満開の桜の下で(全3回)

黒っぽい猫

第1話 事故

4月最初の日曜日。その日は桜が満開で、すでに花吹雪となっていた。花曇りだが気温は5月上旬の陽気。お花見ができる最後の休日だった。夫と私は3歳になった娘のかおりを連れて龍神池に桜を見に来ていた。


池の周囲、堤に沿って遊歩道があり、数十本の桜の樹が植えられていた。毎年この季節は桜並木が満開になり、近所の人たちがお花見に訪れる。私たちが住むアパートは、龍神池から歩いて10分のところにあった。


満開の桜の下にレジャーシートを敷いて、朝に手作りしたお弁当を広げたタワラ型のおにぎり。唐揚げに卵焼き。肉巻きアスパラは夫の好物だった。娘のかおりはチーズかまぼこが大好きで、チーかまばかり食べていた。


かおりはチーかまを食べたあと、落ちてくる桜の花びらを追いかけていた。微風が吹くたびに桜の花びらが舞い、娘も花びらを追ってくるくると舞った。桜の枝は遊歩道の上まで張り出しており、道路の上に花吹雪が舞っていた。


缶ビールを飲んでいた夫は、もう少し飲もうかなと近くのコンビニに行った。私はフリルのスカートを翻して路上でくるくる回る娘のかおりを眺めていた。幸せだった。夫がいて、娘がいて、満開の桜の下でお花見できるなんて。


桜の花の隙間からキラキラと木漏れ日が漏れてきた。空が晴れてきたようだ。ほんのりただよう桜の花の香り。はらはらと舞うように落ちてくる桜の花びら。私はこんな美しい世界があることを、愛する家族がいることを神様に感謝した。



その時だった。



遊歩道のほうから高い女性の叫び声がした。


「子供が! 女の子が池に!」


ざわざわと急に人が集まってきた。

さっきまでくるくる回っていたかおりの姿が見えない。


「ママ! ママ!」


聞こえてくる悲痛な子供の叫び声は、かおりのものだった。


私は遊歩道に飛び出して人だかりをかき分け、柵から身を乗り出して池を見た。柵の隙間から出て池に滑り落ちたかおりが菜の花を掴んで首まで浸かっていた。


「どうしよう! すぐに助けないと!」


私が柵を乗り越えようとしたとき、1人の若い男性が柵を軽々と飛び越えた。


池は思ったより浅かったが、それでも男性の胸くらいの深さがあった。身長が1メートルもない3歳の娘が溺れるのに十分な深さだった。私なら首まで浸かっていたかもしれない。


男性はかおりをしっかり抱きあげ、泣きじゃくる娘の顔に付いた泥を拭った。


「大丈夫。もう怖くない。ママのところに戻ろう。」


柵を乗り越えようと上半身を乗り出した私の肩を背の高い初老の男性が制した。


「奥さん、危険です。私に任せてください。」


軽々と高く持ち上げた娘を、柵越しに初老の男性がしっかりと受け止めた。


「怖かったね。大丈夫。ほら、お母さんがいる。」


私はかおりを抱きしめ、何度も名前を呼んで泣いた。まわりから安堵の吐息や助かって良かったという小声が聞こえた。


「みなさん、ありがとうございます。私の不注意でご心配をおかけしました。」


私は、池の中にいる若い男性と初老の男性と周りの人全員に何度も頭を下げた。




つづく。


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