第9話 団扇
この日の昼食は、昨日ジークが作ったパンと不思議なスープだった。
そのスープは、黄土色に濁っていた。暗緑色のべらべらした平たい草のようなものも浮いている。
姉弟ともども、最初は嗅いだことのない臭いに顔をしかめた。何か腐ったものが入っているのかとも思った。
「これは味噌汁というんだよ。外国の料理だ」
そうジークに教えてもらわなければ、口にする気にはならなかったかもしれない。
ジークは台所にある材料を見せてくれた。
まるで木片のような塊は「鰹節」といって、カツオという魚を煮て
ねっとりした、茶色の泥に似た調味料が「味噌」だ。大豆を発酵させて作った調味料で、こないだハゼランにかけて食べた「醤油」の仲間みたいなものだそうだ。暗緑色のべらべらは、ワカメという海で採れる草である。
何が入っているのか分かれば、味噌汁など恐れるほどのものではない。姉弟にとっては食べ慣れない風味ではあったが、飲み終わる頃にはだんだん美味しく感じてきた。
「ゾルマの好物なんだ。パンよりお米と一緒に食べるほうが合うみたいだけど、いまはちょうど切らしていてね」
ちなみにジークは料理を作りはするが、自分では食べない。その代わり、ときどき姉弟が汲んできた水桶に浸かって、「生き返るなあ」と言いながら水分補給している。まるでお風呂に入っているかのようだ。
ジークが元気になるなら、水汲みをするのも悪くない、とは姉弟の共通見解だ。
「ねえジーク、前から気になっていたんですけれど」
レーダが口を開いた。
「『醤油』や『味噌』は、どこから入手していらっしゃるの? この森で大豆が採れるようには思えませんけれど」
まして『鰹節』なんて、原料は海の魚である。常灰の森にいるはずもない。
「そういえば、この家には塩や砂糖や、油もあるよね? パンを作る小麦粉やバターも……」
アレックスも後に続く。
ジークが答える前に、赤い扉が開いた。
ゾルマが食べ終えた食器を携えて立っている。その迫力に、アレックスは思わず身を縮めた。
「そろそろ来るよ、あいつが」
ゾルマの視線は窓の外に向けられていた。
姉弟が濁った窓ガラスに張りつくと、一面灰色の森の向こうで何やら動いている影が見える。どうやらこちらに近づいてくるようだ。
「待っていたよ。みんなで彼をお出迎えしてあげよう」
いち早くぱたぱたと外へ飛び出したのはジークだ。ということは、警戒する必要はないのだろう。姉弟が外に出ると、先ほど見た動く影は荷馬車だったことが分かる。
藁売りの馬車だ。
「よう、みなさんお揃いで」
馬に乗った長髪の男が、ジークに応えて左手を挙げた。姉弟にとっても見覚えのある顔である。
「あなた、この間の……!」
「覚えててくれて嬉しいぜ。お嬢ちゃん、俺はエーミールってんだ。よろしくな」
まばらに残る無精髭と、にやければ皺の寄る口元。容貌を見れば姉弟の両親よりは老けて見えるから、四十は過ぎているだろうか。
しかしエーミールがまとう雰囲気は、父ハインリヒ・フォン・シプナーのそれよりもはるかに若々しく、そして軽薄だった。
「おや、知り合いだったのかい? エーミール」
ジークが不思議そうに長身のエーミールを見上げる。「ちょっとね」とエーミールはウインクした。
あやしい大人――それがレーダの彼に対する第一印象であり、アレックスもまた「なんだか怖い」と異口同音の感情を抱いた。
「あなたが私たちをここに連れて来たのね! ゾルマのしもべにするために!」
「おいおいお嬢ちゃん、そりゃあ早合点が過ぎるな。俺の馬車に勝手に潜り込んだのは君らのほうだろ? 馬車から飛び降りて逃げ出したのも、このゾルマの家に辿り着いたのも全部君らだ。俺は何にもしてないぜ」
言われてみれば確かにそうだ。レーダはいったん怒りを鎮めたものの、どうもこのエーミールという男はうさんくさい。
「そう怖い顔しなさんなって。ゾルマのしもべ同士、仲良くしようぜ」
「エーミールも、ゾルマのしもべなの?」
アレックスが問いかけると、エーミールはしゃがんで「そうだよ」と笑った。
「俺は行商人として、ゾルマのために各地からいろんなものを仕入れてくるんだ」
「それじゃあ、『醤油』や『味噌』もあなたが?」
「おうよ。この森で採れないもんは全部、俺が国中探し回って見繕ってくるんだ」
それで、この家にいろいろな食材が揃っているというわけだ。
「いやー、骨が折れるのなんのって。ホント、しもべはつらいよなあ」
「よく言うよ。私のおかげで左うちわのくせに」
いつの間にか、アレックスの背後にゾルマが立っていた。
「左うちわって何?」
アレックスの疑問を無視して、魔女とエーミールは話を続ける。
「さあ、今日もたんまり仕入れてきましたぜ、ゾルマ様」
「どれ、見せてごらん」
エーミールが荷台の藁をずらすと、その下に木箱がいくつも摘まれていた。
中身は醤油や味噌、塩などの調味料と、乾燥させたワカメなどの保存の利く食料品がほとんどだ。小麦粉もある。ソーセージや鶏肉の塩漬けが目に入ると、姉弟は思わず目を輝かせた。
「フン。なかなかの品揃えじゃないか」
「ご満足いただけましたかな? それじゃあゾルマ様、お代を頂戴いたしますよ」
ゾルマが藁束の上に手を翳す。見る見るうちに藁束は黄金色の輝きを取り戻し、豊かに実った小麦へと姿を変えた。
「すごい……」
レーダが声を上げた。この力があれば、「灰枯」でも決して食うに困ることはないだろう。
「毎度あり。これでまた商売ができますよ」
エーミールは藁と一緒にゾルマが所望する品を運ぶ。見返りにゾルマは藁を小麦へ変えてやる。エーミールはそれを売って稼ぎ、それを元手に仕入れをするという寸法だ。
いまは「百花」だが、「灰枯」の時期なら何倍もの値段で売れるだろう。この国は毎年「灰枯」になると食糧難にあえいでいる。裕福な貴族なら、いくらでも金を積むはずだ。
「それでエーミール、仕入れてきたのは、食べ物だけじゃあるまいね?」
「まさか」
エーミールがにやりと笑った。
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