紺、スカート、花

小富 百(コトミ モモ)

紺、スカート、花



イクミは本が好きだ。あと花が好きで、学校で飼っているという白い兎が好きだと言う。放課後、寄り道をして本屋に寄る時間が好きだと繰り返し僕に語る。

僕はその本屋で毎日毎日あくせく働いていて、イクミがある日そんな僕のエプロンの裾を引っ張ってきたのだ。

「ねえ、あれを取って」

指差す先は花の図鑑だった。はいどうぞと手渡すと、ぶっきらぼうなありがとうが返ってきた。彼女は紺色のスカートをはためかせて、図鑑を胸に抱えてはたりと散るように駆けて行った。



あのさ、と彼女は言う。

「冴えないよねえ、後ろ、寝癖ついてるよ」

ほら、ここ。

どこ?

だから、うしろ。

髪を引っ張られる。痛いなあ、なんて僕は笑ってつぶやく。いつのまにか僕と彼女はそのような感じになっていた。そのような感じ、とは、一線を超えない、という感じ。つまりは指先だけ、爪先だけ、小さなつむじを見下ろすだけ、という感じ。

本を数冊抱え直しながら、

「寝癖、直してくれる?」

そう問うと、

「イクが?」

少し驚いた声が返ってきた。そんなことまるで思いもしなかった、みたいな。

彼女はしばらく黙っていて、そして、その小さな手で僕の頭を一回だけもう一度だけ強く引っ張った。

痛いなあ、と僕はまた笑って呟く。

「これでいいわ」

これでいい。

「そうか」

君がそう言うならそうなんだろうな。だから僕は、

「ありがとうね」

ただ一言そう答えた。



イクミはその赤いランドセルが随分と小さくなるまでこの本屋に通い続けた。何も買わないこともあったし、姿を見かけないことももちろんあった。僕にも一応、公休、というものが与えられていたし、彼女には夏休みや学校の創立記念日なんてものもあったので。

そしてそんなある日、春が近づく前の日だった。

「中学生になるわ」

そう彼女は言った。相変わらず花の図鑑を持っていた。

「おめでとう」

僕は素直に祝福した。

彼女は続けた。

「進学するの」

「そう」

「電車で15分」

「そう」

「少し遠くの、学校に行くの」

彼女は僕を見た。僕はただ、僕の背にかなり近付いた彼女の肩に馬鹿みたいに驚いていた。

「15分って暇よね」

「そうかな」

ほんのすぐだと思うけど。

「大人と子供は違うから」

だからね。そうイクミは続けた。

「これからもここに通うわ。

私の好きな、本を探しに」

彼女はにっこりと笑った。

私好みの本を見つけておいてね。電車で読むから今度からは文庫本がいいわ。

「良い?」

そう尋ねられたので、

「良いよ」

もちろん。

なんて言ったって僕は本屋さんなのだからね、とそう答えた。

僕達はなんとなく笑い合った。ぼんやりとしたサボタージュの中、紺色が淡く褪せていた。この数年の間で僕は、少しだけ花が好きになった。

今度花の図鑑を買ってみよう、初心者向けの薄くて読みやすい、彼女ならもうとっくの昔に持っているであろうものを。

そんなことを考えて、スカートをはためかせて駆けて行く彼女に僕は小さく手を振った。




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紺、スカート、花 小富 百(コトミ モモ) @cotomi_momo

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