一話
―アンブロシウス―
――異世界転移して五分も経たない内に、僕は死の宣告を受けた。
◇
原田は引きはがすようにして布団から体を持ち上げる。晩秋の涼しい夕方。リビングにある古いテレビから音が聞こえている。
「……本日、十一月八日は月蝕です。快晴が続く関東では観測できる可能性が高いでしょう。次に観測できるのは十八年後で……」
(十八年後っていうと三十五歳か。僕は何者になって、何をしてるんだろう。社会人かな、きっと)
漠然とした未来に思いを巡らせる。
暇つぶしに書き出した魔法陣が散らばる床を横切って部屋から出る。机の上にはいくつかのフィギュアと、電源がついたままのパソコン。視聴途中の異世界系アニメが映っていた。
彼は朦朧とした意識のまま玄関を開け、踏まれ慣れた靴のかかとを今日も踏んだ。スマホを入れたかポッケを叩いて確認すると、急な日光に視界が一瞬ぼやけながらもヨロヨロと散歩を始める。
クセ毛で、無気力な顔をしている痩せ型の青年だ。背は一七〇ほどありそうだが、猫背なため実際より低く見られがち。服はよくある半そでと短パン。柄が派手なので海辺で遊んだ帰りのように見えた。
「十八年後の僕~。幸せですか~? 」
嘲笑を込めて言ったが、その文章は舌の上でフワフワと手ごたえ無く霞み、彼はぼんやりとした不安を味わうだけだった。
(幸せな訳がない。人口は減って行くし、給料は下がる一方なのに。加えて家族が面倒。僕が学校に行かなくなった事に対して、祖父は精神が弱いせいだと一点張り。母は――共感してくれるので、祖父とは違うが――祖父の前ではいつも従っている。父はいない。いや正確に言うと、居なくなった。小六の時だ。県外で他の女とくっついたらしい。女さえいなければ、悪魔め、そう当時は思ったっけ)
赤信号を見て立ち止まる。一面に広がる田園は夕方の静けさにひっそりしていた。この平坦な土地のずっと先に、塀で囲ってある一軒家がいくつか見える。更に向こうに見える山々は、立ち込めたモヤによって山体を隠されていた。
その上には、夕方のよどんだ光の中に悪魔の体色のように赤くただれて雲が浮かんでいる。
(僕だって、テレビとかSNSで見るもっと普通の暮らしがしたい)
普通の生活をして、受けて当然の幸せが欲しい。
(生きてていいことなんて無かったよ。……いや、これは言い過ぎた。小さな幸せはいくつかあった。あと、僕がもっと幸せを見つける努力をするべきだったかも)
しかしこれまでの人生、仮に幸福と不幸の合計を天秤にかけるなら重いのは後者だろう。
大きなクラクション音で原田は我に返る。いつの間にか公道の真ん中を歩いていたらしい。貨物用の大型トラックが迫る。
(逃げなきゃ。でも生き延びて何をするの? 何も変わりはしない。なるべく人目の付かない場所に陣取って、食事は手早く済まし、みんな寝静まる間、深い闇の中でユーチューブを見て時間を潰す。そうして地獄みたいな夜明けを見て、胸骨辺りがガバッと空いたような虚無感と共に布団に入るだけ……)
いつから人生の歯車は狂ってしまったのか。
(この辛い世界を共に生き、いつも肯定してくれる仲間が欲しいと思ったって罰当たりじゃないだろう)
走馬灯のように薄く引き延ばされた時間の中で、トラックのシルエットが徐々に大きくなる。
(もうすぐそこまで来ている。間に合わない――)
次の瞬間、彼の身体は宙へ浮いていた。
しかし痛さはない。彼の足が独りでに動き、彼の命を現世に繋ぎ止めた。
無限に引き延ばされた、田んぼに落ちるまでの時間の中で彼は思う。
(ああ、そんなに生きて何がしたいんだ、僕は。田んぼに水が溜まってる……。このまま落ちて服を汚して、母親に怒られて、祖父からは関係のない嫌味な小言を言われるんだろうなぁ)
辺りが暗くなっている。トラックが通り過ぎると共に、その後ろから月蝕が見えて田んぼに映る。
赤い、禍々しい月面をこちらにひけらかして。彼はそこへ、吸い寄せられるように落ちる寸前、目を瞑った。
ポチャン――。
思ったよりも水溜りが深いと思ったのも束の間、目を開けると、そこは戦場だった。
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