ペイン・パイン・ペイン
舞寺文樹
ペイン・パイン・ペイン
寒い。どうやら主人がエアコンをつけっぱなしにして、仕事へ行ってしまったらしい。革製のソファはひんやりを通り越してもはや冷たかった。昼寝に最適な場所を求めた結果、窓際の本棚の上にすることにした。
主人はかなりのこだわり者で、庭や部屋のインテリア、そして家の外装までこだわっている。ログハウス風の外装に、ウッドデッキ。そして家庭菜園には、オクラとトマトとナスが栽培されている。私も、主人がこだわり抜いたこの景観が好きだ。
しかし、一箇所だけ眺望を邪魔する奴がある。それは室外機だ。あの白くて無機質なボックスはこの景観に全く馴染んでいない。グワングワンと唸っているそいつは、その奥で静かに収穫を待つ完熟のパイナップルに嫌がらせをしているようだった。
物心がついた頃にはもうすでにこの家のご主人と二人暮らしだった。外の世界のことは、この本棚の上からのことと、テレビで放映されていることしか知らない。「外に出たい」という願いは多分墓場まで持っていくのだろう。私は半ばこの夢を諦めていた。
私はテレビがあるから清水寺とかマチュピチュとか、有名どころだけは知っているが、ここら辺の外の世界の奴らは多分知らないだろう。ご飯だって、蛾や、ミミズや、モグラを食らうのだろう。私はそれらを食べたことがないので、美味しいのかどうかはわからないが、主人が与えてくれるあのカリカリしたやつが一番美味しいに決まってる。つまり外の世界の奴らも、私みたいな囚われの身も一長一短ってわけだ。
しばしうたた寝をしていると、誰かの声が聞こえた。ふと目を開けると、室外機の上に一匹の茶色い奴がいた。
「その真っ白い毛が美しいよ」
「あなたこそ、その癖のないまっすぐな毛並みがすっごい美しいよ」
「それは嬉しいなあ。君はいつもそこにいるのかい?」
「今日はクーラーが効いていて寒いの。だから太陽の陽が当たるところにいるのよ」
「クーラー?わからないなあ。てか、こんなに暑い日に寒いだなんて、冬になったら一体どーなっちゃうんだい?」
「そこは、心配しないでね。あなたこそ外での生活は大変でしょう」
「安心しろ、俺はこっそりあそこのトマトとか食べてるから」
「あらー。悪い子さんじゃない!主人にバレないようにしなさいよー」
「おいおい、あの怪物のこと主人とか呼んでるのか」
「私は主人がいなかったら死んでしまうもの。そういえば名前は?」
「名前なんてないさ。飼われてるやつは名前ってのを与えられるって言うけどな」
「そうね。たしかに、主人がいなきゃ名前もつけてもらえないわね。ちなみに私の名前はリリって言うの。よろしくね」
「リリか。よろしく。そーだ!俺の名前つけてよ!」
「私が?じゃあ……。キチってのはどお?」
「キチ?」
「うん!キチ!主人が『キチ』ってのは縁起がいいって言ってたから」
郵便配達のバイクが来て、キチくんは颯爽とどこかへ行ってしまった。その日はもうキチくんが室外機の上に現れることはなかった。キチくんと喋っている時は室外機のところのパイナップルを齧ってるときくらい甘酸っぱい気持ちになったのだが、キチくんがいなくなった後はパイナップルを齧りすぎて舌がヒリヒリするように胸が痛くなった。リリはこれがなんなのか全くわからなかったが、その日からリリは本棚の上にいる時間が三倍増えたのだ。
陽がすっかり暮れた頃、遠くから低いエンジン音が聞こえてきた。主人は車にもこだわっている。少し赤い塗装が剥げたワーゲンバスがバックしてくる。私は玄関まで主人を迎えにいくのだ。
「ただいまー。なんか随分と寒くないか?」
気の無い声が聞こえる。しかし、私の姿を見るや否や主人の頬は緩んだ。私を両手で抱きしめ、頬をすりすりした。
主人はかつて奥さんと子供二人の四人家族だったらしい。しかし北海道から関西に終身転勤となった際に惜しまれつつ離婚したらしい。年に一度だけ、その元奥さんと子供たちが会いにくる。別に夫婦間の中が悪くなり離婚したわけでは無いので、四人で食卓を囲んでいるときはとても幸せそうなのだ。しかし、三百六十四日はひとりぼっち。その寂しさの埋め合わせに抜擢されたのがこの私リリちゃんってわけだ。
奥さんと子供二人の合計三人の身代わりになるのだから、主人から私への愛情は図り知れない。多分主人から私への愛情は日本一、いや、世界一、いやいや、宇宙一と言っても過言ではないだろう。
「あら、クーラー付けっぱなし……。リリちゃん寒くなかったかい?ごめんなあ」
全然大丈夫です。と答えたいが私から主人へは伝えることができない。なのでゴロゴロしたり、おねだりポーズをしたりして、主人を癒してあげることしかできないのだ。
三日後。どこからかパイナップルの香りがしてきた。本棚の上から外を見ると室外機の上に泥んこ塗れのキチくんがいた。
「久しぶり。リリちゃん。さっき裏の山で仲間の奴らと遊んでたら泥んこになっちゃったよ」
「久しぶりー。あらあら、外の世界も楽しそうね。てか最近全然来てくれなかったじゃん!毎日来てくれてもいいのに……」
毎日来てくれてもいいのに。と言い終わった後に最高に甘酸っぱいパイナップルの香りがした。
「毎日かー。それは厳しいな……」
今度はパイナップルを食べすぎたときのヒリヒリがきた。
「でも、できるだけ来るよ。リリちゃんとおしゃべりするの楽しいからね」
甘酸っぱいパイナップルが戻ってきた。これがリリちゃんの初恋である。
私がキチくんに恋してるって主人が知ったらどうなるだろうか。あの外の世界の泥んこ塗れのキチくんが好きだなんて。そんな私の初恋を主人には隠して、いつも通りに振る舞った。相変わらず主人は私にデレデレだ。パイナップルなんかではない。ハチミツやメープルシロップのようなベタベタした感じだ。別に嫌ではないが、私が死んだり、脱走したりしたら主人はどうなってしまうのだろうとつくづく思う。
さらに三日後。この日は少し暑さが和らぎ、クーラーはついていなかった。網戸からは心地よい風が吹き込んでくる。
「外の世界知りたいでしょ」
「うん!めっちゃ知りたい」
「だから差し入れ持ってきたんだー」
キチくんは器用に前足で網戸を開け、私の前にその代物を置いた。
「なにこれ!」
私はキチくんからの差し入れに私は思わず声を上げてしまった。首元から血が滴り、白眼を向いた一匹のネズミが私の前に置かれた。
「ほら、食べなよ。これめっちゃ美味いから」
「えぇ……」
まずは手本と言わんばかりにキチくんがネズミに齧り付いた。私は思わず目を覆いたくなったが、変な風に食べて行儀悪いと思われるのは嫌なので、しっかりと、咀嚼から飲み込むまでを見届けた。
「次リリちゃんの番だよ!」
私は恐る恐るそのネズミのお腹の辺りに歯を当てた。顎に力をいれると、ネズミの皮膚に歯が食い込んでいくのがわかる。なんとか噛みちぎり、口の中で咀嚼した。
「え、美味しい……。キチくん!これすんごい美味しいよ!」
私の生物としての本能なのかなんなのかはわからないが、この獣臭が私の外の世界への憧れをより一層強くした。
「でしょでしょ!今さ、せっかく外に出れるんだし、散歩しようよ!」
「うん!」
わたしはネズミに齧り付いたあの瞬間から主人のことなど全く頭から消えていた。少しの網戸の隙間からうまく身を捩り外に出る。広い。ただただ広い。このままずっと進めば、テレビに映っていた清水寺にも、マチュピチュにも行ける。キチくんの毛がゆらゆらとなびく。キチくんがこんなに近くにいる。ずっと窓と室外機の距離でしか交流できなかった私たちが、こんなにも近くにいる。
キチくんがこっちこっちと手招きする。私は急いでそちらに駆けていく。小さな石が肉球に当たるのが少し痛かったがすぐに慣れた。それから私はキチくんといろんなところに行った。隣のおばさんの家に行けばカニカマやソーセージがもらえたし、裏山に行けばキチくんのお友達に会えたし。外の世界って本当に最高って感じ。
世界がだいぶオレンジ色になり、蜩が鳴き始めた頃、歌謡曲の『ふるさと』のオルゴールが流れ始めた。これが流れると言うことは午後五時ということだ。私はふと現実に引き戻される。
「どうしよう。主人が帰ってきちゃう」
「それはマズイな……。すぐに家に戻ろう!」
私とキチくんは全速力で来た道を駆けた。さすがキチくん。足が速い。私の前をグングンと駆ける。ふんわりと私の鼻をパイナップルの香りがくすぐる。甘酸っぱいパイナップルの香りが、私の全身を包んだ。そのパフュームな香りの虜になってる間に、目の前には大きなログハウス風の家が聳え立っていた。網戸がわずかに開いた室外機の脇の窓から風が吹き込み、カーテンがヒラヒラと舞っている。私はその窓の前で止まった。またこの中に入ってしまったらもう、外には出られないかもしれない。そう思うと、家の中に戻りたくなくなってしまうのだ。また、あのヒリヒリに襲われる。恐らく今日は充実しすぎたのだろう。幸せの過剰摂取というわけだ。
「じゃあね!また網戸の日はお外にお出かけしよ!」
「うん!そーだね!じゃあまた来るよ!」
ちょうどそこへ、赤い塗装が少し剥げたワーゲンバスがバックで駐車場に入ってきた。
「やべ!轢かれる!」
キチくんはこんなジョークを言いながら暗闇へと消えて行った。
この日の晩、パイナップルの甘い香りと、食べすぎた後にくるヒリヒリが、交互に訪れた。主人に愛でられているときは、やっぱり私がいなくなったら主人が悲しんでしまうと、ヒリヒリの気持ちになり。主人がテレビとかスマホに集中しているときは、キチくんと散歩した一日の出来事を思い出して、甘い香りに包まれていた。
それからしばらく、私とキチくんは、主人の目を盗んでは外の世界を探索した。私のデートは、全て主人には秘密だ。バレてしまっては主人が外出するときに、全てのドアの鍵が閉められてしまうだろうと思ったからだ。
外の世界は全てが斬新で、毎日が驚きの連続だった。例えばトカゲの尻尾は切れるとか、三丁目のおじさんの家に行くと、運が良ければ鰻のぶつ切りがもらえるとか。他にも、お友達がたくさんできたり、自分でネズミを捕まえられるようにもなったりもした。私が幸せそうな顔をするとキチくんは「外っていいだろー」と決まって私に言うのだった。
しかし、回数を重ねるごとに、キチくんとのデート中でも主人のことを忘れられなくなった。常に主人への罪悪感が私に付き纏い、いつしかキチくんと一緒に居てもヒリヒリと胸が痛くなることが増えて行った。今までは、
パイン・パイン・パイン・ペイン・パイン・パイン・パイン・ペイン
くらいの周期だったのに、今では、
ペイン・パイン・ペイン
くらいの周期だ。あの甘酸っぱいパイナップルの香りが一か月、三ヶ月、半年と経つにつれて、だんだんと遠のいていくような気がした。キチくんと一緒にいすぎたのかもしれない。あのパイナップルを食べすぎた後のような、ヒリヒリが私を襲うのだ。
主人が誰かと電話で話している。目からはポロポロと涙を流していた。私は主人に駆け寄る。いつもなら私を抱き上げ、頭を撫でたり、チロチロで、遊んでくれたりするのだが、今日は何も反応しない。
本棚に登り外を見るとキチくんが手招きをしていた。今日は主人が家にいるし、主人の様子もおかしいので、「今日はごめんね」と断った。
夜になり、主人が私にカリカリを運んでくる。心配そうに主人を見上げると、主人は私を抱き、静かな声でこう言った。
「母さんが死んだらしい。明日から北海道に行ってくるから、お隣さんと仲良くするんだよ」
母さんとは、主人の元奥さんのことだ。主人は小さな声でそういうと、キャリーバッグに喪服を詰め込んだ。
翌朝目が覚めると、ワーゲンバスはもうなく、隣の家のおばさんがソファに座って朝のニュースを見ていた。
「あら、リリちゃんおはよう。今日から三日間私が面倒見るからねぇ」
おばさんは優しく語りかけながら頭を撫でてくれた。いい人そうでひとまずは安心した。
しかし、一つ問題点がある。それは、おばさんが全く家を留守にしないということだ。そうなると、キチくんとデートに行けない。しかも残念なことに、おばさんが来た初日と二日目両方、キチくんが私のことをデートに誘いに来たのだ。二日連続で断ると、とんでもないヒリヒリが私を襲った。
おばさんが来て三日目。夜になれば主人が帰ってくる。そうすれば明日からまたデートに行ける。今日、キチくんが来たら明日行こうと伝えると決め、おばさんとチロチロで遊んだ。
午後三時。おばさんは文庫本読みながらうたた寝している。キチくんが来ないかと、本棚の上にのぼると、一匹の知らない大きな灰色のやつがトマトの前をうろうろしている。すると、そこにキチくんが来たのだ。
「キチくん!」
私はそう叫ぶがキチくんは全くこちらに目をやらない。なんだか様子がおかしい。キチくんは、ゆっくりと灰色のヤツに近づく。お互いりんご三つ分くらいの距離で対峙した。低い喚き声。逆立つ毛。いつも癖のないキチくんの毛もすべて坂立っている。目は充血し、牙も剥き出しになり、前足の爪が露わになっている。
と、次の瞬間、灰色のやつがキチくんに飛びかかったのだ。キチくんもたまらず反撃する。しかし、キチくんの反撃は全く効かない。キチくんの首元から赤い血が噴き出る。
「やめて!」
私の大きな鳴き声におばさんが起きる。
「あらあら、ねこが喧嘩してるよ。ほら、頑張れー。勝った方には魚肉ソーセージでもあげようか」
「そんなこと言ってないで止めてよ!キチくんが死んじゃうよ!」
そんなこと言っても私の言うことなどおばさんには通じない。
次の瞬間、灰色のやつの左手の爪がキチくんの右脚の付け根から左顎の下の辺りまで袈裟のように切り裂いた。噴き出る大量の血。キチくんは静かにその場に倒れた。トマトの取り合いにキチくんは敗れたのだ。
「あら、灰色のやつ強いねえ。ほらソーセージだよ」
ドアが開いた瞬間、キチくんの血の匂いが私の鼻を突く。その匂いは、パイナップルのヒリヒリなんかじゃない。ドライバーで何回も胸の中を抉られるような、そんな痛みとなって私の胸を刻んだ。
すっかり日が暮れた頃、主人が帰ってきた。
「母さん、安らかな顔してたよ。リリがいなかったら耐えられなかったなあ。あ、そうだ、庭のパイナップル食べ頃だろう」
そう言って、久しぶりの主人との夕飯には食卓にパイナップルが並べられた。丁度一年前のパイナップルの収穫の時期に初めてキチくんと出会ったのを思い出した。その甘酸っぱい香りはキチくんとの思い出を、鮮明に蘇らせた。
その日の夜、キチくんとまたデートに行く夢を見た。幸せで溢れていた。幸せの過剰摂取でまた胸がヒリヒリした。
ありがとう、キチくん……。
ペイン・パイン・ペイン 舞寺文樹 @maidera
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