第17話 その名前
その異様な光景は、多くのエンペリア市民に目撃されたという。
エンペリア城の方角で、空中に老婆が浮遊している。二階建て以上の邸宅を持つ貴族たちはその最上階から、庶民たちは屋根の上に登って、その姿をしかと見ていた。
「何者なんだ……?」
さしもの宰相からも、ゾルマを見上げる表情から余裕の笑みが消えている。
「ゾルマ……」
涙目のアレックスがつぶやいたことで、宰相にもこの空飛ぶ魔女の名が知れた。
「ゾルマだって……? まさか……」
「フン」
ゾルマが空中で手を掲げた。爪の長い五本の指から五本の雷光が走り、兵士たちの足下で炸裂する。
魔女の恐ろしさを示すには、それで十分だった。尻餅をつき、後ずさりをし、槍を捨て情けない声を上げて逃げ出す兵士たち。彼らには、国を乗っ取ったばかりの宰相を命がけで守るほどの忠誠心がまだ育まれていない。
「もしや貴女は……あのゾルマ・フォン・グローバーでは……?」
レーダとアレックスがはっと顔を上げる。
ヴァルターが己と同じ苗字を付して、ゾルマの名を呼んだのである。
「フン、その名前で呼ばれるのは百年ぶりだよ。……いや」
ゾルマがゆっくりと地上へ降り立つ。彼女は姉弟と、ヴァルターとの間に立った。
「百年ぶり……ですわね。わが弟オットーの
がさがさの声で、しわくちゃの顔で、ゾルマがかつての言葉遣いで一礼する。レーダのよそ行きの振る舞いによく似ている。
「どういうこと? フォン・グローバー? それに『百年ぶり』って……」
何かがアレックスの記憶の中で繋がる。
ジークが教えてくれた。この国は百年前にも、フォン・グローバー家と王家との対立によって危機に陥ったことがあると。けれども当主のルドルフが急死したために事なきを得たのだと。
「ルドルフ・フォン・グローバーの……親戚なの?」
レーダの問いかけに、ゾルマがちらりと背後に視線を送る。
「ゾルマは、ルドルフ公の姉上だよ。フリーゼ王国史上最強の魔力を持ち、万物を思いのままに操る『全能の魔女』ゾルマとして語り継がれてきた」
代わりに答えたのはヴァルターだった。ということは、ゾルマはヴァルターの
「貴女は弟のルドルフ公に力を貸してこの王国の覇権を手にし、ひいては世界征服にも乗り出すはずだった。それなのに……貴女はルドルフ公の突然の死とともに、行方をくらませてしまったんだ」
世界征服。あまりにも発想が大胆すぎて、姉弟ともに二の句が継げない。
けれども空を飛び、軽々と雷光を操り、枯れた草花を思い通りに甦らせるゾルマなら不可能ではないとも思えた。そもそもみんな呪いをかけてしもべにしてしまえば、誰もゾルマには逆らえないのではなかろうか。
「世界征服は貴女とルドルフ公の悲願だったはず。なのに、どうして? この国を世界の頂点に立たせ、世界中から食糧を安く調達すれば、毎年の食糧難を解決できる。そうすることでこの国が救えるのだと……それが貴女がた姉弟の考えだったのでは?」
「あんたも同じ考えで、フランメル王を処刑したのかい、ヴァルター?」
ゾルマが元通りの喋り方で問い返す。
「僕には貴女ほどの魔力はないよ、ゾルマ」
「そうかい。そりゃあ残念だったね」
「僕の質問にも答えてほしいな」
宰相はもう右手を掲げていない。魔力でゾルマと戦うのは分が悪すぎると知っているのだ。
「いいだろう、せっかくオットーの曾孫に会えたんだ。あいつのよしみでひとつだけ教えてやるよ。……ルドルフはね、私が殺したのさ」
アレックスが密かに目を見開く。
(ゾルマは、弟を殺したの?)
ヴァルターがさらなる疑問を差し挟む前に、辺り一面が白く光る。
彼が思わず目を閉じ、開いた後には、ゾルマも、姉弟も、エーミールとその馬車も、忽然と姿を消していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます