【5/10発売】婚約破棄のその先に~捨てられ令嬢、王子様に溺愛(演技)される~

森川茉里

プロローグ 婚約破棄は突然に

 この国、ローザリア王国は、大ローザリア島に建国された島国である。

 大ローザリア島は縦に長い島だ。その為、島の北と南では、別の国のように気候が変わる。


 エステルの住むフローゼス伯爵領は、大ローザリア島の北西部の山間地域にあたるため、この国有数の豪雪地帯として知られていた。


 七月は一年で一番緑が鮮やかになる季節だ。山々は緑の絨毯に覆われ、放牧された豚や羊が牧草をむのどかな田園風景がそこかしこに見られる。


 飛竜の生息地が近く、時折農作物や家畜に大きな被害をもたらす事があるものの、フローゼス領の夏は涼しく乾燥していて過ごしやすい。

 自然の風景を切り取るように作られた邸の庭には、薔薇やラベンダーといった夏を彩る花が色鮮やかに咲いていた。


 邸の玄関に横付けされた馬車から客人が降り立った。

 今日邸にやって来た客は、エステルの婚約者のライルとその父親であるウィンティア伯爵だ。

 馬車から降りてくる見慣れた二人の姿に、エステルは一瞬喜びの表情を浮かべた直後眉をひそめた。


 エステルの赤紫の瞳には特別な力がある。生き物の持つマナを視覚的に捉えることができるのだ。

 マナとは生きとし生けるもの誰もが持つ生体エネルギーの事である。

 高いマナを持って生まれてくる人間の中には、マナを源とした様々な異能に目覚める者がいて、《覚醒者》と呼ばれている。


 普通は見えないはずのマナを、光として『視る』エステルも、一種の《覚醒者》だ。エステルの目にはマナは心臓を中心にぐるぐると渦巻く銀色の光に視える。


 異能が目覚める条件は様々だ。鍛錬を行う事で異能が目覚める事もあれば、生死の境をさまようことで目覚める事もある。

 エステルの場合は後者で、六年前、この地方で猛威を振るった猩紅しょうこう熱という流行病にかかり、生死の境をさまよった事が覚醒のきっかけだった。


 ちなみに、《覚醒者》は生まれつき高いマナを持つ王族に多い。これは、異能を遺伝させる為の婚姻を繰り返してきた結果と言われている。


 猩紅熱から回復した後、エステルが自分の能力に気付いたきっかけは、魔導石に触れた事だった。


 魔導石はマナを吸収してエネルギーに変換する石で、魔導水道や魔導炉など、生活を豊かにする様々な魔導具の動力源になっている特殊な鉱石だ。


 エステルの瞳の異能は、本来専用の魔導具を使わなければ計測できないマナを視覚的に捉えるだけでなく、その人が抱く大まかな感情を見抜いてしまう。喜びや幸せを感じていればマナは明るさを増して輝き、悲しみや怒り、憎しみといった負の感情を抱いていれば陰る。


 正確にはこの異能は、目に備わった能力では無いのかもしれない。目を閉じていても自分の近くにいる生き物の気配は光として感じられるからだ。ただしその場合、感知できる範囲は目で見るより狭くなる。自分を中心として、半径五メートルくらいの範囲だ。この範囲内なら、エステルは目を瞑っていても、自分の周囲にいる人の数を正確に言い当てる事ができた。


 この異能の厄介なところは、常に発動し、自分の意思で使う使わないの切り替えができない事だ。だから視たくないものも視えてしまう。


 エステルが馬車から降りてきた客人を見て眉をひそめたのは、ウィンティア伯爵もライルも揃ってマナが陰っていたためだった。


(何か悪い事でもあったのかしら……)


 酷く嫌な予感がした。




   ◆ ◆ ◆




「お待ちしておりました。セドリック様、ライル」

「お久しぶりです、ライル」


 フローゼス伯爵家の当主である兄のシリウスと共に、エステルは婚約者とその両親を玄関口で出迎える。


「そうだね、久し振り、エステル」


 久し振りに会えたというのにライルの表情は硬い。そして体内のマナはやはりどんよりと陰っている。

 エステルは嫌な予感を感じてじっとライルの顔を見つめた。


 その予感が当たっている事はすぐにわかった。応接室に案内して、席に落ち着くなりウィンティア伯爵が今回の訪問の目的を切り出してきたからだ。


「シリウス君。大変申し訳ないのだが、ライルとエステル嬢の婚約を無かったことにしてもらいたい」


 目の前が真っ暗になった。周囲の音が急速に遠のいていく。


「どうして突然そのような事を仰るのでしょうか」


 シリウスの質問に、ウィンティア伯爵はため息をつきながらぽつりぽつりと事情を話し始めた。


「去年の長雨の被害が予想より大きくてね……うちの恥を晒すようで本当に恥ずかしいんだが、一昨年織物工場の設備投資を行った事もあって、財政がかなり厳しいんだ……」


 フローゼス伯爵領とウィンティア伯爵領は隣接しており気候も産業も共通点が多い。大ローザリア島の北に位置するこの辺りは、土地が痩せていて夏でも夜間は冷え込むので小麦の栽培には適さない。

 家畜の放牧とじゃがいも、そして大麦やライ麦といった寒冷地でも育つ穀物の収穫がこの地の領民の生活を支えていた。


 去年の長雨の被害はフローゼス伯爵領でも他人事ではなかった。春から初夏にかけて降り続けた雨は、冷害をもたらしただけでなく、洪水を引き起こし、北部地域が受けた被害は甚大だった。


 ただでさえこの辺りは飛竜の生息地が近く、人里に降りてくる竜による家畜や農作物の食害も受ける厳しい土地である。


 フローゼス伯爵領がなんとか持ち堪えられたのは、領内に抱える魔導石の鉱脈の恩恵が大きい。


「赤字の補填の為にポートリエ商会からかなりの融資をして貰ったんだ。返済計画もしっかりと立てて、無理のないように返していく予定だったんだが……」


 ポートリエ商会と言えば、ヤン帝国やガンディアといった東方との貿易で莫大な財を成し、男爵位を手に入れた大商会である。


「ポートリエ商会のご令嬢がライルに一目惚れしたらしくて……債権を盾にライルと結婚させて欲しいと……」


 エステルの前に座ったライルから、ギリ、と歯を食いしばる音が聞こえてきた。

 ライルは漆黒の髪に神秘的な紫の瞳を持つ、禁欲的で精悍な印象の美形だ。ポートリエ商会のお嬢様が一目惚れするのもわかる。


「何故そこまで追い詰められるまで我々にご相談頂けなかったんですか」


 シリウスは険しい表情でウィンティア伯爵家の二人に問いかけた。


「大変だったのは君のところも一緒だろう? 加えて君は若くして爵位を継いで天災の対応に当たるのも初めてだっただろうし……すまない。負担をかけたくなかったんだ」


 ウィンティア伯爵の返答に、シリウスはぐっと詰まった。若輩者という伯爵の指摘は事実だったからだ。


「すまないエステル。こんな形で婚約破棄をお願いするなんて、君には本当に申し訳ない……」


 ウィンティア伯爵家の二人の沈痛な表情にエステルは悟った。エステルの意見は関係なく、これはウィンティア伯爵家にとってはもう決定事項なのだ。




 ウィンティア伯爵家とポートリエ男爵家から支払われた多額の慰謝料と引き換えに、エステルは婚約者を失った。

 三歳年上のライルは、五歳上の兄のシリウスと一緒に、何度も互いの領地を行き来して遊んだ幼なじみと言える間柄だった。


 実の兄以上に可愛がってくれたライルのことがエステルは大好きだった。


(ライルとの結婚式をずっと夢見ていたのに)


 堪えていた涙が決壊したのは、ウィンティア伯爵家の親子を見送ってからだった。


「エステル……」

「お兄様、私はお金に負けたのね」


 長雨の被害は大きかったので、フローゼス伯爵家にもウィンティア伯爵家を支援するほどの余裕はない。

 女としてポートリエ男爵令嬢に負けたのではない。お金に負けたのだ。

 シリウスは痛ましいものを見る目でじっとエステルを見つめた。

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