鎮魂挽歌ファルザリオン
上雲楽
第1話
ネクロコメットの大鎌が、私の胸に突き刺さる。
⒈ ぐったりすぷりんぐ
まずいし、一人だし、私は泣かないつもりだったけど我慢できなかった。つーっと流れた涙がかじりついていたパサパサのパンについてしまって、ますます食欲が失せた。どうして倉科先生は、全部食べ終わらないと帰っちゃだめなんていじわるを言うんだろう。いつもは優しいし、楽しいし、この前なんて算数と総合の時間を潰して映画も見せてくれたのに。
校庭で(たぶん)野球部が必死に番号を叫んでいる。野球部の人たちはうるさいから嫌いだった。べちゃべちゃで冷め切った野菜のあんかけをお箸でかき混ぜてみる。これを牛乳で流し込まないといけないなんて、考えるだけで吐き気がした。しかもお腹いっぱいになってきちゃったし、先生もハルナちゃんもどっか行っちゃうし、みんな私のことを笑うだけ笑ってすぐ帰っちゃうし。ついに声を上げて泣いてしまった。聞かれたらどうしよう、恥ずかしいと思うたびにもっと止まらなくなった。
足音が教室の外から聞こえてくる。どうしよう、先生だ。絶対怒られる。足音がどんどん近づいてくる。やだ、怖い。やだ。扉がガッと開いて肩がびくっと震える。
「って、あんたまだ食べ終わってなかったの。しょうもな」
「ハルナちゃんー」
ハルナちゃんだ。帰ってなかったんだ。私はハルナちゃんに駆け寄る。
「汚っ。近寄るな馬鹿もの」
と言って抱き着こうとする私の頭をぶった。
「ひどいよ。私だって帰りたいのに」
へなへなと床に座り込んでしまう。涙はまだ止まらない。
「なんか大変そうだね」
扉の影から宮本君がひょっこりと顔を出した。
「な、なんでいるの。見てたの」
「僕は図書館から戻ってきた。忘れ物しちゃって」
「私は生き物係だったから。あんたはまだ食ってるだろうなぁって」
「うーありがとうー待っててくれてー」
「しかし、先生って三年三組の食べ残しはゼロにしますって張り切っていたけど、本当にここまでやるなんてね」
「ほら、帰るよっ。そんなもんちゃっちゃと食え」
「いやなの、本当に無理なの」
「あんたいっつも無理無理うるさい」
ハルナちゃんは私を引きずると無理やり椅子に座らせた。ハルナちゃんには逆らえない。助けを求めて宮本君にヘルプの目線を送ったら、私のことなんか気にもしないで自分の机から分厚いハードカバーの本を取り出してランドセルに入れた。ひどいよ。私が座ったままお箸も握らないのを見ると、ハルナちゃんは私の顎を持ってパンを鷲掴みにして口の中にねじ込んできた。
「う、うう、ぐぇ、がう」
私でも笑っちゃうくらい間抜けな声が漏れた。でも全然笑えない。私の涙と鼻水が染みた生臭いパンが喉の奥に当たって吐きそうだ。でもハルナちゃんなら、ゲロをすくって残さず食えぐらい言いだしかねない。ゲロのことを考えていたらもっと吐きそうになった。喉と胃の間がキュルキュルと動くのを感じたその時、声が聞こえた気がした。ハルナちゃんの動きがピタリと止まった。助かった。ハルナちゃんが窓に走って行く。私も涙と鼻水と唾液でぐちゃぐちゃになったパンを皿の上に吐き出すと(ハルナちゃんはともかく倉科先生はこんなになったものを食べなさいとは言わないだろう。あとで職員室に謝りに行こう)、顔を上げた。宮本君も外を見ている。何かはしゃいでいるような騒ぎ声。そして重い何かが地面に叩きつけられる音。少しして教室がビリビリと震える。まさか地震だろうか。やった、帰れる。と思った時、私は窓の外にそれを見た。
四つの眼が私を見ていた。校舎に人影のようなものが立っている。でも大きすぎる。だってここは三階なのに、ちょうど目の前に顔が。それに生き物みたいに少し揺れているのに、顔は金属の鱗みたいなもので覆われている。表面は真っ黒で大やけどしたようにでこぼこだった。
「な、なんなのこれ」
ハルナちゃんが叫んだ。
「ゴドナーだ」
教壇に知らない人が立っている。でも教壇の上には誰も見えない。まるで誰かがいることを知っている感覚だけ押し付けられたみたいだ。
「ゴドナーだって。まさか」
「すまない。地球の子供たち。私たちは侵略されている。だから戦わなくてはならない」
教室に声が響く。何、何なのこれ
「ってことは私たちが選ばれたのね。よっしゃ」
ハルナちゃんが嬉しそうにガッツポーズをとる。ハルナちゃんの左腕に白いプラスチックに青と赤の金属で飾りがしてある大きな腕時計か籠手のようなものが付いている。ふと見ると宮本君にも私にもついていた。
「君たちにメダルを渡す。これでファルザリオンが目覚めるはずだ」
「御託はいいわっ。さっさと戦い方を教えなさい」
「メダルをアクセプターにはめ込み、メルティングフェーズと叫ぶのだ。そうすれば」
「メルティングフェーズ」
ハルナちゃんがメダルを指でピンとはじいてキャッチし、思いっきりメダルを籠手に叩きつけて叫ぶと、ハルナちゃんが光ってぼろぼろとその姿が崩れて見えなくなった。
「メルティングフェーズ」
宮本君もメダルをさっと差し込んで呟くと消えてしまった。
「なんで、なんで私なの」
私一人が教室に再び取り残された。一人ではなかったけど。
「本当にすまない」
「無理、無理っ。私には」
頭を抱えると右手からメダルがすり抜けて床に音を立てて落ちた。いつの間に握ってたんだろう。
「君には、私には使命がある。みんなを守ってほしい」
「メルティングフェーズ」
私は叫んでいた。メダルを拾ったつもりもない。なのに左腕にメダルがはまっている。目の前がピカピカ光って、右目と左目の位置がずれて、何も見えなくなった。
「遅いわよっ。マキののろまっ。さっさとこいつぶっ倒すよ」
「何、ここ。やだ高い。怖い」
私はカプセル状の空間の中で椅子に座っていた。椅子の周りにはよくわからないレバーやペダルが付いていて、カプセルの壁面は前も下も後も外を映して、まるで空中に椅子が浮かんでいるようになっていた。
「何なのだ、ここは。あの怪物は何だ」
知らない低い男の人の声が聞こえる。
「落ち着いて、ファルザリオン。あれは僕らの敵、ゴドナー。力を合わせよう」
宮本君が落ち着いて話した。
「ファルザリオン?私の名前が?」
「やだ、なんなの。やだ、やだ。怖い」
「黙れ馬鹿」
カナちゃんが怒鳴りつける。
「ファルザリオン、私たちの思いは感じているわよね」
「あ、ああ」
「なら行くよ。突撃」
カプセルがずしん、ずしんと揺れて怪物がどんどん近づいてくる。違う、私が近づいているんだ。怪物の姿は大きいけれど人間の姿に似ていた。でも全身が真っ黒で傷跡みたいにでこぼことひび割れているし、腕も手が無くて一本の太い線がにゅっと伸びている。怪物と目が合ったけど、怪物は何もせずにぼうっと立っている。校庭には誰もいなかった。ただ、サッカーボールやラケットやバットがぞんざいに置きっぱなしになっている。白い腕が素早く横から伸びてきて怪物にぶつかった。
「おっしゃ。この調子」
ハルナちゃんが楽しそうに言う。その時、肩に違和感を覚えた。前を見ると怪物が腕を斜め上に伸ばしている。痛い。これは。私の肩を貫通しているんだ。何これ。
「ぐっ、がっ」
低い痛みをこらえる声が聞こえる。無理、こんなの無理。こらえられない。痛い痛い痛い。私の肩を押さえる。
「落ち着いて有野。僕たちの腕じゃない」
「マキ!ファルソードを使うよ」
「ファルソード!」
私は叫びながらレバーとコンソールを操作する。
「ファルソード」
男の勇ましい声が聞こえて、私の右手に何かが握らされたのがわかった。ちらりと手を見るが、当然何も握っていない。白っぽい何かが素早く一瞬視界を遮ると、怪物の距離が離れた。怪物の腕が一本なくなっている。肩からずるずると太いものが引き抜かれる感触がする。
「やだ痛い、怖い帰る帰る。助けて」
「当たり前だ。さっさと帰るんだよ。ファルリングよ」
「ファルリング」
「ファルリング」
宮本君に続いて男が叫ぶ。腰に熱いものを感じる。熱が一気に引いたと思った瞬間、光のアーチが私から飛ばされ、怪物にぶつかると輪になって腕を押さえる。輪から理科の実験で使った三脚のように光の足が伸びて地面にめり込んだ。
「ファルクラッシュ」
私たちの声が重なる。私は助走をつけて高く飛び上がると怪物を目掛けてファルソードを振り下ろす。真っ二つにして着地し、そのまま踏み込み、怪物を横切りにして後ろに回り込む。背後で爆発音がした。
巨人が寝そべり、私はカプセルを開ける。どうやら胸のあたりに入っていたらしい。巨人の表面はなめらかな金属で覆われている。アクセプターと同じように白地に赤や青の線が入っている。ハルナちゃんと宮本君はとっくに降りていた。私もアスレチックのように巨人からなんとかずり落ちる。すると巨人が手を動かして脇腹にくっつけた。私は手に飛び乗るとまたゆっくりと手が動いて地面に降りた。
「ここは一体、それに君たちは」
巨人から声が聞こえる。まだあの知らない男の人が乗っているのだろうか。巨人がゆっくり片腕で上体を起こし、立て膝をつく恰好になる。巨人の肩は片方抉れ、向こうから光が漏れていた。
「やだぁ。なんで私なの。三年三組だけどずっと何もないから何もないと思ってたのに」
私は地べたに座り込んでまた泣いてしまう。もうどこも痛くなかったけど、貫かれた肩をさすった。
「あんたがファルザリオンね。私は神田ハルナ。こっちの男子が宮本ユウ。で、このピーピーうるさいのが有野マキ」
「私が、そのファルザリオンという名前なのか」
大人の男の混乱した声が聞こえる。
「何も知らないのね。呆れた。とにかくさっさと消えなさい」
カナちゃんがアクセプターをカチャカチャといじると、私たちが消えた時のように巨人が光に包まれた。
「何だこれは。私は死ぬのか」
巨人が輪郭のぼやけてきた両手を見つめて取り戻す。
「大丈夫だ。落ち着いて」
宮本君が言い聞かせるように言うと、巨人の姿は蜃気楼のように消え去って見えなくなった。
「何が起きた。説明してくれ」
カナちゃんの方からあの男の声が聞こえる。あのアクセプターから声が聞こえているようだ。
「とりあえず話しやすくしただけよ。マキじゃないんだから落ち着きなさい」
「む、そ、そうだな。どうやら生きているのは確かなようだ。君は、そこの少女と少年も大丈夫か。怪我はないか。どうやら私の中にいたようだが」
「中って何なの。あの男の人どこにいっちゃったの」
私はよろよろカナちゃんに近づいて涙声で尋ねる。
「鈍いわね。こいつよ。ファルザリオンよ」
カナちゃんがアクセプターの液晶画面を見せる。そこにはさっきまでいた巨人の姿が映っていた。
「事情はよくわからないが、どうやら私に巻き込んでしまったようだ。すまないと思っている」
「いや、ファルザリオンの事情だけじゃない。僕たちみんなのものだよ」
「というか、こんなに何も知らないものなのね。想像以上でびっくり」
「僕たちの世界は侵略されているんだ。僕たちと君、ファルザリオンは力を合わせて戦わないといけない」
「それが先ほどの黒い怪物というわけか」
「そういうこと。今は戦いが終わったから、アクセプターの中にあんたはいるわ」
「私は君たちを乗せるスペースを持って生まれ、それにそのアクセプターとやら。何なのだ、私は」
「詳しくはわからないけど、物分かりいいわね。あんたも見習いなさい」
と溜息を吐いて私の目を見る。
「ひどいよハルナちゃん」
「そうだ、ファルザリオンはあんたが預かりなさい」
「え、無理無理無理」
「うっさい。何も知らないみたいだからあんたが教えてやるのよ」
そんなの絶対に無理だ。そうだ、宮本君に頼もうと思って涙を目にためて見つめると、肩をぐるぐる回してそっぽを向いていた。ひどい。カナちゃんがまたアクセプターをいじると、私のアクセプターが光ってファルザリオンが映った。こんなのとずっと生活するなんて。絶対にやだ。気持ち悪い。
「マキ君と言ったか。すまないが、私も混乱している。よかったら手を貸してもらえるとありがたい。私もできることがあれば何でも協力しよう」
「やだもー。何なの急に。やだぁ」
アクセプターから何度もすまない、大丈夫かという深く優し気な声が聞こえる。怪物も巨人もどこにもいなくなっていた。でもがたがたに荒れた校庭が確かに何かがここにあったことを物語っていた。ランドセルを取るために教室に戻れば、まだ給食が待っていることを思い出して私は泣いた。
給食はこっそり捨てようと思ったが、ファルザリオンが食べ物を残すのはよくない。どうしても駄目なら、そのセンセイとやらに正直に話そうと言った。この調子でずっと説教されるのだろうか。気が重い。ハルナちゃんも宮本君もすぐに帰ってしまった。薄情者だと恨むと、ファルザリオンと一緒に帰れるんだからいいじゃないと言って笑った。宮本君も笑っていた。いつもこうだ。面倒なことはすぐに私に押し付けられてしまう。だからもっとしっかりしないとと思うんだけど、人から大きい声で何か言われると声が出なくなって、泣きたくなってしまう。職員室にノックをして入る。職員室に行くのは悪いことをしていなくても苦手だ。しかも今回は絶対に怒られる。倉科先生は机で仕事をしていた。プリントでも作っていたのだろうか。
「お、どうした有野。食べ終わったか」
とこっちを見た瞬間、アクセプターを見て目を見開いた。
「あの、食べきれなくて、頑張ったんですけど、本当にだめなんです。もう吐いちゃう。牛乳はちゃんと飲みました。だから、その」
「有野が選ばれたのか」
「あ、え」
「センセイとやら。ここの決まりはよく知らないが、少女はできる範囲で努力したのだ。もちろん、食べ物は本当は残すべきではないと反省している。どうか寛大な対応を願えないか」
「やはり、そうか。おめでとう有野」
先生がにかっと笑って私の肩を叩いた。さっき貫通した方だったから、短い悲鳴をあげてしまった。
「君の名前は」
「あ、有野マキです」
「いや、こっちの新しい仲間」
「初めまして。ファルザリオンというものだ。よろしく」
アクセプターが点滅して声が漏れた。職員室の他の先生も少しずつ集まってこっちを見ている。私は怖くなり、失礼します、と言って(いたつもりだったが声が出なかった)職員室から逃げ出した。後ろから倉科先生が
「これから頑張れよー」
と呼びかけたのが聞こえた。
帰り道、ファルザリオンはずっと私に質問してきた。あれは何だ。鳥だよ。あれは何だ。車だよ。あれは何だ。電柱だよ。あれは何だ。ガムだよ。などなど。車を知らない人にあれは車だと説明して何が伝わるのだろう、と途中で気が付いたが、ファルザリオンは何も言わないので気にしないことにした。きっと質問してばかりでは嫌がるだろうとファルザリオンなりに気を利かせたのだろう。犬を散歩させているおばあちゃんとすれ違った。絶対に質問されるよ。面倒くさいなぁ。
「なぜ、君たちが戦わなくてはならないのだ」
想像していたのと違う質問がされて驚いた。今までの質問より低いトーンで、どうやら真剣らしい。
「え、それは三年三組だから」
「サンネンサンクミとは何だ」
「私たちが市立浮川小学校の三年生で三組だってこと。私たちの学校は大丈夫だと思ったのに。どこの学校も三年三組の誰かがやらないといけないの」
自分で言いながら悲しくなってくる。少なくとも自分ではないはずだと思っていた。道の小石を蹴っ飛ばす。
「人に当たると危ない。ここで石を蹴ってはいけない」
「うるさいなぁ、石は知ってるんじゃん」
私はアクセプターを捨ててしまおうと思ったが、すぐにその考えを捨てた。選ばれてしまえばやらなくてはならないことはわかっていた。私は走る。走れば涙をこらえられると思った。鍵を開けて家に入り、玄関で靴を履いたまま座り込んでしまう。
「やだぁ。何で、何で私なの。怖い。怖いよ。助けてよ」
ファルザリオンがなだめようと甘い声で落ち着いてくれ、私も一緒に戦おうと言った。私はみじめな気持ちになって、泣きながら靴を脱ぎ、貫かれた肩に絆創膏を貼った。怪我も痛みもどこにもなかったが、何かが和らぐような気がした。お菓子入れからポテトチップスの袋を取り出すと、ファルザリオンが、帰ってきたらまず手を洗うべきだと言った。
ファルザリオンは何も知らないというより、記憶にムラがあると言った方が正しいらしい。帰り道であんなに質問していたのに、算数の宿題プリントに悩んでいるとわかりやすく教えてくれた。またニュースで言っていた隣の国の裁判の仕組みや、最近発明された薬の開発方法まで解説してくれた。自分の名前も知らなかったのに。もしかしたらファルザリオンは記憶喪失なのかもしれない。バラエティ番組で紹介されていた記憶喪失の男も、こんな風に記憶の穴がまばらだった気がする。私は寝転がってマンガを読み始める。うつ伏せになるにはアクセプターが邪魔だった。
「その絵が好きなのか」
「絵というかお話が好きなの。これ、マンガって言って、右上か左下まで順番に読んでいくの」
「マンガというのはどういう話なのだ」
「えっと、マンガってのはこんな感じの書き方の意味で、マンガって名前の話じゃないの」
私はパラパラとマンガ雑誌をめくる。パパは一つだけ雑誌を毎号買っていいと言ってくれた。ファッション誌と少女マンガ雑誌で迷ったけど、結局マンガにした。ファッション誌はいつも同じような服が載っているだけみたいだし、クラスの人がたまにこっそり教室に持ってきて見せてくれる。私はパラパラとページをめくって最近お気に入りのマックスマカーブルを開く、が雑誌を閉じてしまう。ファルザリオンと一緒に読むのがいやだったし、気分転換する気分でもなかった。テレビでは知らないお笑い芸人が、薄汚い店の前でアボカド角煮饅頭というのを食べて騒いでいる。スタジオでも同じものが出されて、おばさんアナウンサーが、意外といけますね、とコメントしている。このおばさんは性格が悪そうだから嫌いだった。タブレットで動画でも見ようかと思ったが、気が乗らない。私は見たくもないテレビをつけっぱなしにして漫然と眺めていた。時折ファルザリオンが面白くもないニュースに反応して質問してきた。私は相変わらずぞんざいに答えた。
ニュースが終わってバラエティ番組が始まる時間になってもまだパパは帰ってこなかった。キッチンを使うのは危ないからだめだと言われているけど、ご飯は炊いておいた方がいいかもしれない。キッチンでしゃかしゃかと米を砥ぐ。テレビでは最近人気の若手お笑い芸人が視聴者投降をもとにしたコントもどきを演じている。芸人が何か言うたびけばけばしい色のテロップと大げさな効果音やエフェクトがついて、右上の枠ではおじさんの芸人が手を叩き大口を開けて笑っている。クラスの子たちの前では言わないけど、こんな子供騙しで喜んでいる人がいるなんて信じられない。それに実話が元になっていますって言っているけど、きっとそれも嘘で、全部作り話に違いない。芸人が漫才の時の決め台詞をもじった台詞を言うと、笑い声が流れてきた。ファルザリオンに
「こんなの何が面白いんだろう。子供を馬鹿にしてるよね」
と言ってみる。
「あ、ああ。そうかもしれないな」
何だよその反応。もしかして面白がっていたのかな。呆れた。これは本当に教育が急務かもしれないとほくそ笑んだ。番組が終わり、次はVTRに芸人やアイドルが過剰反応してみせる番組が始まった。始まってしばらくして、ご飯が炊ける音がしたので、固まらないようにかき混ぜる。テレビの前に戻って、リモコンをいじる。クイズ、温泉、野球、野球、グルメ。適当にザッピングしたあげく、またVTR番組に戻った。テレビに、トラックにひかれた黒人がくるくる回って着地を決める映像が流れて、右上の枠で芸人がぽかんと口を開けた間抜けな顔をしている。
がちゃりがちゃりと玄関から音がした。
「だめじゃないか。鍵開けっ放しで」
「あ、ごめん。おかえり」
「じゃ、すぐご飯作るからって……その腕」
「ああ、選ばれちゃった」
「初めましてお父上。私はファルザリオン」
「あ、初めまして。よかったじゃん」
「よくないよっ」
パパの方に向かってクッションを投げつける。全然届かずに、手前で落ちる。
「痛いし、高いし、怖いし馬鹿みたいっ」
「……申し訳ない」
「ファルザリオンは関係ないでしょっ」
私はのしのしと足音を立てて部屋を出る。
「お風呂掃除してくる」
パパは私の気持ちもしらないで、あいよーととぼけた返事をした。
湯船を軽くシャワーで濡らして洗剤をかける。棒の先についたスポンジも濡らして擦り始める。
「マキ、巻き込んでしまって本当にすまない」
「関係ないでしょ。ダジャレのつもり」
「ダジャレとはなんだ」
自分で言って、怒るのが馬鹿馬鹿しくなった。どうせこのアクセプターを外すことはできないのだ。パパに八つ当たりしても仕方がない。でも少しくらい慰めてくれてもいいのに。本当にデリカシーがないんだから。それにしても、
「……お風呂でまでアクセプター付けなきゃなのかな」
「安心してくれ、マキ。もしもまだ不安なら、風呂であっても私が見守ろう」
「なんで男子ってそんなにデリカシーないんだよっ」
洗剤をシャワーで流している間、ファルザリオンは謝っていたが、なぜ私が怒っているのかいまいちわかっていないようだった。
食事中、デリカシーってのがわかってない男子どもにむすっとしてみせたけど、ファルザリオンはともかくパパはまったく気にしていないようだった。
「それでもう敵は倒せたのか」
「全然楽勝」
「申し訳ない。私がもっと」
「いーのいーの。子供ってのはちょっと痛いくらいで大げさなんだから」
「全然わかってない。超痛いんだから。何で私がやんなきゃいけないの」
「そりゃ、上にみんなで帰るためなんだから仕方ないよ。他の三年三組も頑張ってるんだから」
「そんなの知らないし」
「あ、サーヤ出てるよ」
と言ってパパがテレビを指さす。トーク番組でアイドルのサーヤちゃんが、
「それでー前回のアルバムはアンリ・プッスールを意識してみたんですけどー。ファンの方からも不評でー」
などとエピソードを話して笑いを誘っていた。サーヤちゃんはかわいいし、明るいし、優しいし好きだったけど、パパの露骨なご機嫌取りに反応するのが悔しいから、そうなんだ、とそっけなくふるまう。
「あの少女はなにものなのだ。マキの知り合いか」
「おいマキー、ファル君に説明してやれよ。詳しいだろ」
「……ごちそうさま!」
乱暴にお箸を置きたくなったけど、パパもファルザリオンも絶対怒るからやめた。そのかわりまたのしのし歩いて食器を流しに置く。パパなんか見てやんない。そのままお風呂に直行する。と思ったけどやっぱり脱衣所で引き返してテーブルの上にアクセプターを置いた。パパとファルザリオンが無言で見つめあうのを無視して今度こそお風呂に直行した。
お風呂からあがると、部屋から笑い声がした。テレビの音かと思ったけど、パパとファルザリオンの声だ。
「お、もうあがったのか」
とパパがおなかをポリポリかいて(へそ毛が本当にやだ)お風呂に向かった。
「パパとなんの話してたの」
「ああ、この世界についてな。実にマキのお父上は面白い」
「全然そんなことないし。臭いし」
パパもファルザリオンも嫌いだけど、私がいないところで仲良くされるのもいやだった。私はアクセプターをもう一度装着しようと手に取る。装着しなければならないんだと急に実感して怖くなった。じっとアクセプターを見ているとファルザリオンがまた優しい声で、どうした、マキ、大丈夫か。と言った。ファルザリオンに同情されるなんてまっぴらだから。さっさと装着してしまう。見た目のわりにあまり重さはない。私は寝っ転がって、もう一度マンガを開く。マックスマカーブルはちょっとエッチなシーンもあるし、人に聞かれたときはいつも読んでないふりをしていたけど、ファルザリオンに気を遣うのはいやだったから、気にせず読んでしまう。先月号は主人公のピーちゃんがネクロって謎の男に出会うところで終わっていた。ページをめくる。やっぱりネクロはかっこいい。それにピーちゃんも貧乏なのに陽気でかわいい。ネクロが世界の終わりについて話している間、少し前にピーちゃんと会った女の子同士のカップルがいちゃいちゃして今月号は終わった。他のマンガも面白かったけど、これが一番だった。ページ全部がキラキラしているし、こんなの読んだことがない。ファルザリオンは読んでいる間何も言わなかった。寝転がるのはお行儀が悪いざますくらい言われると思ったけどそれもなかった。パパもお風呂からあがる。
そのあとはパパとファルザリオンから寝なさいと言われるまで起きていた。明日の時間割通りにランドセルの中を入れ替える。パパとファルザリオンにおやすみを言って電気を消した。今日のことがいろいろ思い出される。登校中に見たミミズの死骸。理科室の人体模型、べちゃべちゃのパン、そして。私は型の絆創膏を押さえると、アクセプターをつけたまま眠った。
次の日が最悪だったのは、朝の会で倉科先生が私たち三人が選ばれたことを話したからだ。立つように言われて拍手されたときは本当にいやだった。みんな休み時間のたびにずっとファルザリオンに興味津々に話しかけてくるし、ファルザリオンも律儀にいちいち答えているし。赤坂君が、ファルザリオンってチン毛生えてるんですかー、とゲラゲラ笑いながらアクセプターをベタベタ触る。赤坂君は時々鼻くそほじっているから本当は近づくのもいやだった。ファルザリオンがいつもの調子で、チン毛とは何だと言うので、他の男子もゲラゲラ笑いだした。女子はやだー馬鹿すぎーとか言っていたけど、にやにやこっちを見ている。
「ちょっと有野さんさぁ」
マリカちゃんが腕を組んで私を見ている。
「ちょっと選ばれたからって調子に乗ってない」
「そ、そんなことないけど」
「ああ、マキはよく頑張ってくれた」
とファルザリオンが私をかばうとそれが気に障ったらしい。カっと目を見開く。
「だいたいなんであんたなわけ。ありえないし」
と怒鳴ったところでチャイムが鳴った。マリカちゃんもみんながぞろぞろ席に戻っていく。助かった。この調子がずっと続くと思うと憂鬱だった。もう学校行きたくない。行きたいと思ったことないけど。みんなに囲まれている間、ハルナちゃんは面倒がってずっと他の子と話していたし、宮本君のところにもアクセプターを見に来た人はいたけど、適当に追い払って一人でまた本を読んでいた。
授業中もみんながちらちらと私を見ていた。クラスのみんなからも先生からもファルザリオンからも監視されているんだから全然集中できない。ファルザリオンが体調を心配したが、平気だと言ってなるべく気にしないようにする。宮本君がまた授業中に寝ていて先生に怒られていた。宮本君もずっと見られているのによく居眠りできる胆力があるな、と素直に尊敬する。宮本君は授業中に寝るしこっそり本読んでいるし、すごく態度が悪いのに、クラスで一番頭がいいから世の中不公平だ。それでいてみんなを馬鹿にしたりしないし。いや、単に周りに興味がないのかもしれない。宮本君が人を見下すようなことを言った記憶はないけど、自分から誰かに話しかけているイメージもない。最初はクラスの人たちも休み時間の遊びに誘っていたけど、本読みたいから、と断るから、次第に誰も話しかけなくなった。私も宮本君ってそんなにみんなが嫌いなのかな、と思っていたけど、無理矢理遊びに誘わなければ普通に話してくるし、冗談も言うし、人前でも堂々と発表するし、そういうわけでもないようだ。いつも文字がぎっしりつまった大きな本を読んでいるし、何を考えているのかわからなくてやっぱり近寄りにくい。
「先生、私たち選ばれちゃったし、親睦を深めるために一緒に食べた方がいいと思うんですけど」
給食前にハルナちゃんが提案しだした。三年三組では班ごとに机を固めて給食を食べていたから、当然みんながずるいずるいと言いだした。先生はうーんと唸って、しばらく好きな席で食べていいことになった。ハルナちゃんその他がお祭りみたいに盛り上がる。宮本君とハルナちゃんと机をくっつける。他の人たちも少しこっちを見ていたが、ハルナちゃんが
「三人とファルザリオンのグループだからだめ」
と言って追い出す。
「あんた、感謝しなさいよ」
そう言ってウィンクするとハルナちゃんは給食の配膳の準備に行った。もしかしてハルナちゃんは、私が給食の間中質問攻めにされるのはかわいそうだと思って気を利かせたのかもしれない。ハルナちゃんは時々優しい。宮本君はどうでもよさそうに、ランチョンマットを広げるとすぐに黙々と本を読みだした。話すことがなくて少し気まずい。
「何か困ったことはない」
とファルザリオンに話しかけてみる。
「ああ、私は大丈夫だ。それよりもマキは大丈夫か。なにやら今日は調子が悪そうだったが。給食も無理しない方がいい」
「う、うん。大丈夫。えーと、宮本君は体調大丈夫なの」
「え、僕?なんともないよ」
宮本君はまたすぐに本に目を戻してしまった。
「……宮本君って今何読んでいるの」
「ジーン・ウルフって海外の作家だよ」
「へー、そうなんだ。……面白い?」
「まだ読み終わってないから」
「あ、そ、そうだよね」
「でも面白いよ」
「あ、そうなんだ。私も今度読んでみようかな、なんて」
「ユウは読書が好きなのか」
会話が途切れる気配を察したのかファルザリオンが間に入ってくれる。
「まあね」
「私もこの世界の娯楽に興味がある。もしよければ紹介してくれると嬉しい」
「ファルザリオンも娯楽になんて興味あるんだ」
宮本君が初めてこちらに興味を示す。
「戦うために生まれてきたのに」
宮本君はなんでもないことのように言ったけど、私にはすごく怖いことを言ったように思えた。ファルザリオンはそうかもしれない、と答えると何も言わなかった。宮本君は不思議だよね、と言って読書に戻る。私は何を言ったらいいのかわからなくて黙り込んでしまう。目の前に少しずつ給食が配膳されてくる。よかった。今日はなんとか食べられそうだ。私たちが黙ったままでいるのを見て、マリカちゃんたちのグループが
「なんのために自由席にしたんだろうね」
とわざと聞こえるようにひそひそ話してくる。少ししてみんなに食器を配り終えたハルナちゃんが戻ってくる。日直が前に出ていただきますの音頭をとる。とほとんど同時にハルナちゃんががつがつ食べ始める。見ているだけでお腹いっぱいになってくる。宮本君は絶対食事中も本を読むだろうから、ファルザリオンに注意されるだろう、と内心にやにやしていが、普通に机に本をしまって食べだした。
「じゃ、早速作戦会議よ」
ハルナちゃんがご飯をかきこみながら言う。
「ハルナ、口に食べ物を入れたまま話すのはよくない」
やった。初めてファルザリオンが私以外を注意した。学校来てよかった。
「うるさいわねー。とにかくやっつける作戦よ」
「と言っても情報が少なすぎる。どうやって動かしたかもわからないのに」
「そうね、どうやって動かしてたんだっけ」
私も思い出せない。確かに私はファルザリオンを理解して動いたつもりだったが、記憶が夢のようにぼんやりしている。
「そのことだが、私は君たちをもう戦いに巻き込むつもりはない」
ファルザリオンが毅然と言い放つとハルナちゃんが、がたっと椅子から立つ。聞き耳を立てていた周りの子も驚いている。
「なんですって。だめに決まっているでしょ」
「私も考えた。どのような事情で私と君たちが戦うことになったのかわからないが、子供が戦うのは間違っている。現にマキは深く傷ついているとわかった。これ以上、目の前で苦しむ人を見過ごすわけにはいかない」
「そんなこと言っても戦えなかったら怪物が来てみんな傷つくでしょ」
「君たちが私から出た後も私の体は動いた。みんなを守ることは不可能ではないはずだ」
「それがいいかもね。僕もいやだし、有野も無理でしょ」
「あんたらねぇ」
宮本君が牛乳瓶の蓋を開けるとハルナちゃんが机をばんと叩いた。宮本君は気にせずごくごくと飲み干した。
「じゃ、ごちそうさま」
いつの間にか宮本君は食べ終わっていた。私はまだ半分以上残っているのに。ハルナちゃんは抗議したけど、いやだよ、痛いしと言ってまた本を読みだした。
「すまない。ハルナ。不安なのはわかるがどうか私を信じてほしい。絶対に守ってみせる」
ハルナちゃんは話しても無駄だと思ったのか、もう何も言わずに席に座った。ハルナちゃんも私より多く食べ終わっていた。みんなもっとゆっくり食べればいいのに。ハルナちゃんには悪いけど、ファルザリオンが戦わなくていいよ、って言ってくれてほっとしていた。
お昼休みにトイレから戻ると、机に置いておいたアクセプターがなかった。やっぱりみんな触りたがるのか。これからはハルナちゃんに預けよう、と思うと、教室の隅がなんだか騒がしい。
「だから、有野さんに変わって私がやってやろうって言ってんの」
「馬鹿。駄目に決まってるでしょ。返しなさいよ」
「馬鹿ってなんだよ私に向かって」
「こいつ足踏んだなっ」
ハルナちゃんとマリカちゃんが髪の毛を掴みあって喧嘩していた。マリカちゃんの腕にもハルナちゃんと同じようにアクセプターが巻かれている。囲んでいる男子はもっとやれと二人を煽るし、女子はやめなよ二人とも、先生に怒られるよ、ととりあえず注意した既成事実は作ったようだが、間に入るつもりはなさそうだ。ファルザリオンが君たち、落ち着くんだ、と繰り返しているが、大声で叫ぶ二人や男子たちのせいでまるで聞こえていない。私は怖くて動けなかった。男子が戻ってきた私を見つけて、騒ぎ出した。宮本君は相変わらずクラスで何も起きていないかのように本を読み続けている。
「み、宮本君。助けて」
泣き出しそうになりながら宮本君の机に向かう。
「何が」
「喧嘩してるの。止めてあげてよ」
「関係ないし」
「ちょっと、マキもこいつにがつんと言ってやりなさいよ」
ハルナちゃんが私に向かって叫ぶ。男子たちが、そうだー言ってやれーとはしゃいでいる。
「宮本君、助けて」
「別にアクセプターなんてあげちゃえばいいのに。それがいやなら取り返せばいい。僕には関係のないことだよ」
「ひどいよ宮本君」
ハルナちゃんが、マリカちゃんが、マキ!と詰め寄る。男子たちが面白がってマキコールをする。女子たちは遠巻きに逃げて有野さんかわいそーと言い合っている。だめだ、我慢できない、泣いてしまう。ファルザリオンも見てるのに。と思った瞬間、教室が揺れた。
教室が静まる。私はこの振動を知っている。窓の外を見ないといけないのに怖くて動けない。また大きな鈍い衝撃が伝わる。足に力が入らず、目を閉じてそのまま床に崩れ落ちてしまう。
「また来たわね。メルティングフェーズ」
ハルナちゃんが叫ぶ。行っちゃやだ。置いていかないで。怖い。顔を覆った指の隙間から教室を窺う。だけど男子たちの足の中にハルナちゃんの上履きが見えた。
「ちょっと、どういうつもり」
ハルナちゃんがマリカちゃんを押しのけて私に、私のアクセプターに怒鳴りつける。私は顔を上げた。そして見た。窓の外から紫色の頭がこっちを見ている。顔は鼻も耳もなく、カマキリみたいに大きな複眼がついていた。いや、複眼じゃない。大きな目を構成する小さな目の一つ一つが、同じように鼻も耳もなく複眼のついた顔になっていた。私は悲鳴をあげようとしたけど、さっき食べた給食が鼻から逆流して、がぼがぼと空気を漏らすことしかできなかった。喉の奥がつんとして、まき散らした吐しゃ物が私のスカートにかかる。
「やだぁぁぁ。本当に痛いのいやなの。あがっ。ファルザリオン。助けてファルザリオン。うえっ。ハルナちゃん、やだやだやだ」
アクセプターからはなんの反応もない。教室は騒がしかったけど、何も頭に入ってこない。怖い。怖い。怖い。また一つ大きな衝撃がして今度こそ私が甲高い悲鳴を絞り出すのに成功すると、教室で歓声があがった。
紫の影の前に白い影が見える。
「やめなさい、ファルザリオン。あんただけじゃ無理でしょ」
ハルナちゃんが叫ぶ。が、白い影、ファルザリオンはダっと紫の怪物に走って行く。体当たりを仕掛けるが、怪物は少し後ろに下がっただけで、逆にファルザリオンが吹き飛ばされてしまった。私は吐き出した給食を踏んだのにも気が付かず窓に近づいてしまう。
「あ、あ、あ、やだ、ファ、あ」
ファルザリオンが倒れこんでジャングルジムを押しつぶしていた。ぶつかったのか、ジャングルジムの後ろにあった電柱も傾いている。ハルナちゃんと宮本君が何度もアクセプターに呼びかけているが反応しない。
「有野さん、メダルを出しなさい」
マリカちゃんが私をにらみつける。とっさにメダルを入れていたポシェットを見てしまう。マリカちゃんが勝手に私のポシェットを漁ってメダルを取り出し、メルティングフェーズと叫ぶ、が何も起こらない。立ち上がろうとするファルザリオンに怪物が歩いてくる。怪物の肩の先には前回の怪物と違って人間の腕が生えていた。でも左右に三本ずつ。二の腕から先はさらに三本ずつに分かれて、枝のようになっていた。乱暴に腕を振り下ろしファルザリオンはまた地面に叩きつけられる。
「ファルザリオン。今すぐ僕たちを受け入れてくれ」
「しかし」
と返事すると怪物がファルザリオンの頭を鷲掴みにした。腕も足も掴まれている。
「絶対に君たちを危険な」
怪物がファルザリオンの頭を地面に何度も叩きつける。鈍い音がして土埃が舞う。ファルザリオンは必死にもがくけど、つま先と指先がくるくるするだけでまったく抵抗できていない。ふと見ると昨日貫通したはずの肩がふさがっているのに気が付いた。
「ぐ、があああぁあぁぁぁ」
ファルザリオンの右腕が曲がって、折れて、引きちぎられる。野太い悲鳴が響き、びくんびくんと全身が痙攣するがそのまま押さえつけられる。肘から下がサッカーゴールの上に落ち、重みでひしゃげさせた。
「何が絶対守るよ。このままじゃみんなやられちゃうじゃない」
その時、怪物が落ちた右腕を拾おうとして、左足を押さえつけていた方の腕の束が離れる。すかさずファルザリオンが残った腕を蹴り上げ、ロックを外し、飛び上がって距離をとる。怪物は些細な抵抗だとでも言うようにファルザリオンに一瞥もせず、のそのそと腕を拾いあげる。
「今よ、ファルザリオン。私たちを受け入れなさい」
「くっ、あぁ、はぁ」
ファルザリオンは右腕を押さえ、短い吐息を漏らすことしかできない。
「そうだ、ファルザリオン。僕たちが君もみんなも守る。一緒に戦うんだ」
「うぐっ、し、しかし」
怪物の顔半分に目まで届くほどの切り傷が生まれる。ファルザリオンが反撃したのか。いつの間に。違う、あれは。白い腕が、紫の腕たちの中に埋もれ、掲げられ、ずるずると切り傷の中に滑り込んでいく。完全に白色が見えなくなってすぐバキバキと金属の砕ける音がする。
「あ、あ、あ、いやああぁぁうえあああぁぁ」
「私たちを信じろ、負け犬。助けてやるって言ってんの」
「頼む。助けさせてくれ」
「……すまない」
私の悲鳴を無視して二人がメダルをはめ込み、メルティングフェーズと叫んで消えた。やだ、やだ、一人はいや。マリカちゃんを見ると、神妙な顔でアクセプターとメダルをこっちに差し出している。
「認めるわ。やっぱり選ばれたのはあんた。有野マキみたい」
「違うの、違うの、あのね、メルティングフェーズって叫ぶの。メダルをね、アクセプターにね、できるから。絶対にマリカちゃんもできるから試して。叫んでよ。助けてよ。怖いの。無理なの」
私のゲロまみれの手にゆっくりとメダルを握らせる。
「私にできることは信じることだけ。お願い有野さん。私たちを、ファルザリオンを助けて」
頑張れよ、信じてるぜ、お願い有野さん、みんなも怖いけど頑張ってるよ、私たちがついてるから、負けないで、絶対できる、尊敬しちゃう、待ってるよ、有野さん、マキちゃん、マキ、有野、ありっち、マキ、マキ、マキ。
「ああああああああもうやだあああああああ」
私の視界が光の渦に消えた。
「おっしゃあ!全員集合ね」
「みんな、本当にすまない」
「違うよ、ファルザリオン。こういう時は」
「そうだな、ありがとう、ハルナ、ユウ、マキ。ともにみんなを守ろう」
私はいる。あのカプセル。痛い。腕が熱い。知らないのに動かせるレバーたち。知ってる。やだ。高い。痛い痛い痛い。怪物がゆっくりとこちらを振り向く。顔からポトリと何かが落ちる。それはファルザリオンの手首だった。
「いやあああああああファルレーザアアアアアアアアア!」
「ファルレーザー」
私は回路を入れ替えてバイオニッククロージャーを展開する。ファルザリオンが頭を守るように残った腕を構え、肘と膝の装甲がガシャっとずれる。中から光が漏れる。出鱈目な方向に光が飛び散り、防球ネットを切り裂き、電柱がなぎ倒され、奥の民家の二階が穿たれる。少しずつ光が怪物に集まっていく。怪物は気にも留めずにまっすぐこっちに歩いてくる。かすった光が腕を切り落とすが、何事もなく歩き続け、断面がボコボコと蠢いてまた少しずつ伸びてきた。切り落とした方の腕もボコボコとしている。光が怪物の胴に触れたところで、攻撃を止めた。
「まずい、分裂するかもしれない」
と宮本君が言った時にはもう遅かった。怪物の腕はもとに戻り、腕からまったく同じ怪物が生えてきていた。
「そんなの、倒し続ければいつかは倒せるでしょ」
「待つんだハルナ、冷静になった方がいい」
「僕に考えがある。ファルリングだ」
「ファルリング」
腰から熱いものが解き放たれる。ファルリングは二つの怪物を同時に繋ぎ止める。動かなくなっても足だけは前進し続けている。腕がファルリングから伸びた脚を掴んで壊そうとしている。
「隙を与えないで、ファルスフィアだ」
「ファルスフィア」
腰からお腹にかけて熱いものがみなぎる。ファルザリオンの胴から円形の光が発し、ゆっくりと怪物にぶつかると怪物二つを中心に高速で回転し、シャボン玉のように丸くなって覆い包む。
「オーケー宮本。私にもわかったわ。ファルソード」
「ファルソード」
残った腕でファルソードを掴み、怪物に走り寄る。
「何、何なんなの」
「大丈夫だ。みんなを信じるんだ。うおおおお」
ファルザリオンが雄叫びをあげ、シャボン玉の中に抉るようにしてファルソードを突っ込むが、途中で止まり、一体にもかすらない。
「だめだよ、無理だよ、負けちゃうよ」
「鈍いわね馬鹿っ。切って増えるなら、切らなきゃいいだけの話でしょうが」
「あ、あ、あ、あファルファイアー」
「ファルファイアー」
ファルソードの輪郭が柄を残して少しずつぼやけてくる。ファルソードがぶれて、かすれて、光の粒になっていく。光の色がファルソードと同じ白から、黄色、オレンジ、赤と変わっていき、ついに青白くなった光のうねりが球の中でほとばしる。
「あっはっはっは、最高だわ。このまま炎に焼かれて分解されてしまえっ」
ハルナちゃんの笑い声とファルザリオンの闘志と苦悶を嚙み潰した吐息と私の悲鳴が入り交ざる。宮本君が冷静にまだだ、動いている、と報告してくれるが何も頭に入ってこない。光がどんどん強くなっていき、中が見えなくなる。ファルザリオンが刀身の消えたファルソードを引き抜き後ろに飛び下がると、球が風船みたいに爆発し、校庭を抉った。土煙が見えなくなると、もうそこには何もなかった。
「おっしゃあ、ビクトリー」
ファルザリオンが立て膝をつき、私たちを下すと、また光になって消える。私は我慢できなくなり、と言ってもずっと我慢できていなかったけど、声をあげて泣いた。
「すまない、そしてありがとう。君たちの勇気に助けられた」
私のアクセプターからファルザリオンの声がする。
「というわけだから、次から私たちもさっさと受け入れること。いいわね」
「……ああ、どうやら君たちの力を借りなくてはならないようだ。あらためてよろしく頼む」
「あ、みんなだ」
と宮本君が言った先を見ると、クラスのみんなが校舎からこっちに走ってくる。すごいぜ、ありがとう、さすが、かっこいい、本当に倒したの、大丈夫、あーサッカーゴールがー、すごく強い、痛くないの、白い巨人はどこに、本当にありがとう。
私は痛い、痛いと声にならない叫びをあげて、泣きじゃくりながらのたうち回って砂を掴む。髪の毛も服も砂だらけになったけどかまわなかった。
「馬鹿、何やってんのよ」
とハルナちゃんが右腕を差し出すが、一瞬、苦痛に顔をゆがめて引っ込め、左腕の方を出した。宮本君もぎゅっと右肘を握っている。
「うぇぇぇ、ハルナちゃうあああ」
「って、汚いからくっつくなっつうの」
ハルナちゃんが左手でポカリと頭を殴ると、クラスのみんなが笑い声をあげた。ファルザリオンが何かを言っていたが聞き取れず、私には叫ぶことしかできなかった。
「ほら、いつまでそうしてんの。まだやることあるでしょ」
「あああ、もうやだやだ、痛いのやだ痛い痛い痛いファルザリオンが、ファルザリオンが、痛いの、ああああああ何なの、何でなの、痛いの、何するの、何しないといけないの何でなの、私が、私が、うわあああああ」
「何ってあんた、教室のゲロ掃除に決まってるでしょ。あんたがまいた種、っていうか、まいたゲロなんだから」
次の日は、大声と胃液のせいでずっと声が出なかった。
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