第15話 なみなみ
それは、アレックスにとっては青天の
レーダとともに、すでに日課となった朝の水汲みに出かけていたときのことだ。いつもの井戸のところに馬車が止まっている。積み荷は藁、エーミールの馬車だ。
エーミールはどこだろう? そう思った瞬間、突然後ろから羽交い締めにされた。
「すまんな、アレックス。ちょっと付き合え」
「エーミール⁉ どうして⁉」
もしかして、エーミールは僕たちを宰相閣下に売るつもりなの?
必死であがき、エーミールの腕を思いきりひっかいた。毛むくじゃらの腕に傷が走り赤いしずくが散っても、エーミールはものともしない。
辺りを見回してレーダに助けを求めようとする。が、なんとレーダは自分から藁が乗った荷台に乗り込んでいるではないか。
「アレックス、おとなしくついてきてちょうだい。理由は道中に説明するわ」
レーダは冷たく言い放った。
訳も分からず荷台に投げ込まれ、藁の上に転がされた。馬車が全速力で走り出す。
荷台の上には、藁だけでなく家出するときに持ってきた荷物も載っていた。いつの間に持ち出されたのかは分からない。
「姉さんが仕組んだことなの⁉ なんで⁉ なんでこんなことするの⁉」
「ばかね、あなたは」
レーダがあの冷たい視線を向けてきた。思わず身が縮む。
「アレックス、まさかあなた、いつまでもこの森でゾルマのしもべとして生きていくつもりだったわけじゃないわよね?」
「それは……」アレックスは口ごもった。「でも、どこへ行くの? 常灰の森の外に出たら、宰相の兵隊に捕まっちゃうよ」
「この国から出てしまえばいいのよ」
レーダは自らの計画をアレックスに語った。
馬車はパルメア港に向かっている。エーミールの用立てた偽造旅券で外国に行って、アレックスの力で裕福な病人を治療して生計を立てる。治療費の交渉はレーダが受け持つ。きっと裕福な暮らしができる、とレーダは請け負う。
「……そのために、僕を連れて家出したの?」
「そうよ」
レーダは平然と言い切る。アレックスが最初に想像していた通りだった。アレックスは、ただ姉に利用されるためだけに連れ出されたのだ。
姉の計画は、どれくらい現実味があるのだろう。その判断以前に、アレックスは悲しくて仕方がなかった。
レーダは、アレックスのことを一切
お金のために癒やしの力を利用されるのが嫌なことも。いつか両親と再会できると信じていることも。常灰の森から離れがたいと感じていることも。
そして、以前より姉のことが好きになってきたことも。
けれども、臆病で無知なアレックスには、言い返す言葉がろくに思い浮かばない。
「ジークが僕たちのために食事を作って待ってくれているのに……」
アレックスにできた反論はそれだけだった。後は涙で声が出ない。
「思い出してちょうだい。そもそも、わたくしたちが常灰の森に辿り着いたのは偶然。ゾルマのしもべになったのも偶然。……出て行く理由はあっても、あの家に帰る理由なんてないのよ」
レーダはアレックスの頭上に藁束をかぶせた。
アレックスから姉の表情が見えなくなり、そのまま姉弟の会話は途絶えた。
***
少しくらいは、弟には気の毒なことをしたと思う。両親の今後が気にならないわけでもない。かわいいジークと離れるのも、正直つらい。
それでもこの国から出たいと思うほど、レーダは並々ならぬ決意を固めていた。毎年「灰枯」の飢えに怯え、「百花」が来ても次の「灰枯」のことが頭から離れない、このちっぽけで不幸な島国から。
南の大陸には四つの季節があり、季節ごとに得られる作物が違い、違った花が咲くという。「冬」という、「灰枯」に似た寒冷で作物が育ちにくい季節もあるが、何も採れないわけではない。人々は知恵を寄せ合い、冬でも豊かに生きられるように田畑の改良に努めている。言い換えれば努力次第で、状況を変えられる可能性があるのだ。
どうせ生まれるならそんな国に生まれたかった。でも、今からでも遅くないはずだ。
「着いたぞ」
馬車が止まる。荷台に上ったエーミールが藁を取り除き、レーダの視界に眩しい太陽が輝いた。彼女の正面で膝を抱えているアレックスは、蒼白な顔をしている。
立ち上がって周囲を見渡すより先に、レーダは嗅覚で異変を感じた。
――花の香りがする。潮の香りはしないのに。
「ようこそ、ハインツの子どもたち。自分から来てくれるなんて、素直ないい子たちだね」
甘ったるい声に悪寒が走る。レーダは弾かれたように立ち上がった。
金色の髪と紫の瞳。高貴さのにじみ出る、群青に金銀刺繍の礼装。
堅牢かつ美しい門の向こうに広がるのは、エンペリア城の庭園に違いなかった。
その男は、荷台の上の姉弟に向かって、妖艶で不敵な笑みを向けていた。
「はじめまして。僕はヴァルター・フォン・グローバー。君たちのお父さんの友達だよ」
レーダも、アレックスも、すぐに状況を理解した。
「エーミール、わたくしを騙したのね!」
荷台から飛び降りたエーミールが振り向いたが、彼からは何の表情も読み取れなかった。
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