第3話 江戸っ子半兵衛

 お福はまだ三十前で半兵衛より年下であったが、長屋に嫁いで来た時から周りの嬶連中の影響で半兵衛の事を「半ちゃん」と呼んだ。半兵衛には己が侍だ等という矜持は無かったので、どう呼ばれようと気にならない。

 仕事仲間は半兵衛の苗字と容貌を引っ掛けて川津半兵衛ならぬ「かわずの半兵衛」と呼んでいた。奇しくも幼き頃からの渾名あだなと一致していた。半兵衛にとっては聞きなれた呼び名であった。

 日雇いの仕事は幾らでもあった。大工仕事の手伝いや荷物運び、帳場の手伝いに代筆。父親同様に町道場の師範代も務めた。父と異なり幼い内から他流に触れたので、半兵衛は他流道場であっても器用に指導する事が出来た。

 半兵衛が父から引き継いだ流儀はみずち流と云う。何でも村上水軍所縁ゆかりの剣法だと聞かされたが、真偽の程は分からなかった。船上や水辺、雨の中で戦う事を本義とした流派で独特の心得が数多くあった。

 おかで遣えぬ訳では無かったが、「剣筋が乱れる」と云う理由で滅多な事では技を振るわぬよう戒められていた。古流の常で組打ちの技も備わっていたが、同じ理由で使用を止められていた。子供の頃虐められても半兵衛が蛟流の技を遣う事は無かった。

「半公のやっとうは大した事ねえな」

「喧嘩で勝つのを見た事もねえしな」

「ちげえねえ」

 半兵衛は流儀上の理由から小刀しか腰に差さない。周りからはどうせ大刀を振り回す腕が無いからであろうと見くびられていた。

 それで良かった。術を遣わずに殴り合う。長屋の暮らしにはその方が似合いだった。

 おかしなもので、喧嘩に負ける度に半兵衛の友は増えて行った。

「飲め、この野郎」

「誰がこの野郎だ?」

「てめえだ、半ちくめ」

「何だと、こん畜生め」

「うるせえ。俺の酒が飲めねえのか」

「偉そうに、この野郎。飲んでやるから持って来い」

 江戸っ子の遣り取りは賑やかだ。大の大人がじゃれているだけだった。


 江戸っ子は五月さつきの鯉の吹き流し。口先ばかりではらわたは無し。


 貧しい暮らしの中で、皆その矜持を持って生きていた。

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