第33話『走れ、ハルくん!』


 走る。ハルシオンは走る。

 はあはあ、よたよたと息を切らせ。

 帽子を小脇に抱え、タイを緩め。

 走る。ただひたすらに走る。

 潮の湿気に、汗が伝う。

 それでもあがく様に、手足を振るった。


「ま、まてぇ~……」


 絞り出す声も空しく、夕暮れ迫る人ごみに呑まれた。

 遥か先を駆け抜けて行く、みすぼらしい身なりの子供ら。その一人の腕には、その身なりとはかけ離れた、立派な黒革の鞄が抱えられていた。


 かっぱらい。


 ハルシオンが表通りへと抜けた瞬間、襲われた。複数の子供に、十代にも満たないひょろっとした小さな影に、一斉に襲い掛かられたのだ。


 鞄を奪われた。


 金貨九百五十枚もの大金が入った、大切な書類入れの鞄を。

 あいつら、最初からそれが狙いだった。


 浮浪児、孤児、それらは無秩序にその辺をたむろしている様に見えて、実は非情に組織立った序列に仕切られている。

 小さく弱い者は、より力の強い者の下に付き、上に行けば行く程に強力な暴力装置の歯車と化す。ヤクザ、ギャング、冒険者。それらが吸い上げた金が、どこへ流れつくのかを知る者は少ない。


 しくじったと痛感した。

 あんな大きな声で、金額の交渉をしたものだから、奴らの耳に入った。そして命じられた。足の早いのが。今そいつらが、とてもじゃないが追い付けない速さで駆け抜けて行く。


「あ、あんなに重いのにっ!」


 手に何も持っていない自分が、どんどん離されていく。

 ハルシオンは、日中なのに、まるで闇の底知れぬ坩堝へと自ら駆け下っていく感覚を覚え、戦慄に身を震わせた。


「え……して……かえ……して……」


 目が霞む。肺が焼ける。足が、身体がもう、動かない……


「何してるの~、ハ~ルくん♪」


 不意に耳元で彼女の声がした。今日、会ったばかりの明るい女の人の声が。そんな訳無いと、頭では思いつつ、みっともない姿を晒してる自分に、心底死にたくなった。


「か、鞄が……」


 辛うじて、前を指さした。


「ああ、アレね?」


 一瞬、随分と高い所から声がした様な。


「ちょっと待っててね~♪」


 ふわっと風が巻いて、甘いジャスミンの香り。

 もう走れない。立っているのがやっとのハルシオンは、あっと言う間に見えなくなった黄色いワンピースが、陽光に眩しく映える様を見送った。


「……ジャスミンちゃん?」



 幾ら素早いと言っても、二本足でラミアの走る速度には叶わない。

 即座にきゃっきゃと走る子供らの間に滑り込むと、余裕で声をかけた。


「ばあ~」

「わわっ!?」

「それ~、返してくれる~?」

「やだね!」


 そう叫んだ子供は、隣の子供に鞄を放った。そして、それを受け取った子供は、即座に路地へと駆け込んだ。


「も~、いけないんだ~」


 ぷうっと頬を膨らませ、ジャスミンはくるっと尻尾を返してその路地へ滑り込む。邪魔する子供、倒される酒樽、そんな物をひょいひょいすい~っと乗り越えて、倉庫の裏へとやって来た所で、このチェイスは終了した。


「へっへっへっへ……」

「なあ~んだ、お嬢ちゃん?」

「いけないねえ~、もうお家に返れないよお~」


 鞄を抱えた子供の手前に、ナイフや棍棒を手にした如何にもな連中が六人。後ろからも退路を断つ様に、三人がぞろぞろと顔を出した。皆、筋骨隆々とした気の荒そうな大人だ。

 十代後半から、三四十代と言ったところ。


「あの~、ハルくんの鞄を返して貰えませんか~?」

「ハルくんの鞄を返して貰えませんか~? だとよ!?」


 むさいおっさんの可愛らしく作った猫なで声に、みんなでゲラゲラと笑い転げる。

 そんな様を、きょとんとジャスミンは眺めていた。


「あの~」

「あの~じゃないの、可愛いお嬢ちゃん。ハルくんの鞄なんて、もう無いの。お嬢ちゃんも、もう俺たちの物なんだよ~。判る~? お嬢ちゃんには、ちょっと難し過ぎたかな~?」


 げらげらと笑いが反響するこの倉庫裏で、ジャスミンはゆっくりと一人一人を眺めてみた。


 大人の男の人が九人も居るんだけど、どれもハルくんみたいにぴーんと来る物が無い。やっぱり自分にとって、ハルくんが特別な存在なんだって改めて実感する。

 なんて言うか、こう一緒に居て、守ってあげたくなるって感じが、そんな自分も含めてとても素敵に想えました。


 でも取り合えず、もう一度だけお願いしてみます。


「その鞄が無いと~、ハルくんが困っちゃうんです~。大人しく、返して貰えませんか~?」

「判んねえメスガキだなあ~! おい! 誰か、判らせてやれや!」

「へっへっへ! じゃ、俺が一番~!」


 一番近くに居た人が、ナイフをちらつかせながら、近付いて来るのを、面倒だな~と眺めていたジャスミンは、そのとろい動きを待たずに、一発顎にかましてあげた。


「ぐえ……」


 膝から崩れる男に目もくれず、鞄を抱える子供をじいっと睨みつける。きょどった子供が樽の影に隠れるのを追いかけ、ゆっくりと倒れた男の身体を乗り越えた。


「このアマ!」

「やったれ!」

「痛い目みさせてやれや!!」

「おう!」


 一斉に踊りかかる男たちの動きが、異様にスローモーに感じつつ、すり抜ける様に拳を放つと、おかしな事が起きた。


「あら~?」


 周りに立つ四人の男がぐらっと倒れ伏す中、ジャスミンは右に左にと拳を振るってみる。すると、何だか自分の腕が幾つにもぶれて見えるのだ。


「これって……腕輪の力~?」

「な、何だこの女!?」

「お、応援を!」

「うひい!!?」

「こ、殺せえ!!」


 やっぱり二本足の動きはとても遅い。

 ちょっと考えたジャスミンは、この腕輪の性能を試してみる事に。もしかしたら、こんな使い方も出来るんじゃないかしら?って。


 途端に、ジャスミンの姿そのものが四つに分かれた。


 それぞれに男らの前に立ち、にっこりと微笑み手を振る。次には男たちの顎をそれぞれに叩いて回り、次には一つの姿に戻っていた。


「ふう~……何これ~、面白~い♪」


 きゃっと飛び跳ねて、樽の上に。


「さ、ボク~。鞄を返してくれる~?}

「は……はひい……」


 ガタガタと震える手で差し出された鞄を受け取り、ジャスミンはまるで何事も無かったかの様に、その路地から表へと抜け出た。

 勿論、ハルくんに返してあげる為に。


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