216.もう狩りは始まっているのよ

 ニクラスは舌打ちしかけて飲み込み、愛想笑いを向けたが失敗した。驚くほど貴族としての質が低いわ。作った笑みで取り繕うこともできず、感情を素直に表情に出すなんて。


 扇を広げた裏でも、私の笑顔は微動だにしない。王侯貴族として社交を行うなら、己の感情と表情くらいコントロールできなくちゃね。威張り散らすだけの愚者なんて、他の貴族の餌にしかならないわ。


「一度出直しします」


 ニクラスは言葉を残して踵を返す。撤退を選んだ決断は間違っていなかった。だけどね、わざわざ噛み付いた獲物を放す肉食獣はいないのよ? すでに狩りは始まったの。


「待ちなさい。私の言葉の意味を理解できなかったのかしら」


 呆れたと声に滲ませる。わざと溜め息まで吐いてみせた。引き攣った笑顔で振り返った彼の逃げ道を、予定通りに塞いで行く。キルヒナー公爵令息がシャンパン片手に近づいた。


「素敵な刺繍ね、私の色かしら」


「もちろんです。あなた様を引き立てるための衣装ですが、お気に召しましたか? 麗しのローゼンミュラー王太女殿下にご挨拶申し上げます」


 私が向けた言葉に、優雅な一礼を加えてハインリッヒが応じた。これが合図となり、仕掛けが動き出す。


「僕はこれで」


 なんとしても離れて態勢を立て直そうと試みるが、ハインリッヒが上品な攻撃を仕掛けた。


「ハーゲンドルフ伯爵家は、随分と余裕がおありのようだ。見事なダイアモンドですね」


 遠回しに、領地の民が飢えているのに余裕だな。えらく大きな宝石じゃないか。嫌味を向けられたが、ニクラスは裏を読めない。


「いえ、それほどの物では。公爵家ほどの財力はございませんので」


 言葉は丁寧だが、的外れな返答だ。貴族の当主同士なら失笑を買うレベルだった。それをハインリッヒは穏やかに受ける。


「ご謙遜はいけませんよ。それより、先ほど王太女殿下が気になることを口にされましたね」


「ハインリッヒなら理解できるわね。テオドール、教えてあげなさい」


 二人の名を強調するように口にした。ニクラスを呼ばないけれど、この二人の名は呼ぶ。その意味を彼が理解できるなら、少なくとも実家は助かるわね。無理だとわかってるから、ここで仕掛けるんだけど。


「キルヒナー小公爵ハインリッヒ様、お久しぶりでございます」


 公爵家嫡男に対し、テオドールは丁寧に挨拶を行う。応じるハインリッヒは、ゆったりと一礼した。


「ワイエルシュタット子爵殿におかれては、ご活躍のようで何よりです」


 まるで格下のように振る舞うハインリッヒを、驚いた顔のニクラスが見つめる。目を見開く彼の中で、貴族の序列がどう理解されていたのか。はっきりとわかる場面ね。


「先ほどの言葉をそのまま、お伝えいたします。一番爵位が低いのに、王太女殿下へ取り入るのは一番早いのか――と」


「まさかっ! そのように愚かなことを? ハーゲンドルフ伯爵家は、爵位を返上するおつもりか」


「え、なぜ」


 全く理解できない男を、大袈裟に驚いた顔を作ったハインリッヒは上から下まで舐めるように見つめた。やだ、彼ったら役者の素質がありそうね。扇をパチンと畳んで、私は自ら説明を始めた。


「王族に取り入るのが一番早いと言ったけれど、私が簡単に取り入ることの可能な能無しと罵ったのよ。気づいていなかったの? テオドールへの嫌味ではなく、王太女である私への侮辱だわ」


 青ざめたニクラスに、私は畳んだ扇で指し示す仕草を見せた。一般的には行わない無礼だけど、今回はされて当然よ。


「そのようなつもりはっ!」


「どんなつもりだったか、関係ないの。社交は一言のミスで家が終わるのよ。ただの宝石自慢やお世辞の世界じゃないわ。あなたには無理ね」


 王配に向かない。ぴしゃんと言い放ち、残りをハインリッヒとテオドールに任せた。私があまり前面に出て対決すると、貴族派が壊れてしまう。彼らは必要悪として利用する予定なのよ。絶滅されたら困るわ。程よく王族派と睨み合ってくれなくちゃね。

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