第542話 蠢く肉
「俺は迷宮やら魔術やらに詳しい訳ではないが……」
と、ルッツが前置きしてから語った。
「迷宮内がぐちゃぐちゃに荒れたから、いわゆる魔力が集中する場所も変わったって事か?」
「あり得る話だな」
リカルドも同意して頷いた。現に禍々しい場所が目の前にあるのだ、この現実だけは否定できない。
「問題は……」
リカルドは冒険者らしい時点で話を続けた。
「第五層という、謂わば中間層にある事だ。これくらいなら辿り着ける冒険者も多いだろう」
「力が手に入るという誘惑付きだ、無理をしてでも来る奴はいるだろうな」
そう言ってふたりは頷き合った。調べれば調べるほどにろくでもない事態が湧いて出てくる。のんびりしていたら手遅れになるかもしれない、それこそこのエスターライヒ領が吹き飛ぶほどに。
突如として始まった戦争と虐殺が終わり、領民たちは明日への希望を取り戻し復興を進めているところなのだ。この時期に新たな火種を撒き散らす訳にはいかなかった。ここで希望を摘み取れば二度と、もう二度と立ち上がれないかもしれない。
「行くか 」
「おう」
短く答えてまた歩きだした。
不安である、怖くない訳がない。何故彼らは未知の脅威へと立ち向かおうとするのか。それは正義か、あるいは義務か。聞けばきっと笑ってこう答えるだろう、男の子だからだと。
通路は予想以上に長かった。長い、どころではない。もう三十分以上もまっすぐ歩き続けている。ひょっとすると気が付かないくらい微妙にカーブしていたのかもしれないが、少なくとも曲がり角のようなものはなかった。
長すぎる。こうなると帰る事は出来るのかと不安になってきた。退路がないというのは恐ろしいほど精神的に負担がかかる。
幻影を見せられ同じ道を延々と辿っているのではないかと疑い、壁に傷をつけてみたが、歩くうちに同じ傷が見付かる事もなかった。
「これも、迷宮の魔力って奴が乱れているせいなのかねえ」
「どこをどう考えたってまともじゃない。何か原因があるんだろうな」
歩き始めて一時間後、ふたりは足元に違和感を覚えた。これは何かと記憶を辿る。戦場で死体を踏みつけた感覚というのが一番近いだろうか。
……ろくなもんじゃない、絶対に。
確信に近い予感を抱きながらルッツはランタンを掲げ、そして彼の予感は大きく裏切られた。最低という言葉を通り越した、最悪の光景が眼前に広がっていた。
床だけではない。壁も、天井も、全てが変化していた。それは赤黒い、蠢く肉であった。人が小さくなって人体に迷い込めばこんな光景を見る事になるだろう。
「……言葉とは不便なものだな。最低、最悪というよりもさらに下の単語はないものだろうか」
ルッツがランタンを腰に吊り下げながら言い、リカルドは首を横に振って答えた。
「地獄のような、とでも言うか。あるいは本当に地獄へ通じているかもしれないが」
「笑えねえ」
肉を踏みつけまた歩き出す。足場が悪いのでどうしても歩行速度は遅くなってしまう。しかしこんなところで転びたくもなかったので、慎重にならざるを得なかった。
歩く、歩く、肉の筒内を歩き続ける。
暗くて不気味で臭いも酷い。奇妙な粘液がたまに天井から落ちてくる。ただ歩いているだけで精神的な疲労が蓄積していった。
平衡感覚もおかしくなってきた。自分が床を歩いているのか壁を歩いているのか、それすらもよくわからない。
何か話でもして気を紛らわすべきなのだろうが、そんな気力も湧かなかった。
そんな中、ルッツが突如として刀を抜いて肉壁を斬りつけた。
「ルッツぅ!? 何をやっているんだお前はぁ!?」
驚愕に眼を見開くリカルド。ルッツは真顔でじっと壁の傷口を眺めている。
肉壁から鮮血が吹き出し、周囲に鉄臭さと青臭さのブレンド臭が立ち上った。もっとも、新たな悪臭が加わったところで今さらといった話ではあるのだが。
肉壁が蠢き、傷口はすぐに塞がった。肉床が鮮血を吸収し、辺りは何事もなかったかのような異常な光景に戻った。
「は、ははは……ッ! あっははははは!」
刀身を布で拭いながら笑い出すルッツ。壊れてしまったのか、そんなリカルドの不安げな視線に気付き、ルッツは軽く手を振った。
「心配するな、俺はまともだよ。この『夢幻』で壁を斬ったらどうなるか試しただけだ。期待通りと言うべきなのかな、元気が出てきたよ。この壁は生きている、だから力を吸収できる」
などと語りながら刀を鞘ごと腰から引き抜き、リカルドに差し出した。
「やれ。体力が消耗しているから心もすり減っていくんだ。身体が元気になれば少しはマシになる」
「共犯者になれ、と言っているようにしか聞こえないが?」
「否定はしない」
「してくれよぉ……」
「お前に死んで欲しくもない」
「卑怯者め……」
そんな言い方をされては断れないではないか、とリカルドは肩をすくめてから刀を受け取り壁を斬りつけた。
人を斬った感触が刃を通して手に伝わって来る。肉壁がビクンと大きく震え、血が吹き出した。
なんというおぞましい光景だろう。こんな事をしておきながら己の気力が充実していくのに罪悪感を覚えもした。
リカルドは刀をルッツに返しながら、眉をひそめて口を開いた。
「これは誰の血なんだろうな」
「さあな、少なくとも俺たちの血じゃない」
身も蓋もないバッサリと切り捨てるようなルッツの物言いに、リカルドは思わず吹き出してしまった。笑っている場合ではないとわかっているが、笑えて仕方なかった。
「お前も迷宮探索に染まってきたな。本格的に冒険者を目指さないか?」
「俺もリカルドを鍛冶屋の弟子にしてやりたいよ」
「……なるほど、ままならんものだ」
そんな話をしながらふたりは肉壁の中を力強く歩き続けた。
どんなに残酷でおぞましい地獄でも、頼れる仲間が隣にいるなら歩いて行ける。それを幸せと呼ぶかどうかは、また別の話だが。
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