DOUBLE LIFE
がみ
Phase I. BORING LIFE
ep 1. つまらない人生
ミット打ちの音が心地よく室内に反響する。
ある者はサンドバッグを叩き、ある者はシャドーボクシングをして見えない相手とスパーリングをしていた。
ここは森ボクシングジム。
会長の森
彼はかつて世界を獲った男で、現役を引退してから三十年が経ち、当時黒かった髪はグレーに染まった。
身体は衰えているもののいまだにその面影を残しており、自らの経験を後輩たちに伝えようと日々指導している。
このジムにも期待のボクサーがいた。
名前は宮田
勝気で自信に満ちており性格はお世辞にも褒められないが、この中でもっとも強い彼が大きい顔をしても誰も文句は言えなかった。
その期待の星がリングでミット打ちをする相手は
身長は宮田より大きく、宮田のコンビネーションにうまく対応してミットを的確に構えた。
呉羽は会長の森にその才能を見込まれていたが、プロにはならなかった。現在はこの森ボクシングジムでトレーナーをしている。
「よし、ここまでにしよう」
「阿藤さん、もっと早く動いてくれないと練習になんねえよ。三十過ぎて身体が重いんだろうけど、そろそろトレーナーきついんじゃねえの?」
「それはすまない。二十代の頃のようにいかないのは確かだ」
宮田はこのジムでもっとも強い自負があり、トレーナーをしている呉羽ですら見下したような言動をする。
休憩のためにロッカーに向かった宮田を見送って、呉羽は他の練習生の様子を観察した。
「阿藤。宮田に好き勝手言われてなんで黙ってるんだ? いくらあいつが強いからと言って、お前の方がこのジムでは先輩だろう。歳も立場も上だ」
森はよく宮田の言動に苦い顔をして彼を叱っていたが、会長の森に対しても「俺の方が強い」などと舐めた態度をとった。
「仕方ないですよ。ここで機嫌を損ねられてはせっかくのタイトルマッチに支障が出るかもしれませんから」
「お前は人がよすぎるな」
感情を表すにも体力が必要だ。
本音を言えば宮田のために無駄な体力は使いたくない。聞き流しておけばいさかいも起きない。
「会長、そろそろ上がります」
「もうそんな時間か、お疲れさん」
「お疲れ様です」
呉羽はシャワー室に向かい、汗を綺麗に流した。
持ってきた替えの服を着てロッカーに入ると、椅子に座ってスマホを触っている宮田がいた。
「もう上がりっすか」
「うん。次の仕事があるから」
「カフェ店員でしたっけ? その歳でバイトなんて、お先真っ暗っすね」
「俺はこの生活に満足してるよ。宮田くんのように富や名声は得られないけどね」
「つまんねえ人生」
宮田は捨て台詞を吐いてロッカールームを去った。
「つまんねえ、か」
他人から見ればそうなのかもしれない。
三十歳を過ぎてパートタイムで働き、歳下からも馬鹿にされ、それでも争いにならないように相手の嫌みを聞き流すだけ。
だが、俺にとってはつまらなくても俺の人生だ。
呉羽はロッカーからリュックを取り出して右肩に掛けると、ジムをあとにした。
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