【短編】哀しい男

仁藤欣太郎

哀しい男

「なあ、マッポのおっちゃん」


 パトカーで警察署へ連れていかれる途中、アルコールと汗の匂いの漂う男は隣りに座る警官に話しかけた。


「私語は慎め」


 警官はただそれだけ口にした。


「俺が暴れたりする奴だったら、俺のその、私語ってのにもちゃんと返すんだろ? 仕方なくとはいえ。……なぁ、暴れないから聞いてくれよぉ……」


 男は俯いたまま警官とは目も合わさなかったし、口からは酒臭い息を吐いていた。しかし酔っ払いにしては変に冷静だった。警官は面倒くさいと思いながらも、男が醸し出す何やら憐れみを誘う雰囲気に釣られ、話を聞くことにした。


「署に着くまでだぞ」


 彼がそう言うと男は頭を上げ、彼の顔を見た。そして先ほど壮年の会社員の頭をビール瓶で殴った男とは思えない、穏やかで優しい笑顔を見せた。


「おまわりさん……。あんたいい人なんだな。ありがとう」


 警官は変な気分だった。居酒屋に駆け付けたとき、男はすでに他の客に取り押さえられていた。その横では、禿げ頭から血を流した会社員と思しき男が床に膝をついていた。救急隊の話から命に別状はなさそうだったが、数針縫う傷ではあったようだ。


 酔って気が大きくなって人を殴ることは、あってはならないことだが珍しいことではない。殺人に発展する喧嘩ですら、どこにでもいる普通の人の突発的な暴走が原因だったりするのだから。しかしこの男は、酔って揉め事を起こしたにしては妙に穏やかだった。


 男はまた俯き、そして静かに話し始めた。


「取り調べになったら詳しく話すけどよぉ、あの会社員、俺に説教垂れやがったんだ。酒くせぇ息吐きながら」


 警官はいきなり拍子抜けした。説教されたことに腹を立てて殴ったとは、あまりにも普通ではないか。彼は酔っ払いなんてまあそんなもんだよなと思い直し、ひとまず聞くと言った以上は最後まで聞くことにした。


「俺が言えたことじゃねぇのはわかってるよ。俺も十分酒くせぇ。キレて殴っちまった以上、法的にアウトなのは俺の方だってのもわかるよ。でもよぉ、気に入らねぇもんは気に入らねぇんだよ」


 気に入らないから殴った。理性の緩くなった酔っ払いなら珍しくない話だ。


「何が気に入らなかったんだ?」


 警官は尋ねた。


「なぁ、おまわりさん。素性のわからない他人様相手に親でも上司でもない奴が説教たれるってのは、やっていいことなのかい? 法的にじゃなく人として」


 男の憤りはやや幼稚に思えたが、警官はしかたなく質問に答えることにした。


「やってはいけないことを罰則と共に定めるのが法律だ。ただの説教なら法律には違反しない。じゃあ人としてどうか? そういうのは意見の分かれる話だ。意見の食い違いから起きるいざこざを収めるために法律がある。わかるよな? お前は頭が良さそうだから」


 彼はわりと正直に思っていることを口にした。すると男は一寸悲しそうな顔で警官の方を見た。


「そんな話じゃねぇんだよぉ、俺が聞きてぇのは。なんであいつら、他人に思い上がるなとか言いながら、自分こそがクソ思い上がった考えの持ち主かもしれねぇって、素直に認められねぇんだ?」


 警官は男の言い分がわからないわけではなかった。しかしそこは、彼にとって触れたくないところでもあった。彼は少し語気を強めて言い返した。


「口に出さないだけで、内心そういう後ろ暗さを感じてる人は多いんだよ。……それを認めたらむなしくなるから目を逸らしてるだけで」


 警官は俺だってそうだと言いかけたが、反射的に喉の奥で止めた。


「なんだよそれぇ。なんで目ぇ逸らすんだよぉ。ちゃんと見ろよぉ。人様に現実を見ろとか言うほど偉ぇんなら、できるだろーがよぉ、それぐらい」


 男は納得しない。より一層悲壮感を醸し出して嘆くばかり。警官は少し苛々が募りだした。


「あのなぁ、人間はそんなに強くもなければ頭がいいわけでもねぇんだよ。それを理解して、納得して、適度に目を逸らしながら上手くやるのが大人ってもんだろ。さっき免許証見たけど、お前もう三十だろ。今までの人生で何度も見てきただろ、そんな奴。どうにかしようとしてどうにかできる話じゃねぇんだよ」


 そこまで言って、警官は自分も初対面の相手に説教をたれていることに気が付いた。


「……まあ、赤の他人に説教たれる奴も褒められたもんじゃないが……」


 警官が一歩引いたのを見て、男もまた引き下がった。


「……いいよ、おまわりさんは。いい人だし、教師と警官と神父様は説教するのが仕事なんだから」

「……」


 沈黙が流れた。信号待ちの最中、焼肉屋の前で楽しそうに喋る会社員の声が聞こえてくる。警察署が近づいてきたので、警官はミラー越しに運転手へ合図を送り、少し迂回するよう伝えた。 


 しばらくして男はまた喋りだした。


「あのおっさんもいろいろ事情があんのはわかるよ。嫌なことがあって、ストレス発散のために説教たれたくなんのもわかる。そういうのは聞いてるふりして聞き流すのが大人ってのもわかる。……でもじゃあ、俺がおっさんから受けたストレスはどこに発散すりゃいいんだよ。その場で与えた相手に返さなきゃ、どんどん下へ下へ回って来るだけじゃねぇかよ」


 男の言い分も一理あったが、ここで引き下がるわけにはいかない。警官として「やられたらやり返す」を肯定はできない。何より我慢することを否定したら、自分の積み上げてきたものが崩れるような気がしたから。


「だからってビール瓶で頭どついていいわけじゃないだろ!」

「わかってるよぉ!」

「わかってるのはわかってるよ! どうあれ、だ! どうあれ多少不快なことを言われても聞き流せって言ってるんだよ!」

「俺は……俺はそんな器用に生きられねぇよぉ」


 押し問答の末、ついに男は泣き出してしまった。


 警官はこの哀しい男の話に共感できなくもなかった。むしろ普段蓋をしている本心は、男の訴えに共感している節があった。


 これまで腹の立つことは山ほどあった。そういうものだと割り切って飲み込んでいた。だが自分はそうすることに納得していたか? そんなわけはない。自分も心から納得してはいない。多くの大人はそうだろう。警官は認めざるを得なかった。この男ほどではないにせよ、自分も哀しい男なのだと。


「お前もう飲み屋行くな」


 警官は男に言った。


「なんでだよぉ」


 ぐずりながらごねる男。警官はその胸ぐらを掴んで引き寄せた。


「なんでじゃねぇだろ! 居酒屋で他人の頭ビール瓶で殴って捕まってんだぞ!? お前わかってんのか!? 初犯だし、被害者は致命傷じゃなかったからよかったものを、お前自分の人生台無しにする気かよ!?」

「……」


 男は悲しそうな顔でただ黙っていた。警官の言っていることは正論だった。返す言葉などあろうはずがない。警官はさらに畳みかける。


「お前さっき、自分を見下してきた奴を見下しただろ!? お前もやってることは同じじゃねぇか! 自分がろくでもないと思ってる奴と同じことしてんだぞ!? 居酒屋で他人に絡んで説教する奴。煽り運転する奴。他人のことは批判するのに自分の非は何一つ認めない奴。そういう奴を見て、ろくでもないって思うだろ? じゃあお前がしたことは何だ? 気に入らない相手をビール瓶で殴った。自分のことを棚に上げて他人に危害を加えてるのはお前も同じじゃねぇか! お前そんなんでいいのかよ!? 自分の行いに納得できてんの!?」

「……」


 最早ぐうの音も出ない様子だった。そして警官も、自分自身の言葉を噛み締めながら喋っていた。


「いいか。世の中には我慢しなきゃならないこともあるし、身を引かなきゃならないときもある。すべてそうしろとは言わない。ただお前が真剣により良い人生を歩みたいって言うなら、一つ一つの行いを冷静に選べ。聞く耳が無いわけじゃないだろ? こうして会話できてるんだから」


 警官の迫力に押され、男はついに折れた。


「……わかったよ、おまわりさん」


 二の句が継げない。そんな表情だった。


「着いたぞ。出ろ」


 いつの間にかパトカーは警察署に着いていた。時間は深夜零時。哀しい男たちの夜は長い。

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