其の肆 惨劇と賭け
頭を殴りつけてくる鈍い痛み。
悲鳴。絶叫。断末魔。破壊音。耳をつんざく無数の音。
そして、苦しいほどに胸を焼く正体不明の熱。
心臓の鼓動に合わせて神経を刺すそれらの苦痛に、九十九は目を覚ました。
「──ん、はぁっ!?」
我に返って早々、全身を刺激する痛みと不快感にたまらず飛び起きる。
荒い呼吸音ばかりを吐き出して周囲を見回してみれば……そこに広がっていたのは、まさしく地獄だった。
「な……んだよ、これっ……!?」
つい数分前まで楽しんでいた、博物館の特別展示などもう影も形もない。
照明が割り砕かれて薄暗い館内は、壁や天井、床の至るところに斬撃痕が残されている。
無事なショーケースはただの1つも無く、展示品のほとんどが無惨に破壊されていた。
……そして、そんな残骸たちを赤く染め上げているもの。
それが人の血である事を理解するのに、九十九は数十秒を要した。
「~~~~っ!」
口を抑え、胃から込み上げてくるモノを必死に押し留める。
視線の先に転がっているのは、人の腕だった。
胴体が横に、或いは縦に真っ二つ。腕が飛び、足が飛び、首が刎ねられて。
ありとあらゆる斬殺をこの場に集めた。そう言われても納得できるほどの惨状が、そこにあった。
大人が、子供が、男が、女が、客が、係員が、警備員が。
その誰もが、顔に恐怖と絶望を貼り付けたまま事切れている。この凶行を為した悪魔に対して、怖れと恐れを向けたままに死んでいる。
九十九が気を狂わせずにいられたのは、幸運と言う他ないだろう。
「はぁ……っ! はぁ……っ! ……こっ、これを……全部、あのバケモノが……」
吐き気を無理やり飲み込んで、ヨロヨロとした動きで立ち上がる。
着慣れた洋服も埃や返り血に汚れ、ボロボロに煤けているが気にしてはいられない。
そんな事よりも、九十九は自分が思ったよりも冷静である事に気付き、驚いた。
吐き気を催す凄惨な有様が視界いっぱいに飛び込んでいるというのに、心が狂う事も無く思考を維持していられる。
まるで、自分がこの程度の事では何とも思わない存在になってしまったかのような……。
「──いやぁぁぁっ! 助けてーっ!」
「……っ」
遠くから、誰かの叫び声が聞こえてくる。
辺りは随分と静かになったと思っていたら、あの妖怪なる謎の怪物は展示室の外に出て人間を襲っているらしい。
「開けてっ! 誰かっ、開けてよぉ! なんでドアが開かないのぉっ!?」
「けっ、煙がっ! 煙みたいなのが、ドアを押さえて……開かなっ──ぎゃあっ!?」
「ひっ!? い、いやっ、助け──」
ガタガタと博物館のドアが叩かれた直後、断末魔が轟いたのち、声が2人分消えた。
それを理解したからこそ、九十九にできる事は何も無い。震える足が、その場から動こうにも動けない。
だから、立ち尽くしたままにそれらを聞いているしか無かった。
知らない誰かの絶叫が断末魔に変わり、肉を潰したような斬撃音が聞こえ、より悲鳴が上がり……。
やがて、館内は静かになった。
「まだ、生きていたか」
「──っ!?」
後ろから、首筋に刀が添えられる。
全身から汗が吹き出す感覚に、九十九は目を見開いて息を呑んだ。
「……切り裂きジャック」
「そうとも。我の名は妖怪カタナ・キリサキジャック。人の理を外れ、夜の世界で生きる者。お前たち、昼の世界の住人とは違う者」
今振り向けば、自分の首は瞬きよりも早く胴体を離れるだろう。そんな確信のみがあった。
それでも、背後に立つ怪物──妖怪カタナ・キリサキジャックに対して、口を開かなければならなかった。
「なん、で……なんで、こんな事を。こんなっ、酷い事を……」
「知れたこと。貴様ら人間に、我ら妖怪への恐怖を刻みつける為」
思いの外饒舌に、自分たちの目的を語るキリサキジャック。
或いは、1分もしない内に死ぬ人間に対する冥府の土産なのだろう。
「貴様らが恐怖し、絶望し、妖怪に……『夜』に畏れを抱けば抱くほど、貴様らの生きる『昼』に闇が満ちる。闇が『昼』を埋め尽くせば、それは『夜』になる。即ち、我ら妖怪が世の覇権を取り、人間に取って代わる文明の覇者となるのだ」
「……その為に、なんの罪も無い人たちを?」
「そうだ。そして、今に貴様もそうなる」
刀が振り抜かれる。
路傍の虫を踏み潰すのと変わらない気軽さで、九十九の命が奪われようとしている。
これを避ける術は無い。離れた距離でさえ、斬撃を飛ばす事で一切が薙ぎ払われたのだ。況や、超至近距離から首を狙うともなれば。
これを避ける術は無い。普通であれば。
だから、八咫村 九十九は「普通じゃない」可能性に賭ける事にした。
(南無──三っ!)
最初に斬撃が放たれた時、すんでのところで何故か回避する事ができた。
その時に感じたのは、胸の内に炎のようなナニカが灯り、燃え盛る感覚だった
それで思い出すのは、光太と共にひったくり犯を追った時の事。
砲弾めいて吹っ飛ぶほどの超加速と、靴裏が焦げるほどの熱。あの時感じたのも、さっきのような炎の感覚だったように思う。
あれがなんだったのかは、未だに分からない。
けれど、もしも。あの炎を、自分の意思で点火できるとすれば。
──ボワッ!
果たして、賭けは成る。
靴裏から一瞬だけ迸った炎は、九十九に尋常ならざる回避を実現できるだけの脚力と反射神経をもたらした。
滑るように体勢を崩し、自分の頭の上を過ぎていく刀を感じながら床を転がって距離を取る。
「……何?」
「や……った! ぶっつけだけど、なんとかなった……!」
そのまま流れるような動作で立ち上がった九十九は、口元の煤を拭いながら自分の行いに驚愕した。
自分でもよく分からない、ともすれば気のせいで終われてしまうような力を土壇場で活用しようなど、どうして思いついたのだろう。
いや、思いついたまではまだいい。何故、それが土壇場の一発勝負で成功したのだろう。
奇跡? 偶然? それを否定できる材料は無い。
けれど九十九は、別の可能性を脳裏に思い描いた。
つまり、この力は最初から自分の中にあって、誰に教わるでもなくその使い方を──
「だが、甘い」
キリサキジャックが刀を振るう。その衝撃が飛び、九十九に向かう。
だが、それは斬撃ではない。刀の切っ先を敵に向かって押し出す──刺突だ。
「っ!? こな、くそっ──」
飛ぶ斬撃よりも速い、飛ぶ刺突。
直撃すれば体が抉れ飛びかねないそれを、咄嗟に身を捩る事で避ける。
しかしそれによって足が滑り、九十九はその場に膝をつく形で転んでしまった。
「しまっ──」
「終わりだ」
キリサキジャックの足元をなぞる切っ先が、一気に上段へと振り上げられる。
渾身の、そして今までの斬撃よりも更に威力の高い逆袈裟斬り。それは床を抉り、天井をかち割るだけでは済まされない。
床から天井まで届くほどに長い斬撃が、展示室を斬り砕いて突き進む。
そんな殺意の塊が真っ直ぐに狙うのは、当然ながら九十九を置いて他にいない。
「妖術──《切り裂き御免》」
轟く爆音が、博物館全体を大きく揺るがす。
「……さァて、ここからどうする? どう出るよ、八咫村の小倅」
その一部始終を、柱の陰から男が
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