第5話ただいま、千尋の国ゾアン①

 獣人達の住まう千尋の国ゾアンは、大陸の北に位置する広大な森だった。森を二分するように流れるのはツィウェル川。中央に天高くそびえ立つのは世界樹。その根元に獣王の城はあった。

「それで、おめおめと逃げ出したと」

 経緯を聞いたファルサーミは額に手を当てた。

 長身痩躯の青年。尻尾さえなければ人間と変わらない姿だった。鹿族の獣人であるファルサーミは苦み走った顔をしかめて、数段上の玉座に座るアスラを見上げる。

「逃げ出したんじゃない。結婚はできないと断って、急いで帰ってきたんだ」

「理由は説明されたのですか?」

 優しく訊ねたのは、これまた獣人。ファルサーミとは対照的に繊細かつ可憐な顔立ちをした少女だった。アスラの傍らに立つ少女は慈愛に満ちた眼差しを向けた。

 アスラは素直に首を横に振った。

「まあ、それではラント王子はさぞかし不思議に思われていることでしょう」

 菖蒲は先代の獣王の寵姫だ。本来ならば王が代替わりした時点で役目からは解放されるのだが、幼い頃から見守ってきたアスラを案じて城に残ってくれている。

「菖蒲(あやめ)、問題はそこではない」

 ファルサーミは苛立たしげに言った。

「いいえ、断るのなら理由を申し上げるべきです。人間とはいえ、アスラ様から求婚され、相手の方も同意したのですから。それが誠意というものです」

「なんて言うのさ。引きこもりで奥ゆかしい獣人だと思って求婚したけど、人間なら話は別だからやっぱやめるって?」

「多少言葉を選ぶ必要はありますが、概ねそうですね」

 冗談だとアスラは思いたかった。しかし菖蒲は真面目な顔で肯定した。

「曖昧な態度がいけないのです。これではラント王子もあきらめるにあきらめきれないでしょう」

「人間のことなんぞどうでもいい」 

 ファルサーミは吐き捨てた。彼もまた、格闘の指南役として幼い頃からアスラを育ててきた。他の獣人達がいる前では立場を弁えて発言を控えているが、こうして三人だけになると容赦なく小言が飛んでくる。

「問題はお前の行動だ。当初の目的を果たす前に、火急の用があるわけでもないのに帰還したというわけか、我らの王は」ファルサーミは冷笑した「なんとも勇ましい獣王陛下だ」

「別に怖気づいたわけじゃないぞ」

「当たり前だ。人間ごときに恐れをなすような者など王であってたまるか!」

 ファルサーミの一喝に、アスラはあるはずのない尻尾が張った気がした。

「わ、悪かったよ……」 

「ファルサーミ、言葉が過ぎますわ」

 やんわりと菖蒲がたしなめた。

「しかしこれは由々しき事態です。アスラ様が獣王となられて早二ヶ月、一向に『つがい』が見つからないなんて……これでは正式な獣王として認められません」

「ファルサーミが変なのばっかり挙げてくるからだろ」

「お前が色々注文を付けてくるからだ。『背は自分より高い方がいい』はまだしも、優しくて紳士的でロマンチストで、そこそこ強くて裁縫が得意な自立した容姿端麗な猫系の金髪獣人なんて、千尋の森中を探してもおらんわ! だいたい、お前は狼族のくせに何故猫系にこだわるんだ」

「個人の趣味にケチつけるなよ。どんなのがいいかって訊いたのはファルサーミだぞ」

 アスラとしては半獣の自分と添い遂げてくれるのなら贅沢を言うつもりはない。あくまでも『希望』なのだ。

「アスラ様、それはさすがに無理があるのでは?」

「だから自分で探そうとしたんじゃないか」

「結果、妖術で姿を変えられているとも気づかずに人間を口説き落としたと」

 ファルサーミが皮肉たっぷりに傷口を抉る。アスラは小さく呻いた。思い返しても自分は間抜けなことこの上ない。

「この際、人間でもよろしいではありませんか」

「いや駄目だって。向こうは獣人嫌っているから」

 アスラが深々とため息をついたところで、配下の獣人が来客を告げに現れた。

「陛下にお目にかかりたいとのことです」

「耳の早い奴がいるものだな。誰だ」

 帰還してまだ数刻しか経っていないというのに、もう嗅ぎつけられたらしい。

「獅子族の長、」

「セザ様が戻られたのですか?」

 珍しく菖蒲が公式の場で口を挟む。

 獅子族の長は、先代の獣王ゼノの息子であるセザだ。彼はここより遥か西にあるカルナ山脈に遠征しているはずだった。

 伝令役の獣人はかぶりを振った。

「いいえ、族長代理のサラ様です」

「げっ」とひしゃげた声をあげたアスラをファルサーミは睨んだ。

「先代王の姉君だ。礼は尽くさねば」

「わかってるけどさ」

 アスラは天井を仰いだ。

 獣王城は堅牢な造りで装飾は、ほとんど施されていない。殺風景な城は見てくれよりも実を取る獣人族の気質を如実に表していて、アスラも好んでいる。

 だからなのだろう。先代王の姉であるサラと気が合わないのは。

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