冬の社交 03

 舞踏会の会場である舞踏室ボールルームは、邸の外観に負けず劣らずきらびやかだった。

 さすがは大貴族のお邸である。こじんまりとした一軒家をタウンハウスにしているフローゼス伯爵家とは規模が違う。


 まばゆいシャンデリアにアンティークな調度類。至る所に飾られている薔薇の花は恐らく邸の温室で育てられたものだ。


 ローザリア王国の国名は、古語で『薔薇の花園』を意味する言葉である。王家の紋章は白薔薇が描かれた盾であり、薔薇はローザリアでは国花として定められていた。


 そのためローザリアの国内は至る所に薔薇が植えられている。温室を駆使して薔薇を育て、年中花を絶やさないようにするのは富裕層にとっては一種のステイタスである。


 カーテンやテーブルクロスといったファブリック類も豪奢で、壁には有名な風景画家の絵が飾られていた。


 飾り棚に並べられているのは、遥か東方の大国、ヤン帝国製の陶磁器だ。乳白色のなめらかな質感はこちらでは再現できないため、ヤン製の陶磁器は人気がありとても高価だ。


 エステルは初めて訪れるロージェル侯爵家の様子に気後れするのを感じ、シリウスの腕に添えた手に力を込めた。


 社交界はやっぱり苦手だ。すれ違う紳士も貴婦人も、顔は微笑んでいるのにマナはどんよりと曇っている人が多い。

 ライルを奪っていったディアナ・ポートリエへの怒りはあるが、あまり頑張れないかもしれない。エステルは初っ端から心が萎れそうになった。


 ここは魔窟だ。嘘に虚構、妬み嫉み。誰もが仮面の下に本音を隠している。


 そんな中、背後からやけに明るいマナが近寄ってくるのが感じられた。


「エステル!? エステルじゃない」


 名前を呼ばれて振り返ると、女学校時代仲良くしていたキーラ・ヴェルニーの姿があった。


「キーラ! 久し振りね」

「エステル、こちらのレディは知り合いか?」

「エジュレナ女子学院に通っていた時の同級生なの。キーラ、兄のシリウスよ」


 エステルはシリウスをキーラに紹介した。続いてキーラをシリウスに紹介する。


「お兄様、キーラ・ヴェルニー子爵夫人です」

「そうでしたか、エステルの兄のシリウス・フローゼスです」

「初めまして、フローゼス伯爵」


 キーラはにっこりと微笑むと、シリウスに向かってカーテシーした。


「エステル、婚約の事、噂になってるから聞いたわ。あまり気を落とさないでね」


 キーラは気遣わしげな表情でエステルの手を握った。


「気にしていないと言えば嘘になるけど気落ちはしていないわ。そのおかげでキーラと再会できたんだもの」


 エステルはキーラに微笑み返すと、手を握り返した。


「キーラ、話し中にごめん、ちょっと来てもらってもいいかな?」


 背後から一人の紳士が声をかけてきた。キーラの夫のヴェルニー子爵だ。


「ごめんなさい、戻らなきゃ。エステルを見つけて嬉しくなって放ったらかしにしちゃった。また後でゆっくりお話しましょう」


 そう告げると、声を掛けてきた時と同じく慌ただしくキーラは去って行った。


「初めて会うお前の友達だな」

「彼女卒業後すぐに結婚しちゃって……派閥も違うし手紙だけのやり取りになってたの」


 シリウスの疑問にエステルは肩をすくめながら答えた。

 学生時代の人間関係は卒業後は変わってしまう。

 キーラはエステルにとって、派閥と生活環境が変わったことによって離れ離れになってしまった友人の一人だった。


 だけどこうして第一王子派に加わる事によって彼女との付き合いが再開するとしたら、それは喜ばしいことだ。


 エステルはこちらに手を振ってくるキーラに手を振り返した。その時である。右前方からさざ波のようなざわめきが聞こえてきた。


 ざわめきの中心には、ものすごく目立つ三人組がいる。


「アークレイン殿下だ。やっぱり来られてたんだな」


 シリウスの呟きを聞くまでもなく、エステルは三人組の素性を知っていた。直接言葉を交わしたことはないが、王室主催の催しに参加した時に何度か遠くから見た事がある顔ぶれだったからだ。


 三人組は、舞踏会の主催者であるクラウス・ロージェルにアークレイン王子、そして、最有力の王子妃候補と言われているオリヴィア・レインズワースだ。


 クラウスが氷なら、アークレインは穏やかな春の日差しのような美形である。髪は金髪で、瞳の色は深い青だ。最高級のサファイアのような鮮やかなブルーの瞳は、王族によく現れる色である。王家を象徴するこの色は、ロイヤルブルーと呼ばれ、王族のみが許される禁色となっていた。ロイヤルブルーの衣服も宝石も、このローザリアにおいては王族のみが身に着ける事のできる貴色である。


 オリヴィア・レインズワースはアークレイン王子のパートナーをつとめていた。彼女はアークレインの派閥をロージェル侯爵家と共に支えるレインズワース侯爵家の末娘だ。珊瑚色の髪に青い瞳が儚げな印象の美少女である。


(……オリヴィア嬢の片思いなのかな)


 エステルは二人の表情とマナを見て首を傾げた。

 アークレインは穏やかな微笑みをオリヴィアに向けて談笑しているが、そのマナはどんよりと曇っている。オリヴィアのマナがキラキラと輝いているのとは対照的だ。


 彼らの婚約は秒読みなどと噂されているが、それはアークレインにとっては不本意なものなのかもしれない。

 そんな事を考えながら見つめていると、無表情でアークレイン達の傍に控えていたクラウスと目が合った。


 クラウスはこちらを見ながら何かをアークレインに耳打ちする。そして、オリヴィアと別れ、二人連れ立ってこちらに向かってくる。


 金と銀と、質の違う美形が並んでいる姿は迫力がある。

 お近付きになろうとする招待客を制しかき分けながら、二人は一直線にこちらに近付いてきた。


「フローゼス伯爵、今宵は当家の舞踏会にお越しいただきありがとうございます」


 クラウスは、エステル達の目の前で立ち止まると声をかけてきた。


「こちらこそ、本日はお招き頂いてありがとうございます」


 緊張した表情で答えたシリウスに対して、クラウスは冷たい笑みを向けてきた。


「薔薇が散る前にお越し頂けてよかった」


 『薔薇が散る前に』とは、この国特有の言い回しで、『手遅れになる前に』を意味する言葉である。クラウスの表情にもマナにもこちらに対する棘が見える。


「そのように仰って頂けて嬉しいです。当家が薔薇の栄光の一助になればよろしいのですが」


 シリウスはわずかに目を見開いたものの、すぐに余所行きの笑顔を作って切り返した。ふてぶてしさすら感じる態度に、エステルは無神経でがさつな兄の意外な面を見たような気がした。


 不快に思ったのか、クラウスのマナが陰った。その一方でアークレインのマナは輝きを増す。どうやら王子様の興味を引くことには成功したらしい。


「シリウス殿、こうして言葉を交わすのは随分久し振りですね」

「ローザリアの若き太陽、アークレイン殿下。声をおかけ頂き恐縮です」


 アークレインに声を掛けられ、シリウスは最上礼を執った。それに合わせてエステルもカーテシーする。

 社交界では、上位の者から話しかけられない限りこちらから話しかけてはいけないという暗黙の了解がある。

 アークレインから言葉を掛けられるということは、この場にいる許可を王子自ら認めた事を意味していた。


 こちらに降り注ぐ注目とマナの気配が少しだけ和らぎ、息苦しさが緩和された。


「そちらのご令嬢は妹君ですか?」

「はい。私の妹のエステルと申します」

「ローザリアの若き太陽、アークレイン殿下にご挨拶申し上げます。エステル・フローゼスと申します」


 正式な挨拶と同時に、周囲の何人かのマナが淀むのを肌で感じた。主に若い女性からのものだ。新参者が王子様と言葉を交わしたのが気に食わないのだろう。


「エステル嬢とはデビュタントの時以来かな」


 ある程度以上の家柄の貴族の娘は、成人年齢である十八歳を迎えると、王宮で開催される舞踏会で国王に拝謁し社交界にデビューするから、アークレインの声のかけ方は、あまり記憶に残っていないと宣言されたようなものだった。


「覚えていらっしゃるのですか? 光栄です」


 エステルは笑顔の仮面を被る。当たり障りなくやり過ごすために。


「エステル嬢、生憎ファーストダンスの予定は埋まっているんですが、その次のダンスを踊る栄誉を私に与えて頂けますか?」


(嫌だ)


 反射的に思いはするが、王族の申し込みを断る事はできない。


「お誘いありがとうございます、殿下。ぜひお願い致します」


 エステルは嬉しくて仕方ないという顔を作り、アークレインの申し込みを受けた。




   ◆ ◆ ◆




 ――あら、あの方成金のポートリエ男爵令嬢に婚約者を奪われたって噂の……

 ――あそこの家は日和見されていたのではなかったかしら?

 ――ポートリエは第二王子派ですものね、それでこちらに来られたのでは?

 ――まぁ、お気の毒だけど容姿も資産もあちらの方が……

 ――私はポートリエが婚約者を奪ったのではなくて、元々恋仲だったところにフローゼス伯爵令嬢が割り込んだと聞きましたけど……

 ――そうなの? どちらの噂が正しいのかしら?




 そんなひそひそ声が聞こえてくる。

 社交界での貴婦人は、ギリギリこちらに聞こえるかどうかという声量で陰口をさえずるのがとても上手い。

 下手に指摘をすれば「聞き耳を立てるなんてはしたない」と非難されるのはこちらになるから性質が悪い。

 それにしても、噂には尾ひれ背びれが付くものだとは言うが、こちらが悪者になるような噂まで流れているとは。


「エステルは何も悪くないのに……」

「非があろうがなかろうが、スキャンダルは汚点になるって事ね」


 悔しそうなシリウスにエステルは苦笑いを浮かべた。

 婚約破棄のせいで伯爵令嬢としてのエステルの価値は下がってしまった。なんとなくわかってはいたが、改めて社交界での評価を聞くと腹が立ってくる。


 評判を下げたのは向こうも同じ。しかし受けたダメージはきっとこちらの方が大きい。


「ムカつくなぁ。暴れて舞踏会を台無しにしてやろうか」

「やめてよ。家を潰すつもり?」


 エステルは幸せだ。一緒に共感して怒ってくれる兄がいるのだから。


「お前の嫁ぎ先はお兄様がちゃんと見つけてやるからな」

「期待していますわ、お兄様」

「……いい男がいなければ、ずっとフローゼスにいればいい」

「探す前から諦めるような事言わないでよ」


 むっと唇を尖らせてシリウスを見上げると、楽団が音楽を奏で始めた。舞踏会の始まりを告げる一曲目は最も身分の高い四組で踊られるカドリールだ。


 招待客の中で最も身分の高いアークレインとオリヴィアが舞踏室ボールルームの中心に出てきて踊り始めると、続いてクラウスとその母である前侯爵夫人が、そしてもう二組、第一王子派の重鎮と呼ばれる貴族が進み出て踊り始める。


 これが終わったら次は自分がアークレインと踊るのだ。

 初めて第一王子派の夜会に来たフローゼス伯爵家への気遣いなのかもしれないが、緊張でお腹が痛くなってきた。


「お前、殿下の足、踏まないようにしろよ」

(他人事だと思って)


 エステルはシリウスの顔を睨みつけた。

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