第5幕「今際の際の□兄いの言葉」

 夜までの間、私はジューン様と二人で過ごした。

 ジューン様は私に、これまでの長い長い旅のお話を聞かせてくださった。

 ジューン様は私を騙そうとしているんじゃないか、とか。ジューン様がなんで私なんかを助けてくださるのだろうか、とか。そんなことを思っていた自分が恥ずかしくなるくらい、ジューン様は分け隔てなく、たくさんの人を救って来た立派な方なのだと知った。

 ジューン様の活躍で迎えるハッピーエンドや、時折り混じる悲しい出来事に、私が目を湿らせるたび、ジューン様は純粋な人だと私を笑った。

「そんなんじゃありませんって。ジューン様のお話がお上手すぎるのが悪いんですよ」

 と反論する私を、ジューン様は何度も笑った。もう、と思ったけれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。

 それから、ジューン様は私の話も聞いてくださった。

 最初はさほど深く話すつもりはなかったけれど、一度口にしたら、自分でも驚くほど止まらなくなってしまって、気づけば私は溜め込んでいた思いをあらかた吐き出してしまった。

 さびしかったこと、羨ましかったこと、申し訳なかったこと、もう誰にも死んで欲しくないこと、自分が許せないこと……。

 ジューン様はそんな私を、不器用ながら真っ直ぐな言葉で励ましてくださった。自分の体験を語るのとは裏腹に、人の悩みを受け止めるのはあまりお上手ではなかったけれど。

「セーラさんは悪くないですよ。悪いのは全部、アスモダイオスです」

「……ジューン様、さっきからそればかりですね」

「えっ……。っ……」

「ごめんなさい。今のは私が悪いです。私、嫌な女ですね……」

「そんなことないです!」

「……!」

「いや。たしかにちょっと、その、ほんの少しだけ、嫌な女だったかもしれませんけど……。僕は、旅の中で、たくさんの苦しんでいる人たちを見てきました。彼らはやはり、多かれ少なかれ荒んでいました。当然です。それ以外に、自分たちの心を、身を守る方法はなかったのですから。そんな中で、すぐに自らの弱さを認めて反省できる潔さは、その……、なんと言えばいいか……、いい人です。セーラさんは、とてもいい女性です!」

「……」

 ジューン様はとても真っ直ぐだった。

 最初は、とてもすごい勇者様で、私なんかとは住んでる世界が違う別の人種だと思っていた。でも、そうではなくて。不器用なところもある、普通の男性だった。でも、そんな不器用な慰めにも、真剣に励まそうとしてくださっている真摯な情熱が感じられた。私はそんなジューン様の真っ直ぐさに、ほんの少しだけれど救われた気がした。

 そして、最後に言ってくれたのだ。

「アスモダイオスは今晩、僕が必ず倒します。もちろん、僕も死にません。二人で、笑顔で朝を迎えましょう」

 そう言って微笑むジューン様の言葉には、説得力があった。そして何より、優しさを感じられた。だから、私も笑顔になれた。

 夕飯も一緒に食べた。

「美味しいです。美味しい……」

 そう言ったかと思うと、ジューン様は黙々と私の手料理を口に運んだ。さっきまでずっとお喋りしていたのが嘘みたいに、ジューン様は夢中で料理を平らげてしまった。私は、どんな賛辞を並べられるより、その食べっぷりがすごく嬉しかった。

 手間暇かけて作った料理に、表情が返ってくることの幸せを、私は久しぶりに味わったのだ。

 ――でも、楽しい時間は、過ぎてしまえばあっという間で。

 遂に、その時がやって来た。

「……」

 星明かりだけが夜闇をどける寝室のベッドで、私はジューン様と向かい合った。

 考えてみたら私の家で、私が普段生活しているお部屋で、私のいつも使っているベッドの上で、男性との初夜を迎えるのは始めてだ。

 色んな記憶が頭をよぎって、とてもドキドキしてしまう。わかってる。これはあくまでアスモダイオスをおびき出すためのふりで、本当に何かするわけではなということは、わかってる。

 でも、それなのに、今までで一番緊張する……。

「で、では……、脱が……しますよ……?」

 そう言ったジューン様の手は、薄暗がりでもわかるくらい、戸惑っていた。

「……ふっ。ふふ」

「なんですか?」

「ごめんなさい。ジューン様も、緊張とかするんですね。なんか、そう思ったら可笑おかしくて」

「っ……! それは! 仕方がないではありませんか。確かに僕は、傍若無人な悪人や危険な怪物を相手にするのは慣れています。でも……こんな……、美しい女性の相手なんて……慣れていないのですから……」

「……」

 私はまた余裕を失った。飾らないジューン様の言葉で褒められたから、取り戻した余裕はどこかに行ってしまって、恥ずかしさでいっぱいになった。

「それでは……、失礼しますよ?」

「……」

 私は無言で頷いて、視界の隅で伸びてくる手を待った。怖くないのは初めてだった。いや、怖いのは怖いけれど……。嫌でないのは初めてだった。

 それはきっと、これがふりで終わるとわかっていたからではなくて……。

「っ!」

 ジューン様の息のおとと共に、私の視界からその腕が消えた。あと少しで私の服に触れていたジューン様の手が、遠くへ行ってしまったことに、私はさびしさを覚えていた。こんな時に、私は何を考えているのだろう。

 顔を上げれば、ジューン様と悪魔が相対している。

 ジューン様は悪魔の攻撃を飛び退いてよけていた。私に手を出そうとした男性は、みんな悪魔に押し倒されていたというのに……。やっぱり、ジューン様はお強い勇士様なんだ。

「お前がアスモダイオスか」

「……」

 黒衣の悪魔は答えない。でも、そのか細い体躯、恐ろしい形相、ふたつの角、その姿は紛れもなくアスモダイオスのそれだった。

「我が名はジューン・トビア・ラファエル! 色欲の悪魔アスモダイオスよ! セーラさんを苦しめ、多くの命を奪ったお前を、神の思し召しに従い断罪する!」

 そう宣言すると、ジューン様は剣を構えて踏み出した。それまるで風のようで、素早く美しくアスモダイオスを襲った。

「……」

 しかし、アスモダイオスはそれを軽々とかわし、細腕でいとも容易くジューン様の首を捉えた。

「ジューン様!」

 思わず叫んだ私の前で、ジューン様は飛ぶ鳥のように剣を振るいアスモダイオスの腕を切り落とす。

「……ケホッ、ケホッ。……大丈夫、セーラさん。僕は死なない。貴方をこれ以上、不幸にはさせない!」

「ジューン様……」

 私の胸がきゅっとなる。

「はぁーあっ!」

 ジューン様が声を張り上げ、片腕を失った悪魔に切りかかる。

「……」

 アスモダイオスの胴を斜めにやいばけ、哀れな悪魔はあっけなく床に倒れた。

「――」

「!?」

 アスモダイオスが何かを言った、ような気がした。聞いたことのない声音こわねが、微かに耳に届いたから。

 そして、それにジューン様が反応したように見えた。とても驚いたような、何かを言い当てられたような、そんな反応だった。

「……」

 沈黙がしばし、寝室に満ちる。

 星が何度、瞬いた頃だろう。ジューン様は静寂を壊さずに動きを取り戻した。ほとんど音を立てず、アスモダイオスの首の脇に回り込んだ。まるで、ジューン様以外の全ての時が止まっているかのような、そんな光景だった。

 間もなく、剣が突き立てられる音がして、ぐいっと振り子のように剣が振れた頃には、私の感覚は時間を取り戻していた。

 ジューン様の足元で、薄暗い床が影の色に染まる。私はその時初めて、あの悪魔も血を流すのだと知った。

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