ジジババだって恋がしたい

フー・クロウ

第1話 ジジババだって恋がしたい


 独り身貫き、七十五年。

 共に青春時代を過ごした犬も旅立ち、五十年。

 中年時代から趣味で嗜んだ盆栽も枯れ果て、十年。


 そして、人生の終着点の方が近くなってしまった爺には到底似合わぬ想いを抱えてしまい――


「あら、シゲさん。こんにちは」

「やあ、花江さん! ぐ、偶然ですね!」

「偶然も何も、ほぼ毎日この公園でお会いするじゃないですか?」

「そ、それもそうですね! ははっ……」


 ――早一年である。

 それにしても恥ずかしい。これでは思春期を迎えた男子中学生と振る舞いが一緒ではないか。


 単刀直入に言おう。私、繁蔵は恋をしている。

 この感情は、晴れて後期高齢者となった老いぼれの勘違いなどではない。とうの昔に枯れてしまった心は、確かにまた花を咲かしている。

 胸が高鳴り、思考の大半を埋め尽くし、相手の一挙手一投足に彩りを感じてしまう。

 

 断じてボケてなどいない。老いぼれの戯言などでもない。

 この花を恋心と呼ばずに、なんと呼ぶというのか。




 ◇◆◇◆


 運動公園中央にある広場区域の端に、ひっそりと設置されている屋根つきベンチがある。

 そのベンチに腰掛け、広場で賑わう子供達の声をスパイスにしながら読書をするこちらの女性は、名を花江さんという。

 顔のシワや白髪の髪を見るに、恐らく私とそう年は変わらない。しかし、シャキッと伸びた背筋やシワがありつつも元来の美しさが保たれている顔立ちから、美形とも言える綺麗な婆さんだ。



 一年程前、私は健康の為にと運動公園へふらりと散歩に出かけた。

 亡くしてしまった犬と何度も歩いた散歩コースに懐かしさを感じながら歩いていると、ベンチで読書に勤しむ老年の女性が目に入った。

 初めは"小綺麗な婆さんがいるもんだな"程度の感想しか持たなかったが、不思議と目を惹かれたのを覚えている。

 そして、私がその散歩を日課にすると共に花江さんとは何度も出会うようになった。


 明くる日も明くる日も、彼女は同じ公園の同じベンチに座り読書をしていた。

 私はいつの間にか健康の為などという目的はとうに忘れ、彼女を一目見る為に歩き続けていた。

 今思えば、初めて瞳に彼女を映したあの瞬間から心に蕾が生じていたのだろう。


 一か月ほどそんな下心を抱えた散歩を続けたある日のこと。いつも通り公園内を歩き周り彼女を横目にベンチ前を通り過ぎた時、本から顔をあげた彼女と目があった。

 横目でチラチラと見ていたのがバレたのかと焦る私に、彼女は少し緊張した様子の中、必死に笑顔を作り声を発した。


「今日もお散歩ですか? 毎日精が出ますね」


 衝撃だった。

 透き通るような声質、私の全てを吸い込むような綺麗な瞳。本当にこの世界の存在なのかと疑う程の神秘性さえも感じた。

 そして、彼女の魅力を注ぎ込まれた私の蕾は完璧に開花したのである。



 その後必死に何かを話した記憶はあるものの、家に帰ってきた私の頭は内容を全く覚えていなかった。私はひたすらに高揚していたのだろう。

 しかし、それと同時にそんな自分に対してある感情を抱いてしまった。



 ――嫌悪感―― である。



 このような歳になり、年甲斐もなく異性に心を躍らせるなんて恥ずかしい。

 もし誰かに知られてしまったら……ましてや、彼女に伝わってしまったらどう思われるのだろう。

 

 困るだろうか。気持ち悪がられるだろうか。何より彼女の悲しむ顔なんて、絶対に見たくはない。

 

 それでも、私は翌日以降も公園へ行く事をやめることはできなかった。

 何も特別な関係に至る必要なんてない。顔見知り程度でもいいじゃないか。

 そう自分に言い聞かせながら、散歩という名目の元彼女との逢瀬を重ねた。

 1日に話す時間は挨拶まがいの短時間であったが、それを繰り返す内にいつの間にやら一年が経ってしまったのである。


 ただ、これ以上は何も望まない。

 この気持ちは誰にも話さず、誰にも悟られず、墓場まで持ち込むつもりだ。

 


 ◇◆◇◆




「……そういえば、シゲさん知っていますか? この公園、近く改修工事に入るみたいですよ。ここら辺なんかは閉鎖箇所になって、大きく変えるみたいです」

「えっ!? そ、そうなんですか! そんな話初めて知りました……」

「シゲさんの散歩コースも変更しないといけませんね。この屋根つきベンチもなくなるのでしょうか。そうなると私も――」


 その話しを聞くと共に、彼女の声が段々と遠くなる。改修工事? 閉鎖? 

 私は衝撃の事実に目を回していた。

 

 今までは彼女と会うのに、約束や待ち合わせなど必要はなかった。ここに来れば彼女は当たり前のようにベンチに座り読書をしていて、通りかかった私が話しかける。

 そんな必然の成り行きが起きるのは、この場所が存在することが大前提だった。

 

 では、それがなくなったらどうなるというのか。答えは単純だ。

 

 花江さんとは会えなくなる。


 そのワードが頭によぎると共に、私の細胞が足掻くかのように燃えたぎるのを感じた。

 今まで抱えてきた懸念など無視しろと胸の中心から命令が下り、私は気づくと声をあげていた。


「花江さんっ!」

「わっ、ビックリした! ……急にどうしました?」

「あの……私はもっと花江さんと仲良くなりたいと思っていまして! ち、近くに美味しいコーヒーが飲める喫茶店があるんですけど……今から、一緒に行きませんかっ!?」


 ……誘ってしまった。

 私は彼女の反応を見るのが怖くなり、情けなく顔を俯かせる。

 今どのような表情を浮かべているのだろうか。驚きか。困惑か。嫌悪か。

 妙な間の空き方にネガティブなイメージが頭に沸くと共に、彼女の声が私の耳に入ってきた。


「……ごめんなさい。私……私は、行けないんです」


 その声が震えていることに気づいた私は、即座に顔をあげる。

 彼女は泣いていた。困ったように、申し訳なさそうに、瞳から涙をこぼしていた。


 やってしまった。あんなにも何度も自分に言い聞かせていたのに。

 こんな顔を真っ赤にした爺さんから告白まがいのお誘いをされて、嬉しい訳がないじゃな

いか。この空気ではもう誤魔化しなどはききやしない。

 私は、誠心誠意謝り、潔く身をひくことを即座に決断した。


「シゲさん……あの、私――」

「すいませんでした! 花江さんの気持ちも考えず、本当に申し訳ない! あの、明日からは来ませんので……安心して下さい。では、失礼します……」


 私は、彼女に背を向け逃げるように早足で歩き出す。

 もう私の頭はまともに回っておらず、ただひたすらに彼女の泣き顔だけが頭にこびりついていた。


 離れゆくと共に後ろから彼女の声が少し聞こえた気がしたが、きっと別れの言葉だろう。

 その証拠に彼女が追いかけてくることはなかった。






◇◆◇◆



 なぜ、私はここにいるのでしょう。

 なぜ、私はここにいなければいけないのでしょう。

 理由も意義もないのに存在することが、こんなにも寂しいことだとは思いませんでした。

 

 誰も私を見てくれない。

 誰も私の声を聞いてくれない。

 他者がいて初めて自分というものを感じられるのに、世界で一人ぼっちの私は自分が何者なのかもわからなかったのです。


 ただ、そんな私を見つけてくれた人がいました。

 その人はとても優しく、何よりも私のことを感じてくれました。

 何も思い出せなくても、帰る場所がなくても、あなたが毎日会いにきてくれることが私の存在する理由になれたのです。


 そして、それと同時に特別な感情が芽生えていたことも自覚しています。


 それでも、この感情は絶対に伝えてはいけない。知られてはならない。

 実る、実らないの問題ではないから。

 だって、私は――



 ◇◆◇◆





 あの日から、一ヶ月が経った。

 あれからは一度もあの公園には訪れていないが、風の噂で改修工事はすでに始まっていることを知った。

 これで、私と彼女を繋いでいたものがなくなった。黒い感情が私の心に覆い被さると共に、どこか安堵している自分にも気づく。

 もしまた心が暴走を起こしても、足を運ばせる場所はなくなったのだ。同じ過ちを冒す心配はない。

 あとは時間の流れを頼りに、この咲いてしまった花が枯れるのを待っていよう。



 そんなある日、近場の店に買い物へ向かう途中、見たことがある高学年程の小学生二人が前から歩いてきた。


 その二人は私を認識すると、一人は顔をしかめ、一人はバカにしたような顔で笑みを浮かべ

る。

 どちらにしても明らかに私のことを知っている反応だ。どこで見たことがあったのかと記憶を巡らせると、あの公園でよく遊んでいた子供達であることに気づいた。

 

 その二人とすれ違うと、背後から声が聞こえきた。


「久しぶりに見たなー、ボケ爺さん」

「なっ? 急に来なくなったから逝っちまったのかと思ってたわ、俺」

「頭はボケてるけど、身体は相変わらず元気そうだなー」


 ……なんという言われようか。

 たかが子供の悪口だとしても、失礼が過ぎる。私は振り返り、二人を呼び止めた。


「君たち! 私に聞こえるような声で言っていい内容ではないだろう! そもそも、私はボケてなどいないっ!」


 私の声に反応した小学生達は、意外そうな顔をして振り返る。


「なんだよ、思ったより普通の反応じゃん。もっとおかしいのかと思った」

「いやいや、おかしいだろ。ベンチに座って、毎日一人でブツブツ言ってるような爺さんだぜ」


 特に悪びれるような様子はなく、二人は話を進めている。言っている意味がよくわからず、私は少しトーンをおさえつつ問いかけた。


「……どういう意味かね? 私はちゃんと人と話していたはずだ。毎日のようにベンチに座って読書する婆さんがいただろう?」

「婆さん……?」


 小学生二人は顔を見合わせて、不思議そうな顔を浮かべている。


「婆さんなんか見たことないよ。あのベンチにいたのはいつも爺さん一人だったじゃないか。しかも、誰もいないのに一人で喋ってさ。俺らボケてんだと思って、近寄らなかったんだよ」

「そんな、バカな。……冗談だろう?」

「冗談なんかじゃないよ。他にもあそこで遊んでる友達沢山いたけど、あんた一人で喋ってるボケ爺さんで有名だぜ!」


 とても信じられないが、二人が怒られるのを逃れる為に嘘をついているようには見えなかった。

 ただ、そうだとしたら私が見えていた人は……恋をしていた人はなんだというのか。

 

 幻覚? 本当にボケてしまっていたのか?


 混乱する頭を整理しようと記憶を辿る。彼女との会話を思い出していくと共に、ある言葉が引っかかった。



  "私……私は、《行けない》んです"



 特に深い意味はないのかもしれない。

 ただ、その言葉の意味がそのまま示されているのだとしたら。そして、私が正常であるとしたら、一つの推測が浮かび上がる。


 今までの全てが繋がった気がして、気がつくと私は公園に向かって走り出していた。

 彼女は不自然な程に、いつだってあの場所にいた。あそこにしかいなかった。


 ……あそこにしか、いれなかった?


 老体に鞭を打ち、公園までの道のりを駆けていく。彼女の話しによると、広場区域は閉鎖になり大きく変わると話していた。

 あのベンチさえも取り壊されていたとしたら……



 肺に痛みを感じ、息切れを起こしながらも無事に公園入り口にたどり着く。胸がざわめくのを感じたが、私の頭には足を止める選択肢などなかった。

 そのまま目的地へ走っていくと、立ち入り禁止の看板とロープが張られていた。今日は工事日程ではないのか作業をしている様子はないが、ここからは閉鎖区域のようだ。

 そんなことはお構いなしに、私はロープを乗り越え進んでいく。


 視界に入る景色はだいぶ変わっていた。

 馴染みのある園路が掘り起こされているだけでなく、あったはずのベンチもいくつかすでに取り壊されていることに気づいた。

 

  (大丈夫だ……きっと大丈夫……)


 そう自分に言い聞かしながらも、胸のざわめきは止まらなかった。

 そして目的の場所が見えて来ると共に、私の嫌な予感は現実となって目の前に広がった。


「そんな……」


 彼女がいつも座っていた屋根つきベンチは取り壊されていて、跡形もなく撤収されていた。

 そして、いつもそこにいた彼女の姿はどこにも見えなかった。


 勿論、私の推測が真実だとは限らない。ただ、もし当たっていたとしたら……

 最悪の結末が頭をよぎると共に、疲れ果て限界を超えていた身体の力が抜け、私はしゃがみこんだ。


「……なぜ、ちゃんと言わなかった。なぜ、彼女の話を聞こうとしなかった。花江さん、もう一度だけ……もう一度だけでいいから……」


 私の瞳に水滴が溜まる。その時、透き通った声が背後から響いた。


「シゲさん」


 聞き慣れた声に、私は瞬時に振り向く。


「花江……さん?」

「来てくれたんですね。もう会えないと思っていました」


 彼女の姿が目に映ると共に様々な感情が胸を取り巻くが、何より彼女とまた会えたことに心の底から安堵する。

 しかし、私はすぐに彼女に起きている異変に気づいた。


「花江さん……身体が……」

「……透けてきちゃってますね。ははっ、これじゃ私が何者なのかバレちゃいますね」

「そ、そんな事はどうでもいいんです! あなたがどんな存在だって――」

「シゲさん、聞いて下さい」


 彼女は、俯きながらも力強く声を発した。


「私、ずっと謝りたかったんです。もっと早くに伝えていれば、シゲさんを傷つけることなんてなかったのに」

「そんなっ、謝る必要なんて……」

「あります。傷つけてしまっただけでなく、私はシゲさんがまわりからどう見られていたかも知っていました。それでも、打ち明けてしまったらもう会いに来てくれなくなるのではと怖くて黙っていたんです。シゲさんはこんなにも優しいのに、私は自分勝手で……」


 そう話しながら、彼女の身体はどんどんと透けていき実体がなくなっていく。時間がないのは明白だった。

 私は、首を横にふりながら彼女の瞳をまっすぐに見つめる。


「花江さん、私はあなたに感謝してるぐらいなんです。枯れ果ててしまった老いぼれがこんな感情を持てたのは奇跡です。それも、全てあなたのおかげ……あなたが存在してくれたからなんです」

「シゲさん……」

「花江さん。私は、あなたのことが――」


 その瞬間、彼女は私の言葉を遮るように唇を重ねた。

 温もりも、感触もなかった。それでも、彼女の唇から言葉より確かな感情が伝わってきた。

 彼女はゆっくりと、私の目を見つめながら唇を離す。


「せっかくここまでお互い秘密にしてきたんです。続きの言葉は、シゲさんが天寿を全うした時にゆっくり聞かせて下さい」

「ま、待って下さい! 花江さんっ!」

「今度こそ、あっちの世界で美味しいコーヒーを一緒に飲める事を楽しみにしていますね。また、会いましょう」


 そう言い残し、彼女は精一杯の笑顔を見せて私の目の前から煙のようにスッと消えてしまった。


 私は茫然としながら、空を見上げる。ただ、涙は出なかった。悲しいとも思わなかった。

 私は胸に手を添えながら、この恋花を空まで枯らさずに持っていこうと誓いながら呟いた。


「大好きです」



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