第147話 彼女の居場所と存在価値

鳴り続ける携帯を見つめて、桜はそれを握ろうと伸ばした手を一瞬迷わせた。


通話ボタンを押せば聞こえてくる声は分り切っていて、優しすぎるその声を聴いて、冷静でいられない数瞬後の自分を容易に想像できる。


でも、出ないわけにはいかない。


さらに心配を増長させる事は目に見えている。


溜息を飲み込んで、意を決して通話ボタンを押す。


「はい、もしもーし?みゆ姉?」


極力いつも通りの口調で話しかける。


と、案の定急き立てるような声が聞こえてきた。


「もしもし、さぁちゃん!郵便ポスト、見た?もし、見てないなら、そのままにしておいて!昴君が帰ってくるまでほったらかして・・・」


「みゆ姉、封筒開けちゃったよ」


静かに告げると、携帯越しに幸が小さく息を呑んだ。


それから、自分を落ち着かせるように数瞬黙る。


「・・・そう・・・ごめんなさい」


「え、ちょっと待って、何でみゆ姉が謝るの?別に悪くないでしょ。だって、あたし宛に来た郵便だったし、こういうのが届くことも予想してたから・・・」


「京極の家に関するものは、全部こっちに届く様にお願いしてたんだけど・・・」


申し訳なさそうな幸の声。


桜はテーブルの上に乗せたままの法事の案内に視線を戻した。


「って事は、みゆ姉のところにもこの不愉快な手紙が届いたんだ?」


「ええ。即刻破り捨てようかと思ったけど、思いとどまったわ。相応の返礼をしなきゃだし。こうなったらイチ君にお願いして、志堂の名前でお返事出して貰うわ。未だにあなたを志堂の駒として扱おうとする馬鹿な人たちには、きっちり自分たちの立場を理解して貰わなきゃね」


「ありがとう、あたしは大丈夫。昔から、京極とは折り合い悪かったし」


「そこは怒っていいところよ、さぁちゃん。おじさん達が本当に大事な家族として扱ったのは、あなただけ。回りの声は無視していいの。あたしの家族だって、怒っていいのよ」


「うん・・・」


「その手紙、昴君に渡してくれる?彼に先に連絡したから」


ひとりで塞ぎこんでいるであろう桜をフォローする為の万全の対策をしてくれた幸。


きっと昴は今頃帰路を急いでいるに違いない。


「お家の事やあっくんのもあるのに、色々心配かけてごめんね、みゆ姉」


「聞き分け良い子にならないの。昴君にちゃんと甘えてね」



★★★★★★★★★★★



交通事故の後、唯一生き残った桜の後見を巡って、京極の家で諍いが起こった。


引き取っても一銭の徳にもならない女子高生の身の振り方と、邪魔でしかない京極の家の処分方法について、通夜の席にも関わらず延々と話し合いは続いた。


結婚当初から京極の家と距離を置いていた為、葬儀などは全て、幸の父親の名代として幸が取り仕切る事になった。


と言っても、それは名ばかりで、そのほとんどを一鷹が対応した。


父親が日本に戻るための飛行機の手配に追われる最中、幸に何度か連絡をしてきた。


そのたび言われた事は、京極の諍いに口を挟まない事。


幸が怒れば怒るだけ、桜の立場は危うくなると、口を酸っぱくして言われた。


自分が帰国次第、桜の後見に付くから安心するようにと言われたが、どうしても待てなかった。


通夜の席で、一番に京極の家の売却が決定してしまったからだ。


どうしても、あの家だけは手放したくなかった。


桜と両親を繋ぐ唯一の記憶のかけら。


あの家がなくなれば、桜が帰る場所が本当になくなってしまう。


「あたしが引き取ります!京極の家も、桜も」


幸の決死の覚悟にも、親戚連中は白い目を向けるだけだった。


家の維持費と、桜の学費、生活費。


それらすべてを、一介のOLが払って行けるわけがないと、そう顔に書いてある。


「あんた、現実を分かって言ってるのか?」


「あの家の価値なんて、殆ど無いのよ?」


「意地だけで身勝手な事言うのは止めて貰おうか。こっちは自分たちの生活もあるんだ」


「そうよ、軽はずみな事言わないでちょうだい。何も出来ないくせに」


突き刺さる様な視線と憎悪にも似た悪意。


その場に立っているのもやっとの重圧感。


「あたしだけじゃありません。父が桜を引き取る用意もあります」


「年中海外にいるような人が、どうやって家と子供を管理するの?」


「その為にあたしが・・・」


次々と向けられる敵意交じりの矢継ぎ早な質問。


幸が言葉に詰まった瞬間、震えるその手を握った優しい手があった。


「彼女だけじゃありませんよ」


右隣から聞こえてきた声に、幸は涙腺が緩みそうになる。


こんなに一鷹の声を聴いてホッとした事なんてない。


「ご存知の通り、安曇先生はご多忙な方ですから、僕個人でも、志堂としても、助力していくつもりです」


一鷹の一言で、桜の家と桜の所在は決まった。


葬儀の後の埋葬先の決定や、今後の法要についても、一切を安曇と志堂が仕切ることとなった。


今後、京極の家と桜は関わりを持たない事を約束したのに、今回届いた案内は、京極の祖父の法要の案内だった。


わざわざ桜と幸に向けてそれぞれ別の案内を送った事からして、意図は簡単に読める。


桜の後見である志堂と浅海両家との繋がりが欲しいのだ。


まさかこういう形で案内が届くと思わなかったので、幸のフォローが一歩遅れた。


もし、桜が自宅に戻っていないなら、先回りして回収してしまう予定だったのだ。


こういう形で京極の姿勢が露見する事を幸は望んでいない。


どんな人達であっても、桜にとっては親族なのだ。


穏便に済ませたいとは思うが、本音を言えば今すぐこの手紙を叩き返しに行きたい。


「あたしがイライラしたら、あっくんに電線しちゃうものねー」


気持ちを切り替える様に深呼吸を一つ。


携帯をテーブルに戻して、幸はベビーベッドで眠る我が子の様子を見に行くことにした。


後は、昴が上手くフォローしてくれることを祈るしかない。



★★★


「桜!」


ただいまも言わずにリビングに駆け込んできた昴が、テーブルに置かれた手紙を見て顔を顰める。


ソファで膝を抱える桜の隣に滑り込むとすぐさま肩を抱き寄せた。


「もっと早く帰ったらよかったな。大丈夫か?」


耳元で聞こえてきた優しい声音に桜が微笑む。


「うん、みゆ姉も心配コールくれた」


「そっか・・・俺と一鷹の連名で返事しとく」


「あたし一人に価値は無くても、あたしの今いる場所は物凄く価値あるんだね。あれほどいらないって押し付け合いしてたのに」


小さく拗ねる様に呟いた桜の髪を撫でて昴が小さく息を吐いた。


「俺以外の人間が口にした評価なんて気にするな」


あやす様に抱き寄せられた胸に、桜が大人しく頬を預ける。


「何があっても俺がいるだろ」


頬に唇を寄せてこめかみにもキスを落とす。


昴の指が桜の産毛を撫でて項を辿る。


首筋を甘噛みされて、桜が小さく身じろぎした。


昴の手を押さえるに伸びてきた桜の指を捕まえて手の甲にキスを落とす。


昴が唇を手首に滑らせると桜がぎゅっと目を閉じた。


「怒る元気があって安心した」


上着も脱がずに桜を腕に収めたままで、昴は唇を滑らせる。


触れた所から愛情が伝わって、桜の心を熱くする。


肩に項に降り注ぐ唇の感触。


チュッチュッと啄む様な優しいキスは桜を慰めるようでもあった。


耳元をくすぐるリップ音に、桜が我慢しきれずに身を捩る。


「ちょ、ちょっと待って!!もっもう大丈夫だから!」


肩を押さえ込んで、昴が身を乗り出してくる。


「なんで、こら、逃げんな」


暴れる桜の腕を絡め取ってソファに押し込めると、昴が尚も唇を寄せる。


耳たぶをペロリと舐めて昴の指が桜の頬にかかった髪をそっと払う。


目を閉じて背中を這い上がってくる感覚から逃れようとする桜。


その表情を愉しむ様に昴が笑みを浮かべる。


「教えてやるよ。不安なら・・・いっくらでも・・・こうやって」


額にかかる前髪をかき上げて、昴が唇を押し当てた。


背中を撫でる掌が桜をきつく抱きしめる。


鎖骨を唇で辿る昴の髪が項と肩口を擽って桜が小さく声を上げた。


「く・・・くすぐったい・・・よ・・・っん」


唇を塞ぐように、昴が強引に舌を捻じ込む。


息つく間もないキスは、桜の体温と心拍数を急激に押し上げる。


全部昴の思惑通りだ。


余計な考えは追い出して、昴の指先と唇に翻弄されてしまえばいい。


「桜・・・」


この上なく優しい声で名前を呼ばれて、桜が恐る恐る目を開ける。


「不安がるな。俺がめいっぱい愛してやるよ。お前がほかの誰の事も思い浮かばなくなる位」


「も、もともと思ってなんかないよ」


慌てたように桜が首を振った。


昴が安心させるように微笑む。


目尻に滲んだ涙を親指で拭ってから、昴が口づけた。


「外野は放っとけ。朝も夜も俺の事だけ考えとけよ。俺以外の事で、お前が傷つく必要なんてない」


「ん・・・ありがと・・・」


視線を合わせるように覗き込んできた昴の甘やかな眼差し。


桜が頬を染めたままで小さく頷く。


その答えに満足した様に昴が更に桜を抱きしめる腕を強くした。


執拗な程繰り返されるキスに桜は必死に応えた。


桜の吐息を掬う様に昴がさらにキスを深くする。


「桜は俺の全部だよ。俺が持ってるもんみんなお前にやってるだろ?」


「ん・・・分かってる・・・わ、かったから・・・お願い・・・」


「うん?」


「待って・・・頭回んない」


「ばーか。それ狙ってんだよ・・・俺の事だけ考えとけ」

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