其の伍 カラスが叫び、炎が灯る
ガラリと微かな音を立てて、コンクリートの破片が落ちる。
足元に転がる甲冑の破片を踏み砕きながら、キリサキジャックは廃墟同然と化した博物館の中を歩く。
刀は握り締めたまま、いつでも振るえる体勢を取っていた。
面頬の奥に暗く光る目は、何かを探すようにキョロキョロと動き……やがて。
「……まだ、生きているか」
足を止め、それを見る。
グシャグシャに潰された展示品の影で、酷く荒い呼吸を繰り返す彼の姿を。
「はぁ……はぁ、はっ……はは。もう、足が動かないや……」
九十九だ。あれほどの斬撃が放たれてなお、彼はまだ生きていた。
焼け焦げてズタズタになったシューズが、彼がどのようにして攻撃を凌いだのかを雄弁に語っている。
けれど、それだけだ。ここからキリサキジャックの魔の手を逃れる術は、もう無い。
それを誰よりも分かっているのは、他ならぬ九十九自身だろう。
「人間にしてはすばしっこいようだが……もう打つ手はないようだな」
「……殺す、のか。僕も」
「そうだ。貴様を殺したのち、ここを出る。博物館の外でより多くの人間を殺し、恐怖させ、昼の世界を『夜』に近付ける。こんな博物館など、ただの通過点に過ぎない」
ギラリと、刀が鈍い光を放つ。その刀身は、妖刀という触れ込みに違わぬほど血と脂に濡れていた。
館内にいた全ての人間が、九十九を除いて斬り殺されたのだろう。そして今、九十九もそうなろうとしている。
(止め、ないと……。こいつが外に出たら、父さんや母さん、姉さん、爺ちゃんに光太、皆が……っ! でも、今の僕には何も……何も、できない……)
考え得る全ての選択肢が、キリサキジャックの手で一刀のもとに斬り捨てられるだろう。
だから、何もできない。何も成せない。八咫村 九十九は、ここで死ぬ。
(どうすれば……一体、どうすれば……。諦めたくない、けどっ……──?)
──ガチャリ
手に、何かが触れる。いや、決して「何か」ではない。
それを、九十九は刹那の内に理解した。他ならぬ彼の本能が、それの正体を理解したのだ。
同時に、今まさに刀を振り上げようとしていたキリサキジャックの手も止まる。
それは単に、九十九の顔色が変わったからだけではない。彼もまた、九十九が触れたものの存在と、それの正体に気付いていた。
「こ、れ……まさか」
「……馬鹿な。これほど破壊の限りを尽くしたのに、まだ壊れていなかったのか?」
それは、1丁の火縄銃だった。
なんの変哲も無い、木と鉄でできた射撃武器。戦国時代を取り扱った企画だから展示してあったというだけの、なんの謂れも無いもの。
けれどもそれは、あの時。
『こう……火縄銃の事も、八咫烏の事も。なんというか……僕の中で、妙にしっくりくるって言うか……パズルのピースが嵌ったみたいな感じというか……』
あの時、自分は確かにそう言った。
なら、これは、でも、だって、だけど、だから、これは、きっと。
──ボワッ!
「……っ!? む、ねが……熱い……っ!?」
火縄銃に触れた直後、九十九の胸が強く熱を帯び始める。
それは目に見えて分かるほどであり、彼の胸部は明らかに赤い光を宿していた。
故に、キリサキジャックは刀を振り上げた。
その火縄銃が何なのか。それはつい先ほど妖怪になったばかりで知らないが、それでも直感的に分かる事がある。
「それは──駄目だ。その銃は、我ら妖怪の害となる──ッ!」
「──ぁ」
九十九は、パチリと目を瞬かせた。
視界に映る全てのモノが、スローモーションのように遅く見える。
振り下ろされ、今まさに自分を切り裂かんとする刀の切っ先でさえ、カタツムリの歩みよりも遅い。
それと同時に、胸の奥に灯る炎の存在をハッキリと知覚する事ができていた。
例えるならばそれは、何よりも暗い闇の中にあってただ1つ燃え盛る篝火。闇を照らす唯一の灯火。
その輝きと熱を、九十九は確かに実感した。その炎に、手を伸ばす事ができる事も。
(……これ、この光。これを掴めば、きっと……)
だから、手を伸ばす。
近付けば近付くほどに手のひらを焦がす熱が、段々と大きく、激しく、眩いほどに勢いを増して──
(……あれは)
翼を広げた。
文字通り、炎が1対の翼を広げ、その目を見開いた。
徐々に1つの形を取っていく炎は、九十九の目の前で立ち上がり……やがて。
(八咫烏──?)
【──Aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaッ!!!】
3つの足を持つ、勝利と……そして太陽の化身。
八咫烏の幻影がけたたましく雄叫びを上げて、暗闇を炎で埋め尽くした。
「な、にっ!?」
キリサキジャックの刀が九十九の肩を切り裂こうとした寸前、彼の全身から溢れ出た炎がそれを阻む。
蛇口を全開に捻って出した水とて、ここまでの勢いは無いだろう。迸る真っ赤な奔流は、それほどの勢いを孕んでいた。
最早、斬り殺すだけで終わる話ではない。床を蹴り、大きく距離を取って炎から逃れる。
「……熱い。胸が、焼けてしまいそう……だっ」
ゆらりと、幽霊めいた動きで九十九が立ち上がる。もう足は動かないと、そう言っていた筈なのに。
胸を強く鷲掴みにすれば、勢いよく溢れていた炎はやがて衰え、消失する。
それでも、既に放出された炎が辺りに火をつけ、館内を赤く照らしていた。
「一体、何が起きた……!? いや、ここで殺せばいいだけの事!」
キリサキジャックが刀を横に薙ぎ、水平の剣閃を飛ばす。
左右どちらに回避しても体を切断されてしまうだろう斬撃を前に、九十九は本能的に腕を振るった。
「え、えぇいっ!」
振るった左腕から、炎が弾け飛ぶ。
飛ぶ斬撃に対抗する形で放たれた炎の散弾が、斬撃を相殺して空中で爆発を起こす。
その衝撃で吹き荒れた熱風、そして茹だるような熱気に頭が眩み、九十九は思わず膝をついた。
「はっ……! あ、くぅっ……!?」
視線が下に向かい、床を舐める炎が嫌でも目に飛び込んでくる。
荒い息遣いで顔を上げれば、見えるのは廃墟と化した博物館の内装と──異形の怪物、妖怪カタナ・キリサキジャック。
「貴様……何を、した?」
キリサキジャックは当惑の声を上げ、面頬の奥に鈍く光る目を細めた。
その手に握られた刀が床を滑り、ゆらりとした動きで鎌首をもたげる。
つい数分前まで逃げ惑う人間たちを切り刻んでいた血濡れの切っ先は、今は目の前で膝をつく少年へと向けられている。
「その力、は……貴様、ただの人間ではなかったのか?」
おぞましく低い声色は、感情を思わせないながらも微かに震えていた。
妖怪でも困惑するのだな、と。煮込まれたシチューのように熱を帯びた頭の隅で、九十九はぼんやりと考える。
軽い現実逃避でもしなければ、己の正気を保つ自信が彼には無かった。
それでも、自分の胸を文字通りに焼く痛みが、ちっぽけな少年から理性を奪わせない。
「ただの人間……か。は、ははっ」
力ない笑いが口から漏れる。胸から湧き上がる熱で、ガラガラに乾いた喉に痛みを覚えた。
「少なくとも、僕はそのつもりだよ。……どうやら、違うみたいだけど」
「ああ、違う。ただの人間が、そんな力を持っている筈が無い」
人ならざる存在にそう吐き捨てられて、九十九の胸がズキリと傷んだ。そんな事は、自分が一番よく分かっている。
最早、言い訳のしようも無い。今、彼らを取り囲むように燃え盛る炎は、間違いなく九十九が生み出したものだ。
ただの人間と思われていた少年が、無から炎を生み出した。その事実が、恐るべき妖怪に彼の殺害を躊躇わせている。
「その力を使えるという事は、貴様も我らと同じ存在という事。人間ではない。貴様は──」
ほんの十数分の内に立て続けに起きた、現実とは思えない出来事。
それら全てが紛れもない現実に起きた事であり、そして九十九もまたその渦中である事を、キリサキジャックは突きつけた。
人の理の外に在る者たち。それを示す、何よりも明解な一言を。
「妖怪だ」
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