第5話 領域記述
ずっと昔。【記述者】がネットワークを構築する前の出来事など今となっては知る方法はないが、それ以前、【記述者】が現れる以前には人間がファイルを作成することもあったという人がいる。【Book】の外にいるアバターとは別の肉体を持った人間が電子頭脳――コンピューターというらしい――を操作し、ファイルを書いていたというのだ。
「肉体。身体――ぼくたち人間だって? ぼくたちはそんなことしないよ。第一、人間には確かなことなんてなにもないじゃないか。不確実で不正確、効率的でなくコスパが高い。ファイルを書くのは【記述者】さ。それが【Book】のルールだろ」
金物屋の言うとおり、こんな与太話、本屋は馬鹿にして取り合ったこともなかった。そもそも【Book】の外に肉体を持つ、そこに人間の意識を閉じ込めるということにどんな意味があるというのだ? わざわざ意識に障壁を設ける意図が分からなかった。【Book】の内にあってこそ人間の意識はさまざまな情報に接続することができるのだし、【Book】を介してこそ、自身の持つ情報を皆で共有できるのではないか。
「このファイルは、昔の人間が書いた作り話ときみは言うんだな」
開いた口がふさがらない。
世間知らずの世迷言だ。いや仮に男の言うとおりだとしても、目の前のファイルが【Book】から切り離されたのは当然のことだ。人間の記述した作り話など、私たちの生活になんら寄与しない屑ファイルである。わざわざこんなものを本にしてまで【Book】に再接続する意味があるとは、本屋には思えなかった。わずかな容量ではあっても、不必要なファイルを接続する
「残念だが、このファイルを本にすることはできない。ほかを当たってくれ」
穏やかに断ったが、男は置いて帰るので一度でいいから目を通してほしいと食い下がった。
「一度でいい。この小説を読んでみてほしい」
また来ると言い残して、若い男は元来た道を黒い山の方へと帰っていった。机の上には古びたファイルを置いたまま。
「読む必要はないよ、こんな古いファイル。どうせ壊れて読み取れなくなってる」
「そうだな」
数日の間、ファイルは事務机の上に放り出されたままだった。小さなものではないし、邪魔といえば邪魔なので、片付けなければならなかったのだが、なんだか薄気味悪く思われたので触れることがためらわれたのだ。
「人間の作ったファイルだって? そんなわけないじゃないか」
意を決してファイルを手にとって、ぱらぱらとめくってみたのは、男が去ってから十日ほどもたっていただろうか。日が落ち、だれもいなくなった書店の片隅でファイルを広げた。部屋は暗く、暖色の照明がその一角だけを照らしていた。壁際のソファに深く腰を下ろし、本屋はその小説を読み始めた。
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