的な金額を知らない、相場も知らない、したがって僕は彼に聞いた。「通常、傑作と呼ばれる絵画はどれくらいの値段なのですか?」横で僕らの一部始終を見ていた画商の婦人のような女性が「そうねえ、大抵50万ってとこかしら」「50万?」僕は自分の耳を疑った。その金額だけで僕の半年分の生活費には相当する。そして僕は勇んで、「なら50万で」と言った。かくして僕の絵画は50万もの金を稼いでくれた。おそらく著作権料やら諸々の商業利用費などを考慮すれば画商が吃驚仰天する程の絵画ならもっと稼げるだろう、僕は一抹の残酷な気持ちを感じながらほくそ笑んだ。

 僕はこれまで様々な絵画を描いてきた。そしてそれらでも幾らか金を稼いだ。そして今や理想的な生活を謳歌しようとしている。次第に僕の周囲の世界は僕の中の独善性が肥え太っていくのに伴って何かデフォルメされたような、理想的な形状、趣を帯びて僕の脳髄に登場するようになった。僕は普段絵画の夢は見ない。ショートショート作家のように奇想天外なアイデアや、奇抜なオチを思いつくのは極めてまれであるが、とにかく夢の中では絵画以外の要素が支配的になっていた。しかし芸術は本来自由なものである。創作の過程で如何に淫猥なことだろうと、凡庸な事だろうと、それらを引き立て、美しさや獰猛さ、戦慄、不安などを加えて高次の芸術作品に仕上げるのが芸術家の仕事だ。少なくとも僕はそう考えている。僕はそういった自分の理想を自分自身のアート活動の骨子としていた。

 画家活動の休憩として、僕は小説を読んでると突如自分の五臓六腑に電流が走った。僕はまさに理想主義を掲げる理想主義者だ、すぐ近くに現実主義者がいれば、あのルネサンス期の巨匠、ラファエロの再現が出来るぞ。これはどういう事かと言うと、ラファエロのアテネの学堂では中央にレオナルドダヴィンチの肖像を模したプラトンと鑑賞者から見て右隣にいるアリストテレスが、互いに歩きながら討論をしているのが、プラトンは理想主義者故、象徴的に指を天空に向け、アリストテレスは象徴的に手のひらを地面に向けている。僕はそれを思い出し、そのように考えたのだ。常識的に考えれば考慮にも値しないアイデアだが、アートにおいてどのような産業廃棄物であっても創作者の裁量に合わせて自由自在に表現できる。僕はそういった思想を持っているため、これは思い立ったが吉日と思った。

 しかしそれをアートとして昇華させてしまうのも何だか腑に落ちない。僕は画家として活動していく中で様々な技術を他の画家から吸収したものの、にべもなく全てをそのまま真似るというのはどこか癪に障る。さて、どうしたものか。そして僕は思い立った。まず最初にこのアイデアを絵画以外で表現してみればどうだろう?自分なりに表現したものを更に頭の中でこねくり回していくのだ。自分で創った絵画以外のそのアイデアの実現を鑑賞者が見てどう思うか、その反応を見て、虎視眈々と絵画創作の機会を待つのだ。

 まあでも、今日は休もうか、何だかだるいし。僕はそう思い、眠たくなるまで騒々しいロックの音楽を聴いた。20世紀以降の音楽は全て、20世紀以前のクラシック音楽の反復に過ぎない。僕は昔塾講師が言っていたその言葉を音楽を聴きながら思い出した。

 翌朝、僕は朝の9時過ぎに目覚めた。ほとんどニートであるため、そんな早くに起きる必要はないのだが。僕は少し絵画の着想を得ようと、そして自身の感受性を涵養させようと、今日から鎌倉へと出かけた。一人旅というやつだ。僕の顔面は端整で、丁度芸能界のイケメン俳優のような顔をしているのだが、今までの人生で一度も彼女が出来た事がない。また大学入学で上京してから、僕はうつ病を発症したので、当然その間は抑うつで友人作りも出来ず、友達は一人も出来なかった。今はうつ病は大体直ってきている。これまでの僕の記述や生活スタイルを見ても一目瞭然なように、細心の注意を払い、より一層レジリエンスを身に着ければ向かうところ敵なしだろう、鬼に金棒だろう。しかし僕は高嶺の花の男版なのだろうか。僕は自分の自画自賛の心の流れに辟易として、いつの間にか乗っている鎌倉行きの列車の窓の外を見やった。秋だからだろうか、紅葉で様々な個所がまだらに美しい紅蓮や黄の色を着飾っていた。僕は注意欠陥多動性障害を小学校の頃疑われた事がある。教師によって僕の母にその事が話されたようだ。僕の注意欠陥多動性はそれほどのものであったらしい。確かに落ち着きのなさや興味のベクトルが縦横無尽に変転するのを見れば僕もADHDかも知れないと思った。しかし実際そのような気質が僕の画家活動においても有効活用されている事もまた事実であるので、まあ物事は一長一短だという事なのだろう。

 僕はスマホでネット記事を見た。国民的女優と言われている著名な女優がインディーズバンドのバンドマンと結婚、少年の無免許運転による小学生児童が死亡、過失致死罪で犯人は自分の犯行を認めている、東京に大規模ミュージアム設立、記念式典には在日大使館が多数来場。僕はそのような烏合の衆とも換言できるネット記事を見て、愚民たちの神経の世界の奔流が僕の脳髄に入ってくるような錯覚を起こし、僕は音楽鑑賞をしながらまた外の景色を楽しんだ。鎌倉に到着するまで電車には40分かかった、各駅停車の電車であった。

 僕は鎌倉で電車を降りた。するとご機嫌そうなおば様方が僕に「お兄さん、背高いねー。どこから来たの?彼女と一緒じゃないの?」と言ってきた。確かに僕は巨人レベルではないが一応190㎝の長身である。確かに僕の顔面は整っている方である、淑女の皆様型はどうして平日のよく晴れた午後にこんな場所にいるのかと思ったのだろう。「東京の北の方の郊外から来ました。僕は画家で、今日から羽を休めるために観光を兼ねて一人旅に来たんです」と僕は彼女達に言った。「そうなの。観光客なの。何もないところだけど、存分に楽しんで頂戴ね」と一群の内の一人が言った。何もないところ?とんでもない、僕には突拍子もなく素晴らしいところだ。しかしそう言いたい気持ちは何となく分かる。僕も実は岐阜の観光地付近の出身なのだが、当時は何故観光客がこんな辺鄙なところを有難がるのだろうと疑問に思っていた。そして僕はどうせ暇だし、温泉に入る前に紅葉を堪能しようかと思った。僕は暫く温泉宿までの道のりを中途で休憩したり、立ち止まったり、写真を撮ったりしながら歩いて行った。鎌倉、確か夏目漱石の『こころ』でも出てきたっけ、先生の手紙よりだいぶ前の方だったけど。そういえば大学にいた頃夏目漱石の講義を受けたな、と僕は思い出した。『こころ』は僕の時代高校の現代文の教科書にも掲載されていたし、実際テストでその箇所が問題となったりしていた。しかし僕は国語というものが頗る苦手だ。僕は学校教育の形式的なフレームに従って出来た問題を解く気にすらならなかった。これは数学でも同様だった。しかし数学と国語の相違点は数学はそうした抵抗感や行く手を阻むような倦怠感があったにせよ、並程度の成績はもらっていた。しかし国語だけはからっきし苦手で、模試の偏差値ではずっと偏差値20代であった。僕は本当に一部の天才たちがそうであったように学校が苦手で、既存の学校教育の枠にははまらない人間だったのだろう。ひょっとすると僕に彼女が出来ないのはそういった僕の天才性に基づく孤高な雰囲気が多少なりとも影響しているのではないか?しかし、その真相は五里霧中の闇の中。

 僕は温泉宿に着いた、時刻は18時。僕は早速宿のチェックアウトを済ませ、浴室に急いだ。僕は実は高校時代、親などによく温泉に連れてもらっていた経験がある。温泉は本当に良い。体と精神の毒を癒す。経験則なのだが。風呂には5人いた。その内の一人は何故か驚いたように僕の顔を見た。何かついていたのだろうか。しかし僕はそんな人々の一挙一動に頓着せず、温泉を楽しむ事にした。するとそこそこ長身の男が僕に話しかけてきた。「あんた、鹿島川我だろ?あんたの絵画見たことあるよ。あんた、世間では中々の有名人らしいぜ。俺自身のあんたの絵画は気に入ってる。今日はどうしたんだ?呑気に温泉旅行か?」僕は馴れ馴れしさに少し、驚きつつ。「そうだよ、僕は温泉旅行をしにこの鎌倉に来たんだ。今まで色々な人が鎌倉を称賛しているのを見てね、丁度頃合いだし遂に温泉旅行に来たんだよ」僕はそう言った。

彼はこう言った。「肖像の眼鏡は、伊達なのか?」「いや、僕は親譲りの近視であれは度付きの眼鏡だよ。光がまぶしい時は度付きのジョンレノン風のサングラスをつけたりしてるけど」「知ってるぜ、あんたのサングラス。ジョンレノンより似合ってて、相変わらずかっこいいぞ。ちなみに俺の名前は根岸泰斗、年齢は25歳ね、一応フリーランスで働いているんだ。よろしく。もし時間があれば風呂上りに一緒に話さないか?孤独感も少なからず浄化されると思うぜ」僕はそれを快諾した。確かに、誰かと話したい気分だった。

 僕は風呂から上がり、衣服を着用したのちに自分の短髪を乾かした。風呂上がりに何か冷たものが飲みたくなり自販機のコーヒー牛乳を買って飲んだ。僕は実はのぼせかかる程の長湯で、根岸はしびれを切らして先に上がったようだ。ロビーの椅子に座っているとの事だったので僕はいそいそとそこに行った。すると根岸は椅子に座っていた。僕は彼に「おまたせ」と言った。「本当だよ」彼は苦笑しながら言った。「あまりにも長すぎるから一旦喫煙所で煙草を吸おうかと思ったぜ」「たばこ、吸うんだ」「そりゃね、煙草は反禁煙主義の連中が忌避する程危ないものじゃないぜ。実際医学的にもその事が公開されているんだがメディアは何故かそういったアンチテーゼを覆い隠してる。これはメディアの弊害だと思うね。そして彼らは下僕を従え、恐怖と消費で国民を支配している。悲しい事にね」僕はぎょっとした。驚いた、少し軽薄そうな茶髪の男だと思っていたが、中々鋭い意見も言えるのか。僕は「根岸さんはどんな音楽聴くの?」「俺はちょっと古臭いと思われるかも知れないけど尾崎豊とかだよ」僕は彼がそんな渋い音楽を聴くことにまた驚かされた。本当、人は見た目によらないものだ。根岸は言った。「鹿島の好む音楽、俺も聴いてみたが、あんまり良さが分からなかったかな。俺はやっぱ邦楽かな。鹿島は邦楽を酷評したりしてるが、視点を変えればあれ程温かみのあるものはないよ。なんて言うのかな、お袋の味ってやつ?俺は22で語学大学卒業して、海外旅行して、最近やっと帰ってきたとこ。まさかここで鹿島に会えるとは思わなかった。お前は俺の尊敬する人間だからな。存命の人物で一番俺が尊敬しているのはお前だよ」「まあ好きな音楽聴けば良いと思うよ。そこまで尊敬してくれるのは嬉しいけど、僕はそんな大仰な人物じゃないよ。僕も小市民だし、学生時代は成績不振者に不名誉にも名を連ねられていたし」「お前には学校が合わなかっただけだろ。日本人が使っている矮小かつ脆弱な杓子定規なんて気にするなよ。ジャップどもの流行なんて大抵、大した事がないものだし、彼らの多くはまだ長い物には巻かれろ精神で、群れるわ、出る杭は打つわで散々なものさ。未開な村社会のようだぜ。反吐が出る。あんたは多くの人の心を揺さぶってる。日本でもあんたはそこそこ有名らしいけど、伊ヨーロッパやアメリカではもっと人気だぜ。多分お前が欧米に行ったら、皆大騒ぎすると思うぜ」そこまでなのか。僕は彼の言葉の真偽が未だ判別出来ずにいた。でも孤独にいる時間よりはこうして誰かと話している時間がはるかに良かった。孤独は創作において有的に働いたりもするが、それは同時に狂気の深淵であり、覗きすぎると精神が破綻する。諸刃の剣だという事だ。

 「俺はね、鹿島を買っているんだよ。俺たちは良きビジネスパートナーになれる。俺は今翻訳家兼アーティストとして活動しているんだが、どうだ、鹿島さえ良ければあんたの作品をもっと大々的に紹介してやっても良いぜ?あんたは確かブログでも中々刺激的な文章を書いているみたいだな。それらもあわせて、どうだ、俺とビジネスをしないか?きっと儲かるぜ、お前は大金持ちになる。こんな申し出、千載一遇のチャンスだと思わないか?あんたは確かに芸術上の大天才だが自分をプロデュースしたりする能力が弱い。俺ならその魅力を存分に引き出せるぜ?悪い話じゃないだろう?」根岸は悪党のような笑みを浮かべながらそう言った。僕はその提案を受け入れた。そしてその後も僕は自分自身の創作のアイデアを彼に話し、彼はそれを評価したり、その他、身の上話やら馬鹿話やら僕たちは様々な話をした。「うつ病なんてものはもはや、現代病だよな。統計によれば日本人の結構な割合がうつ病か軽度の鬱うつを抱えているらしい。巷ではそういったうつ要素のあるコンテンツが席巻したりしているし、世も末かもな」彼は物騒な事を言い出した。「現実を見れば自分は一人じゃないって分かるだろ?それでも自分は一人だ、とか、俺たち日本人は堕落し、日本国家そのものも零落するだけだ、なんて周囲を憚らずにいうやつもいるが、外国だって怪しいもんさ。GDPの改竄、例えば中国なんかでも輸出と輸入の金額が一致していないし、世界はでかいハリボテみたいなもんさ。何とかしてごまかして体面や威信を保っているようだが、その嘘や不正に気付いてるやつも中々その事を吹聴しない。どうしてだか分かるか?彼らはその事をもし明晰判明に社会に伝えれば狂人扱いされて消されてしまうからだ。それこそが、狂気じみた現実なのだ」彼はそのように持論を展開した。僕はこういった事を率直に言う彼の性格を頗る気に入った。良いビジネスパートナーが出来た気分であった。「鹿島、知ってるか?最近の若い連中には鹿島派なんてあんたのファンがいて、あんたがかけてるような感じのサングラスをつけるようになったんだ。今やあんたは流行の人で、成功者のスタンダードなんだよ。あんたの絵も評論家から激賞されているらしいし」確かに僕は街中で丸サングラスをつけている連中を最近よく見かけるようになった。僕は言った。「日本人はサングラスを人相悪くなるとか、他人の目を忌憚してつけなかったりしてたけど、今ではサングラスもようやく根付いてきたか。僕達視覚過敏者の時代だね」

 そして僕たちはそれから仕事を一緒にした。そして莫大な金と名声が僕の下に来た。某日、僕が26歳になっていたある冬の時、根岸は僕に一転して「実は、俺の浮気が俺の夢にばれちまった。慰謝料が1億円だって、俺の貯金じゃ払えないよ。鹿島、どうかお前が肩代わりしてくれないか?頼む」妙な話だ。後々聞くところによると彼には浪費癖があるらしく、またこれも初めて発覚したのだが躁鬱病も持っているらしく、躁の時に気分が高揚して使いすぎてしまうらしい。しかし浮気か、僕は現実の小市民としての生活にはほぼ力を入れず、理想の世界の希求をほとんど爆発的に行ってきた。一方根岸は常に現実の事を考え、行動していた。理路整然な根岸なら躁鬱病が如何に重大なものかは分かっていた筈だ。しかし彼は商業の才能はあったが、芸術家としては二流だ。どうしても自分を表現する中で自分の芸術というものは生み出せなかったのだろう。彼は独自の哲学を持ってはいた。彼の芸術性はもしかすると哲学者としての才能へと置き換わっていたのかも知れない。僕は彼に恩があるから金を貸した。言われた通り1億円。これは一般大衆にとっては非現実的なまでの天文学的金額だ。

 しかし浮気の一件以来彼の中で何かが裂けたのだろうか。彼は頻繁に粗相、不祥事を起こし僕に金を借りるようになった。僕は彼への恩義があるので貸した金に利子をつけなかった。しかし余りにも異常をきたしたので僕は根岸に精神科に行って、今までに根岸さんにあったことを正直に話すように、でなければあなたの人生は凋落していくばからだ、と伝えた。異常をきたしたとは言え、彼はもともと高知能である。彼は僕の言う通り、精神科を受診した。すると何やら新たに出来た、躁鬱感情障害の診断名が根岸についたらしい。どうもそれは躁鬱病の診断マニュアルから外れた定義がなされている躁鬱病の一種であるらしい。

 僕はその診断を境に根岸と会う事は少なくなった。かつての仲間として会いたかったのだが彼はその躁鬱感情障害の症状で、病的な対人恐怖を伴い始め、医師とですらまともに話せない、無為自閉に陥っているらしい。無為自閉そのもの自体はうつ病や躁鬱病、統合失調症などにも見られる事なのだが、診断名がそれらと異なるという事はやはりどこかが違うのだろう。次第に僕は自分のうつ病を棚に上げて、彼にラインで助言をしたりした。それを欺瞞だと根岸は看破したのか、「もうお前とは付き合ってられない」の言葉を契機にラインをブロックされた。今も僕と彼とは音信不通だ。元気にしているだろうか、彼は。僕は今、僕の現実を軽視した理想主義と、彼なりの現実と向き合い自己の哲学を持っていた現実主義との対比を思い、悲哀を感じずにはいられない。僕はそんな事を考えているとふと光を浴びたくなりサングラスを外した。その着色グラスは僕を多種多様な現実主義の魔の手から守るためのフィルターのようなものなのかも知れない、と僕は思うのであった。僕たちはアテネの学堂のプラトンとアリストテレスのように会話していたのだろうか、遠い過去を懐かしく感じつつ、僕はこれからも生き抜く決心を堅固なものにしたのであった。

 

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