一夜明けて 01
目覚めると、既にアークレインの姿は寝室になかった。
時計を見ると、既にお昼近くになっていたので、既に公務に向かったのだろう。
ベッドから起き上がろうとしたエステルは、下半身の痛みに頬を紅潮させる。
布団の下は何も着ていないし、明るい日差しの中で体を確認すると、あちこちに口付けの痕がついていた。
そこかしこに残る情事の痕跡に、恥ずかしくて消えてしまいたくなる。
全てをアークレインに暴かれ、また、こちらも彼を知ったのだ。嬉しい一方でどこか満たされない寂しさのようなものが湧き上がって心がざわめいた。
一人の男性の事を想ってこんなに気持ちがぐちゃぐちゃになるのは初めてだ。
これが小説や戯曲に描かれる、身を焦がすような恋というものなんだろう。
アークレインは婚約者という地位をくれた。体も重ねた。大切にしてくれる。でもたった一人の異性に向ける感情はくれない。それが悲しくて切ない。
万人に向けられる穏やかな優しさではなくて、もっと熱く情熱的な、たった一人に向けられる感情が欲しい。
ライルの事は好きだったけど、ここまでの焼き焦がすような感情は抱いた事はなかった。
もしかしたらあれは兄弟愛とか友情の延長線上にあったもので、本当の恋ではなかったのかもしれない。そう思えるくらいに今のエステルの中でアークレインの存在は大きくなっていた。
だけどエステルにも矜恃がある。みっともなく愛を乞うような真似はしたくなかった。
この気持ちは絶対にアークレインには気付かせない。
気付かれたらエステルの価値を下げるだけでなく、この恋愛感情を利用される。そういう事をやりかねない人だ。頭の中をオリヴィア・レインズワースの姿がよぎった。
エステルは大きなため息をつくと、ベッド脇の椅子に無造作に引っ掛けられていたナイトウェアを手に取って簡単に身支度をした。
体を少し動かすだけであちこちに軋むような痛みが走る。
その度に昨夜の事を考えてしまい頭がくらくらした。
起き上がれないことはないが体が重い。
初夜を偽装した日、やけに周りに気遣われた理由を理解する。
お腹が空いた。体もなんだかベタベタして気持ち悪い。
女官を呼ぶためのベルを鳴らそうとして、エステルはベッドサイドのテーブルにメモが置かれているのに気が付いた。
そこには流麗な文字で、『今日のスケジュールは空けてあるのでゆっくりと休んで欲しい』と書かれていた。
アークレインの筆跡だ。エステルは目を伏せると指先で文字をなぞった。
◆ ◆ ◆
エステルの元に訪れたのはリアではなく、事情をよく知るメイだったので少しだけ安心する。
見た目そのままにいつも冷静なメイは、余計な事は言わないからだ。これがリアならきゃあきゃあとはしゃぐに違いない。明るく感情表現が素直なリアに救われている部分もあるが、今は隣で騒がれたくない気分だった。
「お体の具合は大丈夫ですか?」
「まだ足の間に何か挟まってるみたい。変な歩き方になってない?」
「ちゃんと歩けていらっしゃいますよ。おめでとうございます、と申し上げてもよろしいのでしょうか」
「……そうね、お気に召して頂けたとは思うわ」
エステルは曖昧に微笑んだ。
これからは周りの人間にも気持ちを悟らせないようにしなくてはいけない。メイやクラウス、ニールあたりに気付かれたらアークレインに筒抜けになるに決まっている。
メイは察しがいい。エステルの多くを語りたくない今の気持ちを察してか、淡々と求められた仕事をこなすと女官のための控え室へと下がっていった。
軽食でお腹を満たし、昨夜の痕跡を全て洗い流すとようやく人心地つく。
エステルの体を気遣ってか、メイが用意してくれた着替えは、コルセットを必要としないゆったりとしたティーガウンだった。
このティーガウンはアークレインに用意してもらったドレスの一つで、裾に行くほど濃いピンクのグラデーションになっているのがとても可愛らしい。
綺麗な服を着ると気持ちが上がる。エステルはガウンの裾を摘んで笑みを浮かべると、共通の寝室にやりかけの刺繍を取りに行った。
◆ ◆ ◆
遂にマントの刺繍が仕上がった。
メイがエステルの部屋を訪れたのは、完成した刺繍を前に自画自賛していた時だった。
「エステル様、少しよろしいですか?」
「メイ、ちょうど良かった。マントの刺繍が仕上がったの」
エステルはロイヤルブルーの生地を広げ、紋章の刺繍を入れた所をメイに見せた。
「綺麗に仕上がってますね。仕立ての為にお預かりしてもいいですか?」
「もちろん。よろしくね。ところで何か用だった?」
エステルはメイに完成した生地を手渡しながら、ここを訪れた理由について尋ねた。
「応接室まで移動出来そうですか? フローゼス伯爵がお出でになっています」
「お兄様が? 突然どうして?」
「領地に何かあったようで、急遽戻らなくてはいけなくなったとか……」
何があったのだろう。心配だ。
「すぐ行くわ」
エステルは立ち上がると、メイの先導に従って応接室へと向かった。
◆ ◆ ◆
応接室に入ると、アークレインがシリウスの相手をしていた。
「エステル、体の調子は?」
エステルの顔を見るなりアークレインが席を立ち近付いてくる。
「エステル、調子が悪いのか?」
アークレインの態度を見て、シリウスは表情を曇らせた。
「最近凄く寒かったから風邪気味だったの。アーク様が大袈裟なのよ」
本当の事は言えないのでエステルは慌てて適当な理由で誤魔化した。そしてアークレインと共にシリウスの向かい側に座る。
「そんな事よりお兄様、フローゼスで何かあったの? もう領地に帰るって聞いたんだけど……」
例年通りだと北部の竜生息地で飛竜の討伐が始まるのは二月の末あたりからだ。まだ月が変わったばかりなので、領地に戻るには少し早い。
「ああ……今年は雪が少ないせいか、そろそろ竜に目覚めの兆候があるらしいんだ。それで少し竜伐の時期を早めようって話になって……それだけだよ」
「怪我しないでね……」
今年からエステルは手伝えない。と言っても女は竜伐には参加できないので裏方の仕事をするだけなのだが、時には怪我人や遭難者が出る事もある危険な討伐なので心配だ。
「今年は新式の竜伐銃と人員を殿下から支援して頂いたから、去年より楽に狩れるはずだ。だからそんな顔するな」
シリウスは立ち上がると、エステルの頭に手を伸ばし、くしゃくしゃと掻き回した。
「もう! 髪がぐしゃぐしゃになったじゃない」
思わず身を引くと、シリウスは楽しげに目を細めた。
「殿下、妹にも会えましたしそろそろおいとましようとおもいます。色々と足りない事もあるでしょうが、どうかエステルをよろしくお願いします」
シリウスはそう言うと、アークレインに向かって一礼した。
「夏にはまとまった休暇が取れる予定なのでそちらに行かせて頂きたいと思っています。エステルが生まれ育った土地を見たいので」
「是非いらして下さい。お待ちしております」
エステルは思わずアークレインの横顔を見つめた。
夏にはフローゼスに帰れる。
望郷の想いと共に、心に灯った熱がまた温度を上げた。
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