427.違和感を覚えるほど馴染んだ景色
エレオノールのいない執務室は、いつもより広く感じた。小さく息を吐いて、机に向かう。整理された書類は以前と同じ、ペンや印章も変わらない。なのに、強い違和感を覚えた。
十年近くよ。短い時間ではない。だって、私はまだ三十歳前だもの。人生の三分の一を仲間として過ごしてきた。それでも、許せないことはある。手元の書類を引き寄せ、淡々と処理した。ここで狼狽えて書類を間違えるほど、未熟ではない。
積み重ねた書類に疲れたところで、テオドールが声をかけた。
「ヒルト様、お茶の用意が出来ました」
「ありがとう」
彼の呼び方で気づいた。この部屋には二人なのね。謹慎中の宰相だけでなく、護衛もいない。顔を上げたら見える位置に立つはずの、エルフリーデの姿を目で探していた。当たり前にいるはずの人がいない。こんなに腹立たしいなんて。
「本日、ローゼンベルガー元王子殿下より、面会の申し出が入っております」
「バルシュミューデ公爵ではなく?」
「はい」
おかしなことを言い出したわ。でもテオドールは伝え聞いた通りに、私へ話しただけ。元王族の名を使ったのは、どんな意味を込めたのかしら。
はぁ……溜め息が溢れた。まさかとは思うけれど、お母様やお祖父様の罰を軽減してくれ、とか。そんな愚かな理由なら、すぐに辺境へ領地替えしてやるんだから。
「分かったわ。一時間後なら手が空くわ」
お茶に十五分、書類処理に四十分程度。ギリギリね。時間を指示して、ソファーへ移動した。テオドールは慣れた手つきで、珈琲の入ったカップを並べる。香りが強いから、珈琲はあまり淹れない。獣人のエレオノールの鼻がいいから、気を遣った結果よ。
一人で夜に仕事を処理する時は、よく飲んだわ。あの頃は非効率的な状況だった。何でもかんでも私の元へ回されたの。それを分類して、各部署の権限で決裁させた。書類は半減したのよね。お陰で、珈琲を飲む機会が減ったわ。
銀匙を回してから、ゆっくり口をつける。流れ込む苦さを味わい、残った酸味を舌の上で転がした。砂糖もミルクも不要、以前と同じ飲み方なのに、半分でカップをソーサーへ戻す。
「テオ、座って」
「はい」
テオドールは私の決断に何も言わない。注意することも、同意することもなかった。ただ従うだけ。穏やかな表情でカップに唇を寄せ、一口飲み干す。ごくりと動いた喉を凝視してしまった。
「あなたは……いえ、何でもないわ」
「私はヒルト様の影です」
それが答えだった。ふっと表情が緩む。影は本体がなければ存在しない。テオドールは私が何を選んでも従い、一緒に滅びることを選ぶのだろう。本体に意見する影なんてあり得ないから、彼はただ手助けを続けるだけ。
それを依存と表現する事もできるし、自主性がないと批判することも簡単だった。けれど、全く違う。様々な方面で私より能力の高い彼が、己で決断する権利を放棄した。生殺与奪権を私に預けたの。ならば、信頼に応えなければならない。
「そういえば、大切な報告がひとつ漏れているわよ」
「ご報告しても?」
「ええ。今夜聞いてあげるわ」
これから大急ぎで仕事を片付けて、お兄様の思惑を探って、子ども達と食事をする……その後でね。
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