441.もうすぐ私の役割も終わりね

 妊娠が報告され、吐き悪阻の娘の仕事を引き受ける。申し訳なさそうにしているけれど、人によって辛さは違うんだもの。謝る必要なんてないわ。


「食べられないのは辛いわね」


 眠るヴィンフリーゼの頬は、やや痩けている。悪阻の時期が早く終わるように、それを願うしかなかった。親子でも悪阻の症状が同じとは限らない。執務を終えて駆けつけた私は、やや冷たい娘の手を温めた。


「ヒルト」


 もう寝ないと明日が……そんな響きを申し訳なさそうに口にする夫を振り返り、私は小さく頷いた。握った手をそっとシーツの上に戻して、音を立てないよう部屋を出た。


 扉を閉めて、ほっと息をつく。執務に追われていた夕方、吐いて倒れたと報告されたの。焦ったけれど、急ぎの書類だけ片付けた。その間に次の報告があり、母子ともに問題なく寝ていると。自分の目で見るまで安心できなくて、書類が終わったところで駆けつけたのよ。


「女王陛下、ありがとうございます」


「今はプライベートよ。母と呼んで頂戴。パトリス」


 婿に入った青年の堅苦しい挨拶に、苦笑が浮かんだ。テオドールは大人しく控えている。口を挟む気はないみたいね。


「はい、お義母様。リゼは仕事を任せて申し訳ないと何度も」


「そうでしょうね。責任感の強い子だから。でも母である私も悪阻を代行できないし、代わりに赤子を胎内に預かることもできないわ。代われるものくらい、いくらでも預けなさい。そう伝えてくれる?」


 何度も謝っていたと告げる義息子の言葉を、語尾を重ねて奪う。瞬きしたあと、彼は穏やかな表情で頷いた。ああ、この雰囲気をヴィンフリーゼが求めたのね。走り続けた私と違う夫を選んだ。急激な変化にさらされた世界を、癒すようにゆっくり馴染ませる女王になればいい。


 何も心配は要らないわ。私の娘は立派な子を産み、育て、やがて世代は継がれていく。私の役割はもうすぐ終わるの。寂しいなんて言ってる場合ではなかった。


 腕に触れて促すテオドールに従い、私は踵を返した。時間はもう深夜に近い。夕食は食べ損ねたし、お風呂もまだ。早くしないと寝る時間がなくなるわね。


 頭を下げたパトリスに見送られ、優雅に歩いたのは昇降魔法陣に乗るまで。部屋に到着するなり、軽食を食べながらドレスを脱いだ。手際よく脱がせる夫の口にも、軽食のパンを突っ込む。どうせ食べてないんでしょう。


 入浴して一緒にベッドに入り、翌朝の仕事の手順を思い浮かべながら目を閉じた。こんな忙しい日々ももうすぐ終わり。そう思うと……名残惜しい気がするわ。不思議ね、以前は一日中眠っていられる贅沢を好んだのよ。あの頃なら、名残惜しいなんて思わなかったでしょう。


 ふわふわと意識が沈んでいく。久しぶりにいい夢が見られそうだわ。





 テオドールに起こされ、とんでもない報告に額を押さえる。新しい物語でも始まったのかしら? 騒動が起きただなんて。このタイミングで嫌ね。そう愚痴をこぼしながら、同時に幾つものルートを組み立てる。最悪のパターンと、巻き返しまで練った。


「行くわよ!」


 若い頃と同じ合図に、執事と専属医師を経験し、今は夫となったテオドールが静かに頭を下げた。


「はい、どこまでもお供します」

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