第7話 空想科学

 そのあと数日をおいて、幻想書店にふたたびあの男が現れた。朝から雨の降っている日だった。空模様はますます不安定で、天蓋ドームに明滅するノイズが暗い石畳の上にこぼれ落ちてきそうだった。


「読んでくれたか」 


 書店に入ってくるなり男は尋ねた。本屋は書架の整頓をしようと支度をしている最中だったが、手を止めると男にソファを勧め、自分も男の向かい側に腰を下ろした。数日前、花屋が座って本屋を見ていた――あのソファだ。


「読んだよ」

「どうだった」


 勢い込んで男が尋ねた。すぐにでもあのファイルを読んだ感想を聞かせてほしいという。本屋は慌てることなく事務机の上に置かれた古びたファイルを引き寄せた。


「いったいこのファイルに書かれていることはなんなんだね」


 口をついて出たのは、感想というよりは疑問だった。ファイルに記述された内容は、本屋の知らなかった事柄に満ちていたからだ。


 例えば「宇宙」に関すること。本屋は「宇宙」と書かれた青いファイルを手に取った。


青のファイル「宇宙」

https://kakuyomu.jp/users/gigan_280614/collections/16817139557981331792


このファイルにはある人物が宇宙を船で航行する記述があるが、本屋はこの宇宙というものを知らなかった。


「『宇宙』は、空の上にあって人の住む世界よりずっと大きく、どこまでも広がっていて、太陽や月やまだ人の知らない星が数えきれないほどある――そんなふうに書かれているが、これはどういうことだね」


【Book】の空は上空数千メートルの天蓋ドームで行き止まりだ。その向こうはない。空に浮かんでいる雲は、天蓋下面の半球体ディスプレイに表示された映像である。太陽も月も夜空の星たちもそうだ。【Book】の宇宙に実体はない。


「その小説に記述されているのが宇宙の姿だ」


 そもそも【Book】内で起こるすべての現象は、それらの事物がコンピュータ上でシミュレートされたものであり、【記述者】による演出である。


 赤く燃えながら暗い宇宙に光を投げかけ続ける太陽。夜空にかかる白い月、ひときわ明るく輝く宵の明星・金星、人類がはじめてその土を踏んだ惑星・火星、神秘的な輪をもつ土星、木星、海王星――。そして太陽系外はるかに遠い別の銀河。ファイルの中で空や宇宙を彩っているそれらのいずれもが【Book】の内には存在しない。なぜなら、それはここに住む人間にとって不要のものだからだ。


「まさか。きみは『これは作り話』だと言ったじゃないか」

「小説の記述がすべて作りものというわけじゃない」


 読む者があたかも真実を読んでいるよう小説の書き手は、工夫を凝らして事実に創作を織り込んでゆくのだと男は言う。


「空想科学小説というこの物語に描かれた出来事は書き手の創作だ。でも、宇宙や宇宙船に関する記述については事実その通りなんだ。そこに書かれている『宇宙』こそが、本当の宇宙なんだ」


 本屋は目がくらむような思いだった。天蓋を突き破ってどこまでも広がり、地球も、惑星も、太陽系も、銀河すら飲み込んでゆく無限の空間。それこそが本当の宇宙だという。


「……じゃあ、この記述はどうなんだ」


 本屋が次に掲げた赤いファイルの表には、「恋愛」と書かれていた。

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