第16話:悪手
檜垣屋の元亭主得壱はふらふらになって宮後屋にたどり着いた。
その姿はとても普通とは思えない乱れたものだった。
だが宮後屋の当代夫婦と若夫婦はそれに気がつかなかった。
運の悪い事に、諸事手慣れた筆頭番頭を暖簾分けした直後だった。
他の番頭や手代からは、鈴のような姦婦を育てた事で愛想を尽かされていた。
何より宮後屋の亭主家族が、奉公人達の諫言を聞く耳を持っていなかった。
だから宮後屋一家はおかしな姿の得壱を歓迎してしまった。
鈴を迎えに来てくれたと諸手をあげて喜んでしまった。
檜垣屋との関係を改善できると思ってしまった。
いや、思いたかったのだ。
精神的にも肉体的にも負担でしかない鈴を押し付けられる奴が来たのだ。
都合の悪い事は無視して、鈴を押し付ける事しか考えないようにしていた。
「よく鈴を迎えに来てやってくれました、得壱さん。
親としてこれほどうれしい事はありません。
これでまた檜垣屋さんと仲良くやっていけます」
「はい、はい、はい、仲良くやっていきましょう。
ですがそれには鈴が必要です。
鈴が女将に戻って来てくれてこその檜垣屋です。
鈴は何処ですか?
鈴に会わせてください!
鈴に今直ぐ会わせてください!
そのまま檜垣屋に連れて帰ります!」
「ええ、ええ、ええ、分かっていますとも。
得壱さんは、鈴を愛してくれていますからね。
直ぐに会わせて差し上げますよ。
ただ鈴も女として身嗜みを整えないといけません。
愛する得壱さんにだらしない姿は見せられませんからね」
「身嗜みなど私にはどうでもいいのです!
そんな事よりも直ぐに会いたいのです!
今直ぐ鈴に会いたいのです!」
明らかに常軌を逸した得壱の言動なのだが、宮後屋の家族はそれに気がついていない振りをしていた。
鈴さえ得壱に押し付ければ何とかなると思い込もうとしていた。
だが、それでも、今直ぐ鈴に会わせるわけにはいかなかった。
色情狂となった鈴は、蔵から一歩も出せず、家族以外が世話する事もできないので、不潔としか言いようのない状態だった。
急いで行水をさせて体の汚れを落とし、髪を結い化粧をさせ、艶やかな着物を着せて、迎えに来てくれた得壱に愛想を尽かされないようにしなければいけない。
ここまできて、色情狂となった小汚い鈴を見た得壱が、やっぱり離縁すると言いだしたら、ずっと鈴の面倒を見続けないといけないのだ。
もうそんな事には耐えられないと宮後屋一家は思っていた。
「鈴が得壱さんのために奇麗に装っている間に、改めて親子固めの杯を交わそうではありませんか!
さあ、さあ、さあ、こちらです、こちらで一献」
「いや、鈴だ、先に鈴と会わせてくれ」
「まあ、まあ、まあ、まあ、そんな事を言わずに。
駆けつけ三杯などとは言いませんが、まずは一献。
私と得壱さんは義理とはいえ親子ではありませんか」
「そうですよ、得壱さん。
私も得壱さんの事は実の息子のように思っているのですよ」
宮後屋の当主夫婦は必死だった。
何としてでも鈴をまともに見せる為の時間が必要だったのだ。
とても半刻では無理で、一刻は時間が欲しい所だった。
だから、無理矢理得壱に酒を飲ませた。
鈴の身嗜みが失敗に終わっても、酔った得壱が気付かなければ大丈夫だ。
そう考えて、とにかく必死で酒を飲ませた。
一刻以上も酒を飲ませ続けたのだ。
得壱の酔い方はとても酷いものだった。
泥酔としか言えない状態だった。
「こんな風に着替えさせてどう言う心算!?
巳之助に会わせてくれないのなら、放っておいて!」
「こら、馬鹿者!
わざわざ得壱さんが迎えに来てくれたと言うのに、何を言っているのだ?!
気にしないでくださいよ、得壱さん。
鈴は照れ隠しに心にもない事を口にしてしまったのです」
「あぁあ、すず、すず、すず、もう私にはお前しかいないんだ。
どうか一緒に檜垣屋に帰っておくれ、
げっぷ、うう、ああ、すず、すず、すず」
「嫌よ!
貴男のような、役立たずな臆病者と一緒に帰る気なんてないわ!」
「鈴!
この大馬鹿者が!
わざわざ迎えに来てくれた得壱さんになんて事を言うんだい!
得壱さん、鈴は照れているだけなんだ、怒らないでいてやってくれ」
「ううううう、すず、すず、すず、ううううう」
「本当に甲斐性のない奴!
どうしても一緒に戻って欲しいのなら、巳之助と一緒だよ。
巳之助と一緒でないと、絶対に戻らないからね!」
「この大馬鹿者が!」
ばっちーん!
我慢の限界に達して宮後屋の亭主は娘の鈴を思いっきり叩いた。
そうでもしなければ、得壱が心変わりすると思ったからではない。
宮後屋の本当の亭主、優子に許してもらえないと考えたからだ。
鈴を得壱に押し付けるにしても、あまりにも酷い状態で押し付けたら、檜垣屋との関係を改善する事など不可能だ。
自分達は厳しく言って聞かせて鈴を改心させた。
その状態で得壱にどうしてもと頼まれたから檜垣屋に帰した。
そう言う体裁を整えたかったのだ。
宮後屋の亭主はこれ以上鈴に何か言わせるわけにはいかないと覚悟を決めた。
頬を張られて畳に倒れ込んだ娘の口に手拭いで猿轡をした。
まるで罪人のように縄で後ろ手に縛った。
「丞兵衛、宿の者を連れて得壱さんを檜垣屋まで送って差し上げろ」
もう宮後屋一家も半ば狂っていた。
鈴を檜垣屋に引き渡せば何とかなると思い込んでいた。
「はい、父さん」
「これをお前に渡しておくから、優子さん渡してくれ。
くれぐれも誤解のないように、誠意を込めて渡してくれ」
宮後屋の亭主は息子に山田羽書を渡した。
「はい、任せてください。
宮後屋はあくまで得壱さんに頼まれて鈴を返しただけで、他意はないと伝えます。
誠意はこの羽書で伝えます」
息子の丞兵衛は決意の籠った返事をした。
宮後屋としても山田羽書10枚は大金だった。
この山田羽書は普通に使われている1枚銀1匁ではない。
京大阪の大商人が、大商いの時に使う1枚500匁の特別製だ。
1枚銀500匁の山田羽書10枚で銀5000匁にもなる。
優子が全て受け取るとは限らないが、受け取られて換金されるような事があれば、宮後屋としても勝手向きが多少は困る。
それでも優子との関係を少しでも改善するなら必要な出費だった。
この時代の姦通が表沙汰にされることは少ない。
離縁する事は簡単だし、罪に問う事も簡単だ。
だが妻に姦通されると言うのは亭主の面目を著しく損なうのだ。
だから多くの姦通が首代を支払って内々で処分される。
姦通の首代相場は7両2分だった。
金銀の相場は毎日変わるし、その上下幅も結構大きい。
幕府が決めた金1両が銀64匁通りになっている方が少ない。
銀5000匁だと、首代相場の10倍前後もある。
そんな高額の首代を支払う気になるくらい宮後屋は優子を畏れていた。
神罰を下される事はもちろん、奉行所に訴えられる事も恐れていた。
姦通の協力者にされ、伊勢から追放されたくない一心だった。
そこまで追い詰められたのは、この期に及んでも鈴が巳之助を檜垣屋に復帰させろと言った事にある。
そうでなければ、ここまで下手にでなかったかもしれない。
宮後屋を出て檜垣屋に向かって歩く4人だが、鈴の敵意の籠った眼で兄の丞兵衛を睨み続ける。
その態度が丞兵衛を無性に不安にさせた。
つい話しかけて、鈴を説得しようとしてしまうほどの敵意を持ち続けている。
「鈴、これ以上私達を苦しめるのは止めておくれ。
宮後屋の優子さんが受け入れてくれたら、黙って静かにしていておくれ。
そうすれば優子さんも、母親のお前を邪険には扱わないはずだ」
「うう、うう、うう、うう」
猿轡を嚙まされている鈴は返事ができなかった。
だが、猿轡をされていても敵意剥き出しの唸り声をあげていた。
殺意の籠った眼で兄の丞兵衛を睨みつけていた。
「……そのような態度のままなら、首代を置いて連れ帰るしかないよ。
お伊勢様の神罰を受けるのは真っ平御免だからね。
姦通の手助けをしたと言われて、追放されるのも真っ平だ!
優子さんがその気なら、その場で離縁させる。
得壱さんが何と言おうと関係ない!」
丞兵衛は宮後屋にいた時と考えが変わっていた。
殺気の籠った眼で睨み続ける妹の鈴と、酒を飲まされて泥酔し、奉公人に抱きかかえられている義弟の得壱を見れば、不安しか感じられなかった。
鈴が大人しく優子の言う通りにするとは思えなくなっていた。
巳之助との逢引きを再開するとしか思えない。
その時、得壱が厳しい態度を取るとはとても思えない。
それを見た優子と先代が、罪を逃れるために宮後一族の力を使い無理矢理鈴を引き取っておいて、今更また鈴を押し付ける宮後屋をどう思うだろう?
間違いなく激しく増悪する。
その時に訪れるであろう天罰は確実に宮後屋を滅ぼす事だろう。
もう今となっては本家も一族も絶対に助けてくれない。
そう考えた丞兵衛は、鈴を檜垣屋に連れて行った時の優子と先代の態度次第で、その場で離縁させようと考えていた。
そうすれば、少なくとも優子の恨みを買い事だけはないと考え直したのだ。
だが、その考えが実行される事はなかった。
「ぎゃっ!」
丞兵衛達は運の悪い事に巳之助と出会ってしまった。
懲りずに鈴に会いに行こうとしている巳之助と遭遇してしまったのだ。
それも、得壱も一緒にいる現場でだ。
鈴、得壱、丞兵衛が一緒にいる場所に出くわした巳之助は激怒した。
得壱を抱きかかえる奉公人の姿など目に入らなかった。
逆上した巳之助はその場に落ちていた石を持って丞兵衛に殴りかかった。
狂気に囚われた巳之助が常軌を逸した力で拳大の石をふるったのだ。
巳之助の頭は見て分かるほど陥没していた。
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