第1話

   一

     茨城県土浦市 七時零分

 ピピピピッピピピピッ。静寂をスマートフォンのアラームが切り裂き、伊藤優が怠そうに腕を持ち上げアラームを止めた。重い百八十センチほどの長身を起こして目を擦り、大きいあくびをした。浮かない足取りで洗面所へ向かい顔を洗い、髭を剃った。着慣れたスーツをクローゼットから取り出し、身支度をし、珈琲を沸かしてパンを焼いた。この一連の動作は会社に就職して三週間で身に付いた。チンッと音が鳴るとパンはこんがりと良い匂いを放って狐色に変わっていた。テーブルに移り熱いパンにバターを塗っているときにふと時計を見ると秒針が7:33を指していた。伊藤は慌てふためき、トーストに目を移した。

「いっけね」

 トーストを珈琲で流し込み、鞄を持って家を出た。鍵を掛けようと財布から鍵を取り出した。すると強風が吹き荒れ、鍵を落としてしまった。風の吹いた方向を条件反射で向くと人影が見えた気がして目を擦った。再び目を向けるとそこにはクロネコヤマトの配達員の男性が立っていて、自身をまじまじと見つめるスーツ姿の男に対して怪しい顔ひとつせず、明るく挨拶をしてくれた。申し訳ない気持ちでぎこちなく会釈をした。急いで鍵を拾い、鍵を掛けてその場を立ち去ってしまった。

 アパートの外階段を降りて今自分が下ってきた階段の上を見上げると、先程の男性が伊藤の隣の家に荷物を届けている最中だった。隣人の顔を見ると一昨日貰ったいぶりがっこの味が思い出された。右手の腕時計に目をやると7:40を指していたため、伊藤は急いで駅に向かい走った。

 駅を目前に捉えたとき、運悪く信号に捕まってしまった。電車の出発する音が伊藤を焦らせる。自分の横には同じく出勤していく男性や女性がスマホを眺めていた。

 伊藤はスマホが嫌いだった。スマホを持つと様々なものに縛られている気がするからだ。最近の女子高生なんかがそうだ。いいねやフォロワー数が自分の価値と思い込んでいて、とても可哀想だと思っている。そんな自分もスマホを持ってはいる。空を見上げながらそんなことを考えていると、唐突に女性の叫び声が聞こえた。声の方向を向くと三、四十代の女性が口を押さえながら車道の方向を呆然と眺めていた。目線の先を見てみると四、五才の男の子が車道で転んで泣き喚いている。男の子の背後から男の子には全く気づいていないトラックが走ってくる。辺りを見回しても動こうとする大人は誰一人として居なかった。それどころかスマホのカメラ機能で動画を撮っているしまつだ。

「おい、やばいんじゃないのか」

「誰か!110番!」

 左胸を摩り、覚悟を決めた。

 生きていた中で最も速く走った。男の子を抱き抱え、自分が来た方向に向きを変え再び走り出した。男の子の体は綿毛のように軽く感じた。トラックの運転手は伊藤が走り寄って来たことに気付き、急いでブレーキを踏んだ。しかし、トラックの速度は直ぐには落ちず、数メートルタイヤを引きずりながら進んだ。奇しくも間に合わず伊藤の足を轢いてしまい、伊藤は苦痛の悲鳴をあげた。骨が砕ける音がする。

 運転手は直ぐさまトラックから降りて伊藤に駆け寄り声を掛けた。

「すまん!大丈夫か。すまん。直ぐに病院に連れてくから我慢してくれ」

 伊藤の身体を抱き上げてトラックの助手席に乗せ、ドアを閉めた。まだ泣いている男の子も抱き抱え母親らしき人物に託して、トラックに戻ってきた。男の子が無事なのを横目で確認して、ほっとした。

「遅くなっちまったな」

 そう言うとエンジンを蒸して病院に急行し、医師に足の状態を診せた。

 数十分後、足を包帯で巻かれた伊藤がトラックの助手席から運転手の肩を借りて降り、車椅子に乗りながら出社した。同じ部署の社員や部長に心配されながらも業務につき、キーボードを叩きながら先刻のことを思い出した。

 痛みで朦朧とする伊藤に運転手が声を掛けながら運転している中で、一つ。たった一つだけおかしな音が聞こえていた。心臓の鼓動音の様なゆっくりとした音が聞こえていた。時間が経つことに鼓動音は速くなり、やがて伊藤の心音とピッタリと重なった。すると心臓が何かに強く握られ、覆われた様な感覚に襲われた。だが数秒すると治った。自分の苦しそうな様子を見ていた運転手は危機感に煽られ、さらに速度を上げて病院に急行した。法定速度を軽く超える速度で走っていたが、運良く警察に見つからなかったのが不幸中の幸いだ。胸に手を当てだが変わらず心音が一定のリズムを保ち鳴っているだけだった。歩けるまで三週間か

 昼休みになると部長から早退しても良いと許可が降りたので仕事を隣のデスクの花澤に託して早退した。花澤は渋々ながらも受け入れてくれた。

 初めて車椅子で動いてみると中々タイヤが重く動かなかったが、少しすると慣れてきてスイスイとまではいかないが動ける様になった。ここから自分のアパートまで車で三十分もするため、落胆しながらも動き始めた。数十分後、一キロ程進むと繁華街に入ったからか、様々ないい匂いが漂ってきた。東の渋谷と呼ばれているだけあるな。路地裏に入ると人の活気が失われ、静かになった。そこでは昼から酒を飲んでいる飲んだくれや、野良猫、不良が屯していた。中々この時間帯に会社から出ることがなかったので物珍しそうに辺りを見ていると、不良がいい獲物を見つけたと思い三人揃って伊藤に近づいてきた。伊藤はそれに気が付かずゆっくりと前進している。不意にハンドルを誰かに握られ車椅子は急停止してしまった。後ろを向くと不気味な笑みを浮かべた高身長と低身長の不良が三人立っていた。

「あ、あの。何か」

 三人は笑い、その中の一人が言った。

「急で悪いんだけどお金頂戴よ、おじさん」

 金か。伊藤は今あまりお金を持っていなかったが、不良に渡すお金は更に持っていなかった。

それに

「俺はおじさんっていう歳じゃないんだけど」

 それを聞くと三人は大爆笑した。

「面白いこと言うね、おじさん。それにお金くれれば何も悪い事はしないからさ」

「お金はやれない。てか学校はどうしたんだ」

 段々と三人は苛立ち始め車椅子を蹴り倒し、伊藤は放り出された。

「あんたにそんな事言われる筋合いはねーよ」

 倒れた伊藤の腹部を一人が思いっきり蹴り、近くに積まれていたコーラの瓶で他の一人が伊藤を殴り、又別の一人が足を踏み躙った。伊藤は丸くなり体を守るが、足に骨折による痛みが無いことに気がついた。その間にも三人からの攻撃は続いていた。少しすると疲れたのか諦めたのか分からないが攻撃が止んだ。痛む体を起こして、道を塞いでいる一人に体当たりをした。思ったよりスピードが出て相手が二メートル程吹き飛んだ。伊藤含めた四人は突然の事にポカンと口を開けて立っていた。頭を振って目を覚まして伊藤はバッグを掴み、その場を後にした。いや、しようとした。普通に走ろうとしただけなのだが、スピードが出て壁に激突してしまった。全身が痛むがここを抜け出さねばという一心で、慎重に足を動かし駅に向かった。普通の歩きなら三、四十分掛かる道を伊藤は色々な場所に激突しながらもたったの一分という短時間で移動してしまった。訳が分からないまま電車に乗り込み土浦の我が家に帰った。

 ソファに倒れ込むと今日一日の出来事がフラッシュバックしてきた。悪いことが続くな。「なんなんだよ」

 気が緩むと急激に瞼が重くなり、そのまま伊藤は深い眠りについた。

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