ユキの身体があらかた回復するまでには、三カ月近くかかった。病院で治療してもらえばもっと早く完治したのだろうが、そこから警察に連絡が行くとまずいのは観音通りの住人全員だ。

 「直腸裂けると人って死ぬらしいよ。よかったね、死ななくて。」

 「まあね。安奈も膣と直腸裂かれないように気をつけなよ。」

 「そうする。」

 どうしようもない会話だった。祐一は階下で子供の面倒を見ているし、青井は遠征先でヒモとしての業務をこなしている。ユキを見ているようにと祐一に命じられた安奈は、別にすることもないのでベッドの端に腰を下してだらだらと髪の枝毛を千切っていた。

 「今日は青井、遅いね。」

 「帰って来ないのかな。」

 「いや、来るでしょ。」

 「なんで?」

 「なんとなく。」

 「ユキは青井に帰ってきてほしいの?」

 「いや。別に。」

 「だよね。私も。」

 「でも、帰っては来ると思うよ。」

 「なんで?」

 「なんとなく。」

 「いつもより遅いけどね。」

 「昨日女にキレられたらしいから、仲直りセックスでもしてるんじゃないの。」

 「あー、それは遅くなるね。」

 ふわふわした会話だった。そもそも、帰って来る、という言葉の定義から曖昧なのだ。

だってここは祐一の家で、青井はユキの看病要員としてこの家に通わされているにすぎない。それは安奈も同じことだった。

 ユキか安奈が大きな怪我をすると、こういうことは時々ある。そしてその怪我が治る頃になると、めいめい自分のねぐらに戻って行くのだ。

 それが今回は、ユキの怪我の度合いが酷かったため、なんとなく四人で祐一の家に住んでいるみたいな形になりつつある。ただ、それだけのことだ。だから、帰る、とかいう単語はふさわしくはないのかもしれない。本当だったら、今日は青井は来ないのかな、と言うべきであって。

 「困るな。アイス買ってきてって頼んだのにな。」

 ぽつん、と安奈が言う。

 「帰って来るよ。」

 やはりぽつん、とユキが応じる。

 細く空けた窓からは、冷たい風が部屋中を滑るように吹き込んでくる。それは妙に澄んだ夜だった。

 「帰って来るかな。」

 「帰って来るよ。」

 「帰ってきてほしい?」

 「いや、別に。」

 「だよねー。」

 リピートみたいな会話。ぼんやりと枝毛を探す安奈と、まだ治り切ってはいない口の端の裂傷を舐めて眉を顰めるユキ。

 そのとき下の階から、控えめに扉が開いて締まる音が聞こえた。そしてそれに続き、階段を上る足音。

 「帰って来た。」

 「アイス、買って来たかな。」

 「多分ね。」

 短い会話と、潜められた足音。

 そろそろ夜が明ける。そうしたら子供たちにも迎えが来るから、祐一もこの部屋にやって来るはずだ

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