新事実(1)


 松音と、お互いを確かめ合った、次の日の朝。

 目覚めると、部屋の中にもう、松音の姿はなかった。



『これからのこと、妹たちと相談してきます。昨夜は、ありがとうございました。 松音』


 テーブルの上に、そう書かれたメモが残っていた。俺は1人きりのベッドで、煙草に火を点け、「ふう……」と煙を吐き出しながら。その簡素な文章を、何度も何度も繰り返し、読み返していた。



 松音にとって「昨夜のこと」は、「一夜の過ち」だったのか。それとも、今は他にやるべきことがあるということか。俺を起こさぬまま、黙って部屋を出て行った松音の心中を、俺は読み切れずにいた。しかし、読み切れずにいるからこそ、「また会える」というかすかな望みが、俺の中に残っていたことも確かだった。



 しかし、「松音とのこと」は別として。複雑に絡み合ったこの「案件」は、ほぼ「決着を見た」と言っていいのではないかと、俺は考えていた。野見山家の跡継ぎ問題に関しては、「最有力」だった一清が候補から消えたことで、振り出しに戻ったも同然だが。俺はそこで、松音が言っていたことを思い出していた。


『私ほんとに、田舎から出て来た、世間知らずのお嬢様なんです』


 もしかしたらそれは、都会に憧れて出て来て、田舎の名家という束縛から解き放たれ、その自由さを満喫していたものの。初めてその「怖さ」を知り、田舎に戻る決心がついた、ということなのかもしれない。


 もちろん、当家の提示した跡継ぎ条件である、「配偶者」はいないままだが。それは、これも松音が言っていた、当家が見つけて来た「由緒正しき跡継ぎ候補」と所帯を持つことも、覚悟の上のことなのかも……。



 俺と松音は昨夜、間違いなく、お互いの想いを確かめ合った。それは、揺らぐことのない事実だ。だが、どう考えても俺は、跡継ぎには相応しくない。そのことは、俺も松音も、よくわかっている。俺の居場所は「ここ」にしかない。俺はこのやさぐれた都会で、やさぐれた案件をこなしながら生きていく。そういう人間なんだと……。


 俺を起こさずに部屋を出て、残していったこのメモには。「そういう意味」が込められてるのかもしれない。だとしたら、それはそれで仕方ない。……いや。本当に、「仕方ない」のか? 何か道が残されているんじゃないか。俺にはまだ、「出来ること」があるんじゃないか……? 俺は、そんなかすかな希望を胸に、松音のメモをいつまでも、名残惜しそうに見つめていた。



 今日の所は、特に「急ぎ」の案件はない。返答を延ばしてもらっている素行調査の件に、返事をするかしないかくらいだ。そうとなれば、急ぐ必要もないか……。俺は、昨夜確かに松音が「この部屋にいた」ことを、出来るだけ長く実感していたかったのか。事務所に出かけようとせず、昼前までずっと、アパートの部屋に籠っていた。


 それでも時刻が、12時近くになり。いくらなんでも、そろそろ出かけるか。実家を出て初めて一人暮らしを始めた、大学生じゃないんだからな……。そう思って、出かける仕度をしようかと思っていると。部屋のドアを、「こんこん」と軽やかに叩く音がした。もしや、松音が……? と、一瞬期待に胸を膨らませたが、そのノックの音の「元気の良さ」に、俺はまた「違う可能性」を思い浮かべていた。



「どうも、桐原さん。事務所に行ったら、誰もいなかったからさ。松ねえに場所聞いて、アパートまで来ちゃった。これから、出かけるとこ? 少し、お邪魔してもいい?」


 元気のいいノックであれば、それは竹乃であるはずはない。ならば……と俺が予想していた通り、ドアを開けたすぐ前に立っていたのは、梅香だった。



「どうぞ、独身男のやもめ暮らしで、気の利いたものは出せないけど、それでよければ……」


「またもう桐原さん、『やもめ』とか言って、昭和っぽいなあ全く」


 ……またぞろ梅香に、年寄り扱いされてしまったが。そう言われても、この1人暮らしを表現するのに、「やもめ暮らし」以外の言葉は、俺には思いつかなかった。若い子だと、言葉を聞いてイメージするものが、また違ったりするのかもな。そもそもやもめの意味自体を知らないかもな……。俺はそんなことを考えながら、「コーヒーで良ければ、飲みますか? ブラックしかないですけど」と、部屋に上がった梅香に聞いてみた。


「ブラックか~、砂糖とかないの? ないんだ。徹底してるなあ。じゃあそれでいいよ、あたしもブラック初体験してみるよ。大人の味って感じなの? やっぱり」


 なんだかんだと言いながら、テーブルを挟んで梅香と座り、俺が何気に煙草を吸おうとすると。梅香は少し戸惑いつつも、「あ、そっか、タバコ吸うんだよねえ。正直あたしは苦手なんだけど、桐原さんの家だから、好きにする権利はあるもんね。でもそういうところが、松ねえと気が合うとこなのかなあ……」と、一応ここで煙草を吸うことは、許可してもらえたようだった。



「わーーー、にっっっが! 美味しいとか不味いとかじゃなく、普通に苦いだけじゃんこれ。でも、ビールも最初は苦いだけとか思ったりもするし、これも『美味しい』って思えるようになるのかな。もう少し、年輪ってやつを重ねないと難しいのかな?」


 と、これまたなんだかんだと文句を言いつつも、ちびりちびりとコーヒーを飲む梅香に。俺は「それでは、そろそろ……」と、「ここに来た要件」を話してもらうことにした。



「あーー、特に『これ』っていう要件があるわけじゃないんだけどね。いま松ねえは、竹ねえを必死に慰めてるとこなんだ。松ねえから昨日のこと聞いてさ、あたしもビックリしたけど、竹ねえはもう泣き出しちゃって。ごめんなさいごめんなさいって泣きながら謝るばかりだから、どうしようかって思っちゃって。松ねえが慌てて、竹乃は悪くないのよって慰めたんだけどさあ」


 ……竹乃が昨日気にしていた、一清の「裏の販売網」の口座を使う計画が、自分の発言がきっかけだったこと。それが元で、松音が「怖い思い」をしたのだと、責任を感じてるんだろうな。それはやはり、松音自身が慰めてあげないと難しいだろうな……。


「とはいえ、竹ねえがそういうキャラだってことは、あたしも松ねえも十分承知してるしね。一度思い込んだら一直線だから、竹ねえは。でもあたしだと、いつまでも泣いてないで! って説教始めちゃうかもしれないからさ、それだと逆効果かもだし。だから慰め役は年長者の松ねえにお任せして、あたしは桐原さんに会いに来たってわけ」


 とはいえ、「特に要件もなく」、事務所で不在を確認した後に、わざわざアパートまでは来ないだろうと思い。そこで、「何かお話したいことがあれば、お伺いしますよ」と、ここは梅香の「聞き役」になることにした。



「あーー、うん。じゃあ、ちょっと聞いてもらってもいい?」

 梅香は竹乃の妹らしく、少しもじもじとしながら、自分の思いを語り始めた。


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