猫田さん
吉田麻子
猫田さん
夜更けにチャイムが鳴った。
倉橋桐子は夕食後のココアを飲みながら、十五夜から一か月たったまるい月をリビングの窓から見ているところだった。遅い来客に少しおどろいて出てみると、猫が立っていた。
猫は使いこんだショルダーバッグを斜めがけにし、手帳とペンを手にしている。
一見、集金係のようにもみえる。
「あっ、クラハシさまでいらっしゃいますね?」
「はい……」
「クラハシキリコさま、ご本人様でまちがいなかったですね?」
猫は言いなれた科白を抑揚をつけて話しはじめた。
「いや、すみません。わたくし、市の食べもの供給係から派遣されてまいりました。猫田と申します」
猫田さんは肉球に器用に写真つきの身分証明カードをのせて見せた。
今より少し毛つやのよい猫田さんが笑顔で写っている。
「食べもの供給係……、聞いたことないわ」
「ええ、ええ。そうでしょうとも。わたくしも就職するまでは存在すらてんで知らなくてですね。いや、ひょんなことから、魚やの前で昔の知りあいとばったり会いまして、話しているうちにこんな大事な役目をおおせつかることになったわけでして。あ、いやいや、すみません。えっと、食べもの供給係と申しますのはですね……」
猫田さんは眉間に浅くしわを寄せて、使命感にかられた表情をしてみせた。
「ごぞんじのとおり、昨今地球上のいきものが神様の思惑を超えてアンバランスに増えてしまいましてですね、これまでみたいに食物連鎖に基づいた、まあ、言ってしまうとただ無鉄砲に好きなものを食べる、ってやりかたではもう食べられる側のほうが追いつかないってことになってまいりましてね……」
桐子は靴下を履いてくればよかった、と思った。
猫田さんの話は少し長くなりそうだし、秋の夜のフローリングは冷たい。
桐子はあったかいヒーターのきいたリビングが恋しくなった。
「猫田さん、あがってココアでも飲んでいかれませんか?」
「ココアですか」、猫田は苦笑いをして首を振った。「そりゃ、けっさくだ」
桐子が怪訝そうな顔をしていると、猫田がもう一度首を振った。
「その名前で呼ばれていた時代もありましたね。この毛の色のせいですかね……。いやいや、お気持ちだけでじゅうぶんけっこう」
猫田はひげをぴんと引っ張って姿勢を正すと慇懃におじぎをした。
「それにこの町内は、今週中にお達しをしてまわるようにと上から言われておりましてね……、まだまだ今夜も回らなければならないもので」
猫田さんはまじめそうな顔で手帳を開いた。何かのリストのようだ。半分以上丸がついている。猫田さんがリストをじっとみているのをいいことに、桐子はそのリストを覗きこんでみた。
―前川真一様 さかな さけ やさい かぶ にく ひつじ
宮本あい様 さかな たら やさい レタス にく とり
不思議な記述がずらりと並んでいる。
猫田の書く字が明朝体のように美しいのもちょっと意外だった。
「あっ、クラハシさま! こちらは個人情報ですから覗きこんではいけません!」
「あら、ごめんなさい。でもこれっておとなりの真ちゃんと、それからお向かいのあい姉さん。本当にこの近所をまわっていらっしゃるのねえ……」
「さあさあ、クラハシさま。今見たものはお忘れくださいな。それより本題です」
「何かしら、本題って。食べ物の名前が書いてあったけど」
猫田は背筋を伸ばし。のどをごくんとならして大事な用件を話しはじめた。
「いきものが増えた今、人間の食べるものはおひとりさま生涯三種類と決めさせていただきました。これはスローガンではなく決定事項でございます。つまり、本当に実際に遂行されることが非常に大事でございまして、まあ、要するに管理をきっちりやらなければならないわけです。そうしますと、管理役が必要になるわけですが、人間の皆様の食べものに関する管理は、わたくしども、猫がやらせていただくことになりました」
「ふうん……」
「おどろかれるのも無理はありません。ほかにも、ライオンに関しては牛が、くじらに関してはイルカが……など、すでにいろいろと管理する側とされる側が決まっております」
桐子はまじまじと猫田を見た。斜めがけにしているバッグ、エルメスのように見える。まさかと思ってペンを見ると、モンブランのように見える。
「では時間がありません。クラハシさま、お選びください。さかな部門からまいりましょう。ひとつだけ選んでいただくと、クラハシさまは生涯そのさかなだけを召しあがっていただくことになります。好物をお選びになりたい気持ちもよくわかりますが、なるたけ、飽きのこないもの、自分がその味を、うまいともまずいともあまり思わないものを選ばれるとよろしいかと思いますよ。あと、調理法が豊富に思いつくものもよろしいですね。さて、いかがなさいましょう?」
「今、決めるのね? ああ、人生って或る日突然まさかこんな重要な選択があるとはね!」
「さあ、クラハシさま」
「そうね、鮭にするわ。鮭のおにぎり、一生食べられないなんてサイアクよ」
「鮭でございますね、かしこまりました。ご英断、すばらしいですね。イクラもついてまいりますしね」
猫田は口角を思いきりあげ、まるでバターを舐め終わったときのような満足の表情をしてみせた。その縦型の瞳孔に、ちらりと侮蔑のようなものが、瞬間みてとれた。
「猫田さん、そのバッグ、エルメス?」
明朝体のような美しい文字で、さかな、さけ、と書きこんでいた猫田は、ほんの少し狼狽して顔をあげた。
「まあ、そうです。エルメスです。これしか持っていませんがね。エルメスは革がやわらかいのでこうして斜めがけにしても背中が痛くないのです」
「お金持ちね」
少し皮肉をのせたニュアンスで桐子が言うと、猫田は肩をすぼめて言った。
「あの魚やの前で知りあいに会った日から、たしかに貨幣価値についてはじゅうぶんに感じられるような生活になりましたよ。クラハシさま、知っていますか? 古代、猫は神様のつかいだったのです。あらかじめ、そうだったのです。愛玩動物、という発想は人間側の視点にすぎないわけですからね。まあ、もとに戻ったようなものです。今回の職務にあたる際に、人間の世界の貨幣をいただくのは、悪くない報酬だと思ってありがたくいただいておりますがね」
思ったより大変な局面だということに、ようやく桐子は気がついてきた。猫田は慇懃無礼に職務を遂行しているが、猫という種ぜんたいの喜びが隠しきれないほど伝わってきた。
このままでは本当に猫に支配されてしまう。
「ああ、たいへんなことになったのね」
「まあ、そう悲観することでもありません。ルールは秩序ですし、秩序は社会ですから、従ってみても悪いことではありません。少ししゃべりすぎました。先を急ぎましょう。クラハシさま、やさいはどうなさいますか?」
「野菜ね……」
「女性の方でしたら緑黄色野菜をおすすめしております。美容の面からも栄養がありますのでね。生でも加熱しても食べられるものがよいかと思います」
「私は、野菜はほうれん草が大好きなのよ」
「さすが、クラハシさま。ほうれん草はとても人気です。あと六名しか枠がございません。もう少し遅かったら、小松菜やアシタバになっていたところでございました。ほうれん草のお申込み、今でしたら間に合います」
「そう。じゃあ、ほうれん草でお願いね」
―やさい、ほうれんそう
文字が書き込まれていくのを見ているうちに、桐子は恐怖に近い気持ちを感じてきた。
……一生涯、鮭? 冗談じゃないわ。トロはもう食べられないの? 焼いた秋刀魚、大好きなのに食べられないの? じゃがいもをふかしてバターをつけて食べられないの? ああ、タクアンも食べられないんだわ。
桐子は腹が立ってきたので猫田をじろりと睨んでみた。意外なことに猫田は満面の笑みを返してよこした。
「クラハシさま、生涯キャットフードの猫が何万匹いたと思いますか。食べものが与えられることに感謝ですよ」
「猫も今後生涯三種類の食べ物になるのかしら」
「いや、それは今回人間のみなさまにはお知らせしておりません。まあ……、ただ……、クラハシさまはココアをご馳走しようとしてくださった。正直さっきはとても嬉しかったのです。ここのところ嫌われ役に辟易していたものですから。クラハシさまには、こっそりお話しますとね、猫は二十種類の食べものを生涯食べることができるんです。わたくしも選びましたよ。おかか、かわはぎ、とりにく、牛乳、チーズ……、あとはなんだったかなあ。ああ、忘れちゃいけない、マタタビですね! それからええと……」
桐子の怒りは頂点に達した。顔が少し赤くなっていたかもしれない。
猫どもが、人間よりいい思いをするなんて。
その怒りは個人的なものではなかった。
どこか遠くて古い場所からやってくる、人間という種の怒り。
桐子は自分の内側で憤怒の炎がいま燃えあがるのを感じた。
「おっと! 相手がクラハシさまだとついしゃべりすぎてしまいます。失礼いたしました。さあ、あと一種類でございますね。残りはにくです。にくは何をお選びになりますか?」
猫田が小首をかしげて笑顔をつくった。切歯が少し出ていた。
桐子は低い声で答えた。
「猫にするわ」
猫田さん 吉田麻子 @haruno-kaze-
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