ダメになってしまったみたいだ。

海原シヅ子

ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ

朝。けたたましい音で叫ぶ目覚ましを止めて、眼鏡をかけ、ベッドから起きあがろうとした。

何かおかしい。

身体に鉛でも入っているのかと言うほどにずっしりとだるい。起き上がれない。

現在時刻は6時半。家から出る時間まであと30分。

間に合うか、間に合うだろう。

転がるようにしてベッドから落ちる。肩を地面にぶつけた。痛い。

なんとかベッドからは出られた。支度をしよう。

…と思ったが、腹は空いていないし、水すら飲みたくない。

なんだこれは。あまりにもおかしい。

でも、学校に行かなくちゃ。そう思った瞬間、下腹部に鈍痛が走った。

腹に何かいる。どくどくと脈を打つ、何か重たい感情がある。

腹痛に合わせて段々と吐き気がしてきて、立っていられなくなり、しゃがみ込む。

あと18分。着替えなきゃ。

這いずるようにクローゼットの前に移動し、寝巻きを脱ぐ。

身体は芯から冷えていて、眩暈がする。

5月下旬のはずなのに、我慢できないほどの寒気が身体を包み込む。

ワイシャツで身を隠し、震える手でネクタイを結ぶ。ベストを着込んで、ジャケットを羽織る。

長めの靴下と分厚めのスラックスを履いたものの、まだどこか寒くて、腕をさする。

こうしている間にも腹痛と吐き気は止まることを知らず、段々と思考まで蝕んでいく。

休んでしまいたい。もう学校に行きたくない。行かなくても自分の代わりになる人はいくらでもいるだろう。休みたい。

かすみ始めた視界に時計の針が入る。6時58分。もう出なくちゃ。

吐き気を堪えながらドアを開けた。


下校のチャイムが鳴る。きゃっきゃとはしゃぐ生徒たちの声が遠ざかっていく。

帰宅の準備さえ済ましてしまえばもう家に帰れる。

筆記用具やファイルを鞄に詰め込んだその時、誰かに肩を叩かれた。

息が止まる。誰だ。脈拍が駆け足になる。

怒られるのだろうか。何かミスでもしでかしたか。

「吾潟先生。」

若い女性の声だ。少し低くて、落ち着くこの声は、

「…あぁ、美郷先生。」

養護教諭の美郷若菜先生。うちのクラスの男子たちがいつも、みさとちゃんだとか、わかなちゃんだとか、好き勝手呼んでいるが、美郷先生本人公認らしい。

「大丈夫ですか?今日は朝から調子悪そうでしたけど。」

バレていたとは、さすが養護教諭。

「ええ、少し身体がだるくて。歳ですかね。はは」

出せる限りの友好的な声でそう応えながら、表情筋をなるべく自然に動かし苦笑を作る。

「…ならいいんですけど…。何事も、素人判断せずに早めに専門家…病院とか。行く方がいいですからね、吾潟先生、健康診断も出ないんだから。」

「…すみません。」

気をつけてくださいね、と言い残して、美郷先生は行ってしまった。

…帰ろう。

忘れ物がないか最終確認をして、お疲れ様でしたと声をかけながら職員室を出る。

外はまだ少し明るい。夏に近づいてきているんだな、つい最近教え子たちが卒業したばっかりなのに。

スラックスのポケットから車の鍵を取り出す。

かれこれ4年ほど乗り続けている愛車…とは言ってもただの軽自動車だが…に乗り込んで、エンジンをかける。

そういえば、今日は比嘉くんが家に来るって言ってはず。

朝の洗濯物をそのまま放置していたことに気がついて、つい眉間に皺が入る。

最寄りのスーパーに寄って、六本入りの缶ビールと惣菜を買い、また車を走らせる。

帰ってきた時には、もう比嘉くんが家の前で待っていた。

「おかえり。合鍵を忘れてきてしまってな…自分としたことが。」

「ただいま。そうだったの。今開けるからね。」

居間に向かう比嘉くんにバレないように、洗濯物を全て洗濯機に入れてから台所へ向かう。

「今日お酒飲む?泊まってく?」

「いや。明日は私の大嫌いなお偉方と話があるんだ、それも午前から。今日は早めに帰る。

「…そっか。」

「露骨に悲しそうにするのはやめてくれ…」

買ってきたビールを仕舞って、昨日から冷やしておいたチューハイを二本取り出す。どちらも自分の分だ。比嘉くんもそれがわかっているので、今日は二本だけにしておけよ、と念を押される。

はいはい、と聞き流して、買ってきた惣菜をテーブルに置く。

「吾潟…貴様、唐揚げ、コロッケ、イカリング、フライドポテト…って…もう私たちも若くないんだぞ、わかっているのか。」

苦虫を噛み潰したような顔の比嘉くんに引かれてしまったが、僕は胃が持たれるほどの揚げ物をよく冷えたお酒で流し込むのが1日の唯一の楽しみなんだ。前に自分で測った腹囲の数値がそれを示している。

「いいんだよ、放っておいて。」

カシュ、と爽快な音を立てて缶が開く。

まずは一口、…やはりうまい。この瞬間が一日中続けばいいのに。

「吾潟は本当に楽しそうに呑むな…羨ましくはないが。」

苦笑しているのか微笑んでいるのかわからない顔の比嘉くんがじっと僕を見つめる。恥ずかしいからやめてほしい。

「比嘉くんはお酒弱いからねぇ。天才なのに」

「関係ないだろう酒の強さは…。」

少しずつふわふわとした高揚感が現れる。身体がぽかぽかして心地よい。

「吾潟、そろそろ寝ろ。貴様もう目が開いてない…うわ、抱きつくな暑苦しい」

「まだ呑むもん…」

「26歳の男が語尾に「もん」を付けるな。ほら、来い。」

比嘉くんに手を引かれる。なんだかそれが嬉しくて、その手に頬擦りをすると、抱けない時に煽るな、と怒られた。

「着いたぞ、吾潟。ゆっくり寝ろ。いい夢見ろ。」

半ば押し倒されるように比嘉くんに寝かされる。

横になった瞬間、目蓋が重くなり、意識が遠のいた。


頭がガンガンと痛む土曜の朝。時刻は9時。

いつもなら5缶呑んでやっとくる二日酔いが、なぜか1缶弱で来た。

やはり疲れているのだろうか、寝ても疲れが取れた感じがしない。

美郷先生の言う通り、病院に行くべきかと思いネットで調べると、心療内科は予約してから受診まで1ヶ月以上かかることもあるらしい。面倒なのでやめた。

スマホを枕元に置いて、ベッドに身を投げ出しぼうっと天井を眺める。

何の面白みもない真っ白な天井をただ無心で眺めた。

そろそろ朝ごはんを食べなくては、と身体を起こして時計を見やると、デジタル時計の画面には、PM3:12と表示されていた。

僕はそれを理解するのにかなりの時間を要した。

朝起きてから今まで、6時間も呆けていたのか。それは人としてどうなんだ。

自分の感覚では寝ていた感じもしない。起きている状態のまま6時間も同じ姿勢で、無心で…。

自分が嫌になってきた。凝り固まった身体を無理やり起こす。

食事を、と思っても食欲もないし、目も冴えていて睡眠欲もない。もう一つの欲望は嘘偽りなしに、全くない。

自分一人じゃ何もできなくなりそうで、怖くなって比嘉くんに連絡しようとスマホを手に取り起動させると、学年主任の先生からの連絡の通知が124件溜まっていた。

その内容は、なぜ今日学校に来なかったのか、会議だったのに、何をしていたのか、生きているか…など。

内蔵が冷える感覚がした。嗚咽が止まらない。どうしよう。大変なことをしてしまった。

謝らなきゃ。なんて謝ったらいいんだろう。謝って許してもらえるだろうか。

胃液が迫り上がってくる。

「う゛、ぇ゛…ッ、げほ、お゛、ぐ…っ、」

びちゃびちゃと汚い音を立てて胃液を地面に撒き散らす。

謝罪しなくては。

ふと、声がした。

「本当に役に立たないんですね、吾潟先生。」

年配の女性の声。学年主任の野中先生の声。

「もういいです。吾潟先生には期待していません。」

野太い男性の声。これはきっと体育担当の近藤先生の声。

周りを見渡しても誰もいない。通話を繋げているわけでもない。

けど、声が聞こえる。確実に聞こえている。

先生方の声に混じって、これまで担任してきた生徒たちの声も聞こえる。

「あ、あぁ、、、う、うわああぁぁあああああッ!!!!!」

半狂乱になりながら叫ぶ。耳を塞いでも声がする。段々と声が近づいてくる。

居ても立っても居られなくなり、手足を振り回す。近くにあったティッシュ箱を声のする方に投げる。飛んだティッシュが部屋の中で散乱する。

「ごめんなさ、ごめんなさい、ごめんなさい…ッ!!」

上手く息が吸えない。頭がくらくらして、視界が霞んでくる。

誰かに体を抑え付けられた。誰なのか見えないからわからない。

「ごめ、んなさい、ごめんなさい、ッ、何、も、できなくて゛、ッ、ごめんなさ、生き、てて、ごめ、なさ、ッ」

背中をさすられる。

わからない。わからない。怖い。

段々と気が遠くなってくる。それに伴って、聞こえていた罵詈雑言も小さくなっていく。

楽になれる。

そのまま、気絶に身体を委ねた。


目が覚めると、比嘉くんがいた。正確には、比嘉くんの後ろ姿が見えた。

ベッドの横のローテーブルにノートパソコンをおいて何やら作業をしていた。

「おはよう…?」

声をかけると比嘉くんは、首がちぎれるのではないかという速度でこちらに振り向いた。

「吾潟…!!…おはよう、気分はどうだ?」

僕は一瞬、比嘉くんの表情がぱっ、と晴れたのを見逃さなかった。滅多にしない表情だ。

「ちょっと頭が痛いだけ。」

ゆっくり体を起こそうとすると、そのままでいい。と、止められてしまったので、素直に横になる。

「吾潟のことが気になって…いや、二日酔いを誤魔化すために貴様がまた迎え酒でもしていたらと思ってな…来たんだが、入ったら、暴れてるわ過呼吸起こすわ私の手を振り払って叫ぶわ…かなり驚いたぞ。どうしたんだ、何があった。話してみろ。」

やれやれと言うようにため息をつきながらも優しい声で話しかけてくれる比嘉くんに涙が出そうになる。

「…わからない。仕事先から連絡が来たの見たらこうで…、あ、そうだ、メールッ!」

「あぁ、その心配はない。勝手に貴様の勤務先に有休消化の連絡を入れておいた。適当に仮病を使っておいたぞ、半世紀に一回の大腹痛と言っておいた。嘘だが。」

仕事のことを思い出して一瞬緊張し、強張った体の力が抜ける。

「…ありがとう。」

穏やかな眼差しで頷いた比嘉くんの顔が少し曇る。

そして言いにくそうに、

「吾潟…貴様が嫌じゃなければ、一度心療内科にかかった方がいい。今の貴様に必要なのは、専門家のカウンセリングと治療だ。」

と言った。

薄々そんな気はしていたが、やはりキッパリとそう言われると、自分が異常ではないのかという不安が胸の中に渦巻く。

「あまり気にしすぎることはない。これまで頑張ってきた分だけ休めばいい。単純な話だ。受診したからといって、今までの吾潟と変わらない。多少吾潟が生きやすくなるだけだ。わかるな?」

背中をさすられながら、幼子を諭すように言い聞かされる。

比嘉くんは、正しいことを言っている。それは自分にもわかる。

ただ、受診のハードルが高い。

「いい病院を知っている。私もかかった事がある。何故受診したかは…貴様ならわかるだろう?上司に無理やり連れていかれたが、結果的に大分楽になった。

何なら私が予約してやろうか?」

自身のスマホを手に取りながら、問いかけられる。

比嘉くんが済ませてくれるなら助かる。だけど、

「…そんなに頼っていいの…?」

もし、頼りすぎて嫌われてしまったら。比嘉くんがいなくなってしまったら、自分は、もう、

「…何を言っているんだ?貴様は。私たちは付き合っているんだ。頼っていいに決まっているだろう。廊下で電話してくるから大人しく寝ておけ。」

乱暴に頭を撫でられる。ただでさえぐちゃぐちゃな髪が余計に乱れる。

けれど、撫でている比嘉くんのその顔は、とても優しかった。

「ありがと、」

涙が出そうになる。抑えなくては。

「ついでに何か食べる物も買ってきてやるから、吾潟、何が食べたい?」

食欲は湧かないが、震える声で「焼きプリン」とだけ伝えて、また布団の中に潜り込んだ。

「わかった。」という声とともに、スマホと財布を持って比嘉くんは出ていった。


比嘉くんの車の中は、どこかタバコ臭い。

送迎するお偉方が了承も取らずに吸うんだとか。

あの日から二週間ほど経った。奇跡的に予約が混み合っていない時期だったらしい。

「保険証持ったか?」と問いかけてくる比嘉くんは、休日なのにスーツを着ている。

朝から学会に駆り出され、午後過ぎに帰ってきたからだ。

「持ったよ、付き添いまでありがとう。」

気にするな、という比嘉くんは、車のエンジンをかけ、道路交通法ギリギリの速度で車を飛ばした。

「一応僕、公務員なんだけどな…注意してもいいんだけど」

「違反も事故もしていないのだからいいだろう」

道行くご老人が腰を抜かしている。ごめんね、おばあさん…。

「病院はどこらへん?」

「山の中に建っていてな…少し揺れるぞ。」

「大丈夫。酔いには強いから。」

「酒の話か?」

話しているうちにも車はびゅんびゅん進み、景色が流れていく。

「あの山の中だ。」

恐ろしい運転をしながら比嘉くんが指さす。

もうすぐ着くんだ。そう思った瞬間、脈拍数が増加するのを感じる。

「大丈夫だ、貴様には天才がついている。」

冗談なのだか本気なのだかわからない声のトーンで淡々と比嘉くんは言う。

天才は何ができるの、と聞くと、八百万のことができる、と言われた。冗談だった。

耐えきれず笑っていると、車体が、がくん、と揺れた。

「体ぶつけるなよ」

なおも比嘉くんは車を飛ばし続ける。

段々と白い建物が近づいてくる。考えないようにしようとしても、鼓動は早まった。

もし、自分が人と違ったら。

今悩んでもしょうがない。車が停まった。

車から降りると、澄んだ森の香りがした。


二人とも、何も言わずに車に乗り込む。

診断された病気は二つ。

僕は、統合失調症と、躁鬱だった。

僕は人と違うんだ。普通じゃないんだ。

胸の中で焦りが僕を囃し立てる。

僕はもう生きている価値がないのかもしれない。

誰もこんな僕のこと好きじゃないかもしれない。

そう思うと怖くて、辛くて、涙が出そうになる。いや、もう出てる。

とめどなく溢れて、比嘉くんの車なのにシートに涙の跡をつけてしまっている。

「大丈夫だ、吾潟、治らない病気じゃないんだ。吾潟は悪くない。ゆっくり休めばいい。それだけだ。…帰ろう。」

優しい比嘉くんの視線が痛い。撫でてくれるてが優しくて辛い。

喉にツンと刺すような感覚がして、息が詰まって、崩壊した。

「ッ、ぅあ゛ぁ゛ぁぁああッ!!もうッ、もう嫌だぁ゛あああああ!!!死にたい!!死にたいよぉ…ッ!!!辛いぃいいッッ!!!あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛あああ!!!!!!」

今まで我慢していた気持ちを吐き出すように叫ぶ。車内の空気が震える

「会、大丈夫だ、きっと治る、治るから、誰も会を責めないから、」

比嘉くんの声が少し震えている。

「誰も、誰も僕の、こと、好きじゃ無いんだ、き、きき、嫌われてしまった、んだよ、ッ、悟く、ん、嫌だ、嫌いに、嫌いにならないで、そ、そばにいて、」

「どこにも行かない。そばにいる。」

「お、おか、あさんと、お父さん、に、悪いこと、しちゃった、仕事、就けたのにっ、育てて、、ッ、もらったのにぃ…っ!!あ゛ぁ゛あああああ…、、ッ、!!」

「大丈夫だ、会のご両親はこんなことで会のことを嫌いにならない。」

「あ、あ゛ぁ、…ごめんなさい…ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…ッ、、ごめんなさい、ぃ、…」

「大丈夫」。その言葉が信じられない。

車の窓に飛んできた葉が積もる。

いつまで経っても、車にエンジンをかけられずにいた。


今思えば、吾潟は相当疲れていた。

家に入れば掃除はできていない、洗い物は日に日に増えていく、洗濯物は溜まり服が皺だらけになってる…本人はできているつもりの様なので黙っていたが。

運転しながら、叫び疲れ眠っている吾潟を横目で見ると、髪と眉毛が薄くなっていて、爪も不揃いになっていた。

吾潟自身が無意識の内に自傷していたのだろう。

目の周りが真っ赤に腫れ、体のいたるところが壊れかけで、精神も壊れかけで、ずっと私が来るのを健気に待っていたのか。

不甲斐ない。耐えきれないほどに不甲斐ない。

ふと隣から声がして、吾潟の方を見遣ると、眉間に皺を寄せて魘されていた。

吾潟が可哀想だ。叶うことなら吾潟の痛みを半分、いや、全部私が持ってやりたい。

もう二度と吾潟が苦しむことのないように、全て私が抱えてやりたい。

信号が赤になったようだ。視界が霞んで前が見えない。

右腕で涙を拭い、また走り出した。


ボロボロのアパート。吾潟の給料ならもっといいところに住めるはずだが、こいつは「ここが気に入っているから。」といっていた。

部屋に入った瞬間、床が軋む音がした。

今思えば、引っ越す余裕もなかったんだな。

一度ベッドに寝かせた吾潟の体を起こし、スウェットに着替えさせる。

可能な限り部屋は片付け、洗い物を消化し、洗濯物を干した。

念のため、吾潟のベッドのすぐそばにあるコード類やベルトは少し離れたところに片付けた。

次に薬棚を探す。吾潟が飲んでいるのは睡眠薬、胃腸薬、頭痛薬…だけか。

今はそれぞれ1瓶ずつ。覚えておこう。

やることは粗方終わらせた。後は吾潟が起きるのを待つだけだ。

時計はすでに午後5時を示している。今日はもう疲れた。

吾潟がいつも使っている、白と青のボーダーのクッションを手に取る。

それを枕がわりにし、自分も床に横になる。

これでも天才なんだがな、今日だけは体が痛くなっても仕方あるまい。

ゆっくりと、瞼が閉じた。


目が覚めた。

視界が虹色だ。

寝ていたベッドも虹色で、僕の体も虹色だ。

近くから、何かの鳴き声がする。

大きいなにかが僕を抱き寄せる。

そして耳元で僕に囁くんだ。「死ね」って。


「…やめて、…離して…」

「会!!起きろ!!」

びっくりして前を見ると、冷や汗で全身をびっしょり濡らした比嘉くんが居た。

「…あれ?」

虹色の世界は?あの鳴き声は?

「突然叫び出す奴がいるか…危うく心臓がひっくり返るところだったぞ…どうしたんだ」

僕を抱き寄せていたのは比嘉くんで…あれ、じゃあ比嘉くんが僕に死ねっていったの…?

「比嘉くん…ひどい…」

「…なにか気に触ることでもいってしまったか…?すまない…?」

「僕に向かって死ねっていった!」

「…はぁ!?」

あのインパクトの強い世界が嘘な訳がない。抱きつつまれている感覚だってまだ残っている。あの言葉だって、声だって、脳にへばりついて取れない。

「いやいや、吾潟、、私がそんなこと言うはずが…あ、」

全否定しようと首がもげそうなほどに横に振っていた比嘉くんが動きを止めた。

「…何?」

「…そういえば、統合失調症の代表的な症状は幻覚と幻聴とせん妄だったな…」

頭をなにか重たいもので殴られた感覚。僕が病気だから見えたのか。

僕が異常だから。でも、

「嘘じゃないよ…本当に聞こえたし、見えたんだ…嘘じゃない…。」

自分が見えたもの、聞こえたものを否定されたのが泣きそうになるほど辛くなってきた。

自分が嘘つきだって言われたような気がして。僕が病気だから、嘘つきなんだって思われたような気がして。

「…否定しているわけじゃないんだ、吾潟。吾潟が辛い思いをしているのは、吾潟のせいじゃないんだ…すまない…辛かったな、」

否定されたと思ったら肯定されて、何を信じればいいのかわからなくなる。

話す内容を整理しようとしても頭からすり抜けて、とにかく喋ろうとしても声が出ない。

「大丈夫だ、吾潟、わかっているから…辛かったよな…」

比嘉くんの言動がマニュアル通りに感じて素直に泣けない。

申し訳なくって、胸の奥が痛む。

比嘉くんの腕の中は、暖かかった。


休職して5日目。担任しているあの子たちはどうしているだろうか。

そういえば、もうすぐ夏休みか。

皆、受験勉強を始めているんだろうな。

僕よりも努力しているんだろうな。

途端、胃から迫り上がってくる感覚がする。

手近にあったゴミ箱を手にとって、胃液をぶちまける。

何か食べなきゃとは思うが何も喉を通らない。何度吐いても胃液しか出ない。

吐いたものを処理しなきゃと思うが、起き上がることすらできない。

体を誰かから押さえつけられているみたいにだるく、辛い。

時計を見る気力さえわかない。

暗さからおそらく夜ということはわかる。目を覚ましたのは5分前のような気がするのだが。

「…吾潟、会いにきたぞ。」

比嘉くんの声がする。返事しようとするが、胸で何かがつっかえたような感覚がして、声が出せない。いや、声を出すことすらもしんどいのだ。息を吸って、吐きそうになるのを堪えながら、空気を振動させ気持ちを伝える。

あまりにも複雑すぎる。なぜこんなに難しいことが赤子にできるのか。

「何も食べてないみたいだな…だいぶ吐いたようだし。臭いも気になるだろう。処理しておいてやるから。」

正直何も気にならないのだが、片付けてもらう。

「水だけでも飲んでくれ、吾潟。」

残念ながら起き上がれないのだ。押さえつけられる感覚に抗いながら首を横に振る。

「…ストローでなら飲めるか?」

首を縦にふる。比嘉くんには僕の気持ちが読み取れるのだろうか。エスパーだ。

「ほら、経口補水液で悪いが、これが一番効くんだ、飲んでくれ」

ストローを口に咥えるが、うまく吸い込めない。

比嘉くんが、ペットボトルをゆっくり押してくれたから、徐々に口の中に液体が入ってきた。

「上手だぞ、吾潟。偉い偉い。」

あぁ、自分は水分補給をしただけで褒められるほど落ちぶれたのか。

「私は自分の夕飯をとってくるから。吾潟、食べるか?」

とんでもない。固形物なんて食べた瞬間に吐き出してしまう。

先ほどより少し強めに首を横に振る。

「そうか…、まぁ寝ててくれ。」

口だけでもと、唇をぱくぱくと動かしあ、り、が、と、う、と伝える。

比嘉くんは優しく微笑んで、台所へと向かった。


吾潟は、日に日に弱っていっている。

一応抗うつ剤も飲んでいるらしいが気休めにもならないという。

吾潟と一日一緒にいて、あいつがベッドから起き上がるのは吐く時だけだ。

三代欲求だの、人間が本能的に行わなければならないことが何もできなくなっている。

水がうまく飲めないからストローを常備するようになった。

食事が取れないので、私と同じくサプリで栄養を摂るようになった。

起き上がれず、排泄がうまくできないので大人用のオムツを買ってきた。

吾潟が、どんどん人間から離れていっているような感覚がする。

しかし、吾潟のそばにいてやれるのは私だけだ。

研究もひと段落ついて、しばらくは一日中一緒にいられる。

私が、守らなくては。


毎日、天井を見て過ごしている。

何のために生きているのか分からなくなってきた。

ご飯の味はわからない。自力で眠ることもできない。他人を愛する気力もない。

きっと僕がいなくなれば、比嘉くんは楽になるだろう。

僕がいなくなればいいんだ。

きっと僕は役に立てない。早く死んでしまおう。

「吾潟、寝る時間だ。薬と水、持ってきたぞ」

寝室のドアを2回ノックして、比嘉くんが入ってくる。

「ありがとう、」

声は出せたものの、起きあがろうとするも体はいつも通り動かないので、比嘉くんに薬とストローを差し出してもらえるのを雛鳥のように待つ。

「今日の診察でまた睡眠薬の効き目が強くなったからな、体調がすぐれなくなったらすぐに言うんだぞ、わかったか、?」

ぷちぷちと錠剤を取り出して、これは睡眠薬、これはいつもの抗うつ薬、と僕にも分かりやすく説明してもらいながら、口に入れてもらう。

ストローで水を飲むのも下手になった気がする。集中しないと口の端から水が溢れてくる。

比嘉くんにティッシュで口を拭ってもらい、布団をかけ直してもらう。

してもらってばっかりだ。もっと、もっとちゃんとしないと。

「おやすみ。吾潟。」

おやすみ、と返す前に、僕は意識を手放した。


朝。

清々しい朝!

これまで澱んでいた五感が研ぎ澄まされるのがわかる。

小鳥の囀り。カーテンから覗く夏の朝の日差し。若葉の匂いが換気の為に開けた窓から流れてくる。少しぬるい、8月の部屋の空気。大きく息を吸うと、爽やかな気分で満ち足りた。

今なら起き上がれる気がする。

布団を蹴飛ばし、地に足をつける。立てた。僕はまだ人間だった!

「おはよう!比嘉くん!」

リビングのソファで寝ている比嘉くんを起こす。

驚いて跳ね起きた比嘉くんは2、3回目瞬きをして、それから満面の笑みを浮かべた。が、その顔は一瞬曇ったようにも見えた。

「おはよう吾潟。起きれたのか、偉いぞ。」

優しく頭を撫でてもらう。それが嬉しくて、変な笑い声が漏れた。

「比嘉くん、お腹すいた、朝ご飯たべたい!」

久々の会話に、声量がわからなくなる。

比嘉くんに、朝だからもう少し声を落とせと怒られてしまった。

比嘉くんは料理ができない。おそらく、人間の胃腸の耐久力をゾンビレベルだと思っているんだろう。

そう思っていたが、食卓に並んだのは、白米に味噌汁、目玉焼き、サラダ、ベーコンと、人間が食べられるものだった。

比嘉くんに、美味しそうだね、と微笑みかけると、お前の世話をしているうちに家事レベルが上がった、と苦笑を返された。

いただきます、と手を合わせ、味噌汁を飲んでみる。美味しい。食べられる。

箸はそのまま目玉焼き、白米、サラダと進んでいく。

途中、比嘉くんが躁鬱の躁が、とか、家の外に一人で出るな、とか言ってた気がするけど、こんなに元気なんだから気にすることなんてないはず。

わかったよ、と軽く流して、完食した。

「ごちそうさまでした!」

手を合わせると、ついつい笑みが溢れる。ご飯、食べられた。久々に食べられた!

「お粗末さまでした。」

比嘉くんが食器を流し台に運んでいると、比嘉くんの携帯が鳴った。

電話だろうか。「比嘉くん、電話、」と携帯電話を持っていくと、比嘉くんが露骨に嫌そうな顔をした。

どうしたんだろうと電話に出ている比嘉くんを見守っていると、どうやら学会から招集がかかったらしい。

比嘉くんは、吾潟が心配だから、と学会へ行くのを渋っていたけど、僕は今日こんなに元気なんだから、と言い聞かせると、渋々行くことを決めた。

最近ずっと比嘉くんのスウェット姿しか見てこなかったけど、久しぶりに白衣着てるとこ見たな、かっこいいな。

ずっと見つめてたら、ジロジロみるな、デコピンされた。痛い。

「じゃあいってくるから。くれぐれも外に出るんじゃないぞ。」

「はぁい、いってらっしゃい。」

比嘉くん、夏なのに長袖の白衣着てくんだ…。


そういえば洗い物放置されてたな、と台所へ向かう。

久々に働きたい気持ちが湧いてきた。たまには家事もしてみるか。

洗剤をスポンジに垂らして、食器をそのスポンジで擦る。楽しいかもしれない。

食器の泡を水で流して、干す。

単純な作業だが、天井を見つめていた暮らしを考えればこんなに楽しいことはない。

さあ次の食器を洗おうと手に取る。これが案外重たかった。

寝たきりだった僕の握力はだいぶ衰えていたらしい。

食器を落として割ってしまった。

落としたのは、比嘉くんの茶碗だった。

途端、息が吸えなくなってくる。怒られるんじゃないか。

勝手なことをして失敗してしまった。僕はどうしようもない人間だ。

怒られて当然の人間だ。早く何とかしなければ。

頭の中がぐちゃぐちゃとこんがらがって、何から手をつけたらいいのかわからない。

立ち尽くすことしかできない。

わかっている。まずゴミ袋を取りに行かなきゃいけない。でも、それがわからない。

変な感覚だ。わかっているのにわからない。自分はどうすれば。

ポケットに入れていた携帯がなる。びっくりして転けるところだった。

メールだった。比嘉くんからだ。もうすぐ帰る…って、どうしよう。

どうしよう。バレたら怒られる。

どうしよう。僕が勝手なことをしたから怒られる。

僕が勝手なことしたから、元気になったから、生きているから。

ふと、先ほどの元気が戻ってきたような気がした。

死ねばいいんだ。

そうだ、昨日考えていたじゃないか。

死ねばいいんだ!

サンダルを履き、鍵も閉めずに外に出る。

生きているからこんなことになるんだ。

きっと、この先元気な日だって少ないだろう。些細なことで元に戻ってしまうのだから。

僕が生きることは、よくないことなんだ。

絶望した。もう死ぬ他何もない。しばらく歩くと、国道が見えた。歩道橋へと足をすすめる

案外すぐに死ねるものなんだ。

これまで何を躊躇っていたんだ?と思うくらいすぐそこに死が迫っている。

あぁ、遺言、残せなかったなぁ。比嘉くん、どう思うかなぁ。

まぁいいや。


学会は思ったより長引き、吾潟に連絡を入れてから二時間もかかってしまった。

鍵穴に鍵を差し込み、開けようとひねると、もう既に空いていた。

全身に不快な寒気が駆け上がる。

ドアをひねると簡単に開いた。

「会!!」

吾潟が居ない。どこにいった。

「っ、何だこれ、」

足に何かが刺さる。自分の茶碗が割れていた。破片が足に刺さったようだ。血が出ているがそれどころじゃない。

足から破片を抜き、靴を履いて外に出ようとすると、自分の携帯に電話がかかってきた。

着信元は、病院だった。


吾潟は、もう既に息を引き取ったらしい。




コンビニで、あいつがいつも飲んでいるサプリとゼリーを買った。

向かう先はあいつの研究所…ではなく、あいつの元恋人の家だった。

「…比嘉、飯。食い終わるまで一緒にいるから。今日は食べてくれよ。」

ドアを開けた先には、白と青のボーダーのクッションを愛おしそうに抱きしめながら、何度も、

「愛してるぞ、吾潟。もう離れないでくれ、」と繰り返すだけの比嘉が地べたに座り込んでいた。

髪はぼさぼさで、目は虚ろで隈だらけ、服はよれよれの比嘉は、最早人間としての生活を捨ててしまったようだった。

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ダメになってしまったみたいだ。 海原シヅ子 @syakegod_umi

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