心の行方 02

(もしかしてアーク様は……)


 エステルはアークレインの横顔に、自分に都合のいい思考を振り払う事ができなかった。

 心臓の音がうるさい。

 緊張と期待と不安が心の中でぐるぐるする。

 打ち消さなければいけないのに――。


 ……どうして?

 エステルは自問自答する。

 どうしてこの疑問を消さなくてはいけないと思うのだろう。


 違っていたら自意識過剰みたいで恥ずかしいから。いや、それだけではない。一番の理由は傷付きたくないからだ。


 エステルはアークレインに惹かれている。

 だからできれば同じ気持ちを、いや、それ以上の想いを彼から返して貰いたい。

 でもそんな自分本位な恋愛感情を表に出すのは嫌だった。鬱陶しいと思われて嫌われたらどうしよう。想像するだけでも胸が張り裂けそうになる。それに、ただでさえ政治的闘争で張り詰めているこの人を煩わせたくもなかった。


 アークレインはエステルをガゼボの中のベンチに座らせると、懐中時計と一体化している通信魔導具を使い、雨がおさまったら戻るのでリネンと入浴の準備をするよう伝えていた。通信相手はたぶん邸で待機する女官か侍従だ。


「寒くない?」


 尋ねられ、エステルは首を横に振った。


「アーク様こそ大丈夫ですか?」


 隣に腰掛けたアークレインは、よく見るとかなり濡れてしまっている。

 エステルはハンドバッグからハンカチを出すとアークレインの髪を拭こうと手を伸ばし――その手をパシンとはたき落とされて息を呑んだ。


「あ……」


 アークレインもまた驚きの表情をしていた。

 エステルを拒んだ自分の手を呆然と見つめている。


「申し訳ありません、断りもなく触れようとして……」

「ごめんエステル、違うんだ」


 慌ててアークレインは弁解を始めた。


「触られるのが嫌とかじゃなくて、これは少し驚いて……」


 アークレインは口元を手で隠すような仕草をした。その頬は微かに紅潮している。

 そんな顔を見せられたら怒るに怒れない。


「いいえ、突然触ろうとしてアーク様をびっくりさせた私がいけなかったんです。どうぞお使いください。こんな小さなハンカチではあまり足しにはならないかもしれませんが」


 エステルはハンカチをアークレインに差し出した。


「……ありがとう」


 アークレインはハンカチを受け取ると、濡れた髪をかきあげて顔の水滴を軽く拭った。


「私、何かしましたか?」

「えっ? いや、何もないけど、どうしてそう思ったの?」


 エステルの質問にアークレインは戸惑った姿を見せた。


「だって最近のアーク様は私を避けていらっしゃるじゃないですか」

「そんな事は……」

「ありますよね?」


 アークレインは一瞬詰まったものの、すぐに気を取り直したのか口元に笑みを浮かべた。


「もしかして、ベッドで何もしない事を気にしてた?」


 髪が濡れているせいか、どこか艶めいた雰囲気をまとわせた表情で尋ねられ、エステルはかあっと頬を紅潮させた。


「嬉しいな。エステルから誘ってくれるなんて」


 アークレインの手がエステルの顎に伸びてきた。かと思うと軽く持ち上げられ、アークレインの顔が至近距離に近付いてくる。

 妖しげな魅力をまとう眼差しから逃れたくてぎゅっと目をつぶったら、こつんと軽く頭突きをされた。


「もしかして何かされると思った?」

「…………」

「今まで何もしなかったのはエステルの体が心配だっただけ。エステルがその気になってくれているのなら今晩にも手を出すよ」


 クスクスと笑われてかっと頭に血が上った。

 またからかわれた。いや、むしろこれは誤魔化された?


 無性に腹が立ってエステルは両手を突っ張りアークレインの体を押して身を離した。


「誘ってなんかいません。体を許したのはアーク様がお求めになったからです」


 求められて嬉しかった。その時の気持ちは心の奥に封じ込め、あくまでも誘われたから応じただけだと俯きながら冷たく告げる。

 すると突っぱねた手の平から、アークレインの体が震えるのが伝わってきた。そしてマナの色合いもすうっと沈む。


「……そうだね。全部私が求めたからだ。王族である私の要望には一介の貴族の娘に過ぎないエステルは逆らえない」


 こっそりとアークレインの様子を窺うと、表情が消えていた。どこか昏い双眸がエステルを射抜く。

 怖い。本能的な恐怖が呼び覚まされ、エステルはその場に縫い止められたかのように硬直した。

 そんなエステルの怯えを読み取ったのか、アークレインの視線がふっと逸れた。そして小さな声で囁く。


「……君に触れたい。でも怖いんだ。下手に触れたら壊してしまいそうで」


 彼の言葉の意図が汲み取れない。エステルは眉をひそめる。


「次に触れたら恐らくもう優しくはできない。そういう感情を私は君に抱いている」

「そういう感情とはどういう感情ですか……?」

「……言えない。あまりにも醜くて汚くて、言えばきっと逃げられてしまう」


 目線が再びこちらに向いた。深い青の瞳は、どこかほの暗い熱をはらんでいる。


「ちゃんと言葉にして頂かなくてはわかりません。私は殿下ほど頭のできが良くないですから」


 尋ねる声は自分でも震えていた。緊張でやけに喉が渇く。

 アークレインの瞳が揺らいだ。そしてその瞳は観念したかのように閉じられた。


「恋愛感情……だと思う。こんな気持ちを他人に対して抱いた事がないから確証は持てない」


 やけに遠回しな表現だ。それでも愛の告白に等しい言葉にエステルは目を見張った。


「この感情を自覚したらエステルに触れるのが怖くなって……それで君には不快な想いをさせてしまった。本当にすまない」


 どこか困ったような、寂しそうな表情が向けられる。

 その瞬間心の中に湧き上がったのは喜びだった。だけど同時に心が警鐘を鳴らす。


 本当に信じていいの?

 恋は熱病のようなものだと言う。エステルが素直に嬉しいと返したら、その熱は冷めてしまわないだろうか。


 否応なしに天秤宮に連れてこられた事、異能を警報装置扱いされた事、色々な事が脳裏をよぎる。


 優れた容姿に、優しさに、彼の境遇の厳しさに、少しずつ気持ちは絆されていったけれど、出会ったばかりの時のアークレインの態度は今思い返すと酷いものだった。


 簡単に許していいのだろうか。エステルは自問自答する。

 アークレインへの恋心は確かに自分の中には存在するけれど、彼に対する憤りもまた心の奥底には燻っている。


 無理矢理に近い形で今の立場に引き込まれた。

 恋人の演技はエステルの淡い恋心を傷付けた。

 まやかしの溺愛にころりと堕ちた自分もいけないのだが、女心を弄ぶような行動や優しさは残酷で――。

 心の中のこの怒りは、そういうものが積み重なったものだ。


「そんな顔をするのは異能のせい?」


 ぽつりと尋ねられ、エステルははっと我に返った。


「私の中にあるエステルへの感情は決して純粋で綺麗なだけのものじゃない。それが視えているから……」

「違います。嬉しいです」


 切なげな表情に胸が締め付けられ、気が付いたらエステルはそう口走っていた。


「アーク様にそう想われていたのが夢のようで……正直まだ信じきれないというか……私もアーク様のことを、その……お慕いしていましたから……」


 告白しながらエステルは恥ずかしさに目を逸らした。

 しかし直後、アークレインのマナが昏く陰り、エステルは弾かれたように視線を戻す。


「っ……! すまない、君の立場が言わせたのかと思って……」


 アークレインはエステルから顔を背けると口元を手で覆った。


「……どういう意味でしょうか?」

「それは……経緯はどうであれエステルは私の婚約者だから、私の不興を買う訳にはいかない立場だ」


 予想の斜め上を行くアークレインの思考に、エステルは呆気に取られた。


(ああ、この方は……)


 人を簡単に信じられないのだ。


 胸がぎゅっと締め付けられて哀しくなった。

 アークレインに対する怒りとか、素直な気持ちを伝える事に対する恐れとか、何もかもがどうでも良くなる。

 この人に対して恋愛上の駆け引きはいらない。根深い人間不信があるから、エステルが想いを告げてもまずは疑ってしまうのだ。


 可哀想な人。

 同情を含むこの気持ちは、純粋な恋愛感情とは違うのかもしれない。だけどこれだけは言える。エステルは目の前の彼の孤独を癒したい。想いが伝わるまで態度で示して、エステルが信頼に足る人間なのだという事をわかってもらいたい。


「最初は確かに仕方なくでした。アーク様に望まれた以上私に拒否権はなくて、実家にもたらされるであろう利益と秤にかけて……得られる物の方が多いという打算もありました。でも今は違うんです。アーク様は優しくしてくださったから、私……」


 アークレインはどこか半信半疑の表情でエステルを見つめている。エステルはアークレインの瞳をじっと見つめ返した。


「この気持ちは本物です。だからどうかアーク様のお心のままになさって下さい。アーク様になら何をされても私は受け入れますから」


 アークレインは息を呑むと、どこかぎこちない手つきでエステルの頬に手を伸ばした。

 まるで壊れ物を扱うように慎重な手つきで触れられて、思わず笑みがこぼれた。


「キス……してもいい?」


 好きにしていいと伝えたのに、律儀に聞いてくる彼が愛おしい。

 小さく頷くと、少しずつアークレインの顔が近付いてきて――。

 重なってきた唇は、柔らかくて甘かった。

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