慕 情

さがむそら

慕 情

「放課後ちょっと話があるんだけど、プール脇で待っててくれない?」

 急に声をかけてくるものだから、私はびっくりして思わず首を縦に何度も振ってしまった。中学二年生として迎える体育祭も間近に迫った、曇天の午前中。休み時間のわずかな時間に、あなたは自分のクラスから窓際にある私の席まで滑り込んできて、ぼそっと一言だけ。

「じゃあ、後で」

そう言い残すと、風のように教室の外に消えていった。耳ざとく聞きつけたクラスメイト達から好奇の目を向けられているのに、わざと気づかないふりをしてガラス越しの校庭に目を落とす。

「まあ、そういうことじゃないよね」

若干混乱した頭を整理するように、独り言を呟いてみても、唐突にはじまった胸の動悸はおさまらなかった。


 私たちが通う中学校の体育祭には、ちょっとした非公式の慣習がある。「バンダナ交換」は、学年縦割り組対抗の優勝が決まって全員で片づけをした後に、示しあわせた男子と女子がお互いのバンダナを交換するという、よくあるイベントだ。だけどそこに友情なのか、恋愛感情なのか、いずれにせよお互いの想いを交感するのだから、片田舎の中学生にとっては十分すぎるほど切実で、悩ましい話であることは間違いない。



 幼稚園に入る前からの腐れ縁。親同士が同じ職業だから、何かの催しに参加すると必ず顔を合わせる。幼稚園、小学校まで同じとなれば、自然に話くらいはするようになる。最初の印象は、まさに「本の虫」だった。私の好きだった児童文学を全部読破していて、セリフまでおぼえていたのにはびっくりした。家にある本はすべて読んでしまって、図書館の本を読破中って本当に? そのわりには野球やらサッカーやら、体育の時間や放課後には駆けずり回っていて、すごく楽しそうだった。左利きのちょっと癖のあるフォームが特徴的で、遠目にみていてもすぐに誰だかわかる後ろ姿だったのをおぼえている。

 うちの小学校は2年に1回、クラス替えが行われる。1年生と2年生は同じクラスだったけれど、3年生でクラス替えがあって以来、しばらくしゃべる機会はなかった。今思えばいつのまにか、かつて両親と来ていた催しでも姿をみなくなっていた。

他の女子がグループを作ってやいのやいのやっているのを横目に、私は静かに机に向かって好きな児童文学を書くことに没頭していた。急激に大人になっていく体とどこか夢を見ていたい心の折り合いがつかなくて、毎日が飛ぶように過ぎていく。周りを見回すような余裕がなかった。

 私の中の嵐が気にならない程度の微風になったころ、5年生のクラス替えがやってきて、あなたとまた同じクラスになった。でも以前とは様子がまるで違う。授業になると豹変する態度に、私はあいた口がふさがらなかった。いざ口を開くと、小学生らしからぬ幅広い知識を論拠にした正論による圧殺。うちの学校の特色としてカリキュラムにディベートが多いとはいえ、ときに教員すら黙らせてしまう圧倒的な弁舌は、授業そのものを破壊してしまうことも多かった。

「あいつは異質」

皆がいうように、私とは違う世界にいっちゃったのかな、と漠然と思うだけだった。そう、あの話を聞くまでは。

 小学校卒業も間近に迫った、ある寒い日の夜半。酔った父から不意にこぼれ落ちた話の滴。あなたのお母さんが心の病で倒れて入院し、それが長期になりそうなこと。しつけと称して拘束され、ときには暴行を受け、幼いころから縛られてきた心と体。あまりにも過酷な日々は、それを課していた人とともに唐突に消失した。残されたのは果たすべき責務と、報告する相手のいない約束。確かにひどく悲しい顔をして、とぼとぼと通学路を歩いている姿を、私は時折目撃していた。

あらゆる意味で幼かった私は一晩思い悩んだ末で、決めた。

「幼馴染なんだから、話をしてみよう」


 最初は私のほうがずっと背が高かったはずなのに、いつのまにか追い抜かされていて、話すときには自然と見上げなければならなくなっていた。声もテノールあたりに落ち着いていて、子どもの頃の印象とは大きなギャップがある。それでもあなたは昔の面影を残した笑顔で、私の問いかけに応えてくれた。

「大丈夫。親父が看てくれているし、なんとかなるよ。お父さんにもご無沙汰しております、って伝えておいてよ」

背格好だけじゃなく立ち居振る舞いまで大人びているようで、子供っぽい自分に恥ずかしくなってしまう。

でもなんだか、幼かった在りし日と今この瞬間がつながったような懐かしい気持ちに、じんわり胸のあたりが暖かくなった。

ぽつりぽつりと昔話をしているうちに、いつの間にか文学の話になり、私は赤面しているであろう顔を隠すようにうつむきながら、今書いている短編について語ってしまった。そうしたらあなたは

「今度読んでみたいな」

とにこにこしながらそう言った。

激しい羞恥と後悔と、そしてほんのちょっとの喜びと期待が混ぜこぜになったまま、私は小さく

「内緒にしてくれるなら、今度ね」

と返すので精いっぱいだった。

「言っとくけど、あなたがこれまで読んできた本と比べるのはやめてよね」

と釘をさしたら、

「ふふ、楽しみだね」

なんて言うものだから、私は我を忘れて、バシバシとあなたの肩をひっぱたくと、本当にうれしそうな笑顔をみせてくれて、今度はぼっと胸が熱くなった。


 隠すように短編の草稿を渡した私は、後日返された原稿を見て、思わず叫び声をあげそうになった。誤字、脱字、用法間違いをご丁寧にも洗いざらい赤で校正してくれたのは、私が悪いんだからいいのだけど、、、そうじゃない!

「すごくおもしろかったよ」

というあなたの言葉が、嫌みなのか本当なのかわからないまま、頭のなかがぐちゃぐちゃになってしまった私は

「面白かったって言うならまた読んでくれるのよね!?」

とやけになって叫ぶと、今度はいたずらに成功した子供のように、何も言わないまま、にかっと笑ってみせた。


 そうやって何回かやり取りをしているうちに、私の物語は「私たち」の物語に変わっていった。小さな、でもずっと胸の奥にしまっておきたいような輝きを内包するストーリー。私はあなたに背中を押されるように、小さな児童文学賞にその作品を応募した。選考の結果、佳作に引っかかったことを知ったあなたは、自分のことのように喜んでくれた。


 授業中のあなたと、一人で考え込んでいる時のあなたと、私と文学の話をしているあなた。幾重にも重なりそうでずれた線が、不安定にぼやけた輪郭を形作っている。そんなあなたから、いつしか目が離せなくなっていた。


 小中一貫校の私たちは当然のように同じ中学に進学して、一番したっぱからのやり直し。またクラスが違ってしまったので、詳しいことはわからなかったけれど、授業中は相変わらずの態度らしい。でも成績は、常にトップで貼りだされていた。あなたは良くも悪くもいつも通りで、本人にそのつもりはないのに、突き抜けて目立っていた。一人だけみんなとは違う遥か遠くを見つめているようだ、と噂される。

「本当はそんなんじゃないのに」

私は憤慨するしかなかった。



 午後には天気が回復し、夕暮れに染まる部室棟をぼぅっとながめながら、少し遠くからエコーがかかって聞こえてくるLet it beの音色に耳を傾けていた。下校をうながすビートルズの旋律は、オレンジ色に染まる情景と相まってどこか物悲しく、そして途方もなく美しかった。部活を終えた数人の後輩たちの影も長くのびていき、彼女たちの笑い声も次第に遠ざかっていく。

校舎のベンチにすわって晩春のすこしまだ肌寒い風にその身をさらしていた私は、スカートの裾を払って立ち上がった。そろそろ待ち合わせの時間が近づいていた。

しばらくすると校舎の方から小走りで近づいてくる気配があって、一瞬身構えたものの、見知ったシルエットに小さく手を振った。

「ごめんね、待たせちゃったかな」

「なんかあったの? もしかして恋の相談?」

言わなきゃいいのに、なんで早々に地雷を踏みにいくかな。すると、ひどく驚いた顔をしたあなたは、珍しく困惑した様子で

「なんでわかったの? 噂にでもなってるのかな」

と真剣なまなざしをこちらに投げてきた。

宵闇が濃くなってきたおかげで、真っ赤になっているであろう私の顔色は見えないはずだ。そんな。ほんとうに?


「単刀直入にいうけど、もうすぐ体育祭あるじゃない?終わった後に先輩たちがやってたバンダナ交換、おぼえてるでしょ」

今度は声を発することができず軽くうなずいた私は、不安と期待がないまぜになった心の手綱を握ろうと躍起になっていた。

「もし相手がまだ決まってなければ、僕と交換してくれないかな?」

本当に単刀直入すぎる。でも、告白ってそんなに深刻そうな顔してするものなの?

「それは、、、」

私のことが好きってこと? と言いかけたが言葉にならず、あなたの次の言葉を待つしかなかった。


「うちのクラスにちょっと派手めな感じで、雑誌の読モやったことあるって自慢する女の子いるの知ってる?」

「知っているけど、その子がどうしたの?」

何の話をしているんだろう。

「その子にさ、ちょっと目をつけられちゃったというか、、告白されちゃって」


そうか、そういうことね。

「僕はそういうつもりはないって伝えたんだけど、バンダナ交換だけでもしてほしいって言われたんよ」

高鳴っていた心臓はおさまり、急速に冷静さを取り戻していく。

「そこで私の出番ってわけね」

自分でも驚くほど明るい声が出て、あなたを罪悪感の迷路から出口に誘導する。

「先に声かけられちゃったって、断ったんだ」

彼女の面目をつぶさないように、ね。

「私も誰かと交換する予定はないし、いいわよ」

「ありがとう。きみしか相談できる人がいなくって」

頼ってくれたのはうれしい。でも、ショックで胸が張り裂けそうだった。

「ごめんね。勝手だったこと、わかってる。でも、僕に恋愛をする資格なんてない。今でも頭の中であの人が僕に囁くんだ。周りは全部敵だと思いなさいってね。いまだに呪われたロボットみたいなやつなんだよ」

うつむきながら自虐的に呟いた。

「そんなことないよ。あんなに本が好きで、いろんなことをよく知っていて、恥をかかせないように人にまで気を配ってるじゃない。本当にロボットだったらそもそも悩まないよ」


 今あなたがもとめているのは、相談できる友人。

自分に噓をつくのはいやだ。でも、あなたの悲しい笑顔を見るのはもっといやだ。今だけでも、あなたが頼れる良き友人になろう。私はそう、自分に言い聞かせた。

お互いの近況とか最近話題の小説について話しながら下校したはずだけど、その後の話はほとんどおぼえていない。転げ落ちた気持ちを必死で奮い立たせて笑顔で見送った後、こらえきれなくなった私は、お堀の欄干に顔を伏せて声を押し殺して泣いた。


 体育祭当日は幸いなことに好天に恵まれ、私の組は4組中2位となり、みんなで笑いながら健闘を称えあった。日も傾き始め、大道具を協力して片づけ終わった後に、独特の雰囲気が漂い始める。

「なんかこういうのってどきどきするね」

片づけが終わったあなたは、つけていた青いバンダナをほどきながらそう言って近づいてきた。

「なによ、結構楽しんでるじゃないの」

私もつけていた赤いバンダナをほどくと、ぴっと振ってのばした後でくるくるっと巻いた。初夏の陽気で汗をかいていたことに気づき、少し湿ったバンダナを渡すことに恥ずかしさをおぼえたけれど、後の祭りだ。

あなたも手元を見ながら同じようにくるっと巻いた後、おもむろにまっすぐな視線を私に投げてきた。

「どうしたの?」

急な真顔に驚いた私に

「今さらだけど交換相手が君でよかった」

表情に出しちゃだめだ。

「何言ってるのよ、ちゃっちゃと取り替えちゃいましょ」

私はあなたの胸に自分のバンダナを押し付けると、あなたのバンダナを強引に奪い取ってすっと離れた。

「あとは捨てるなり燃やすなり、好きにしてちょうだい」

にっこり笑ったあなたは

「大事にするよ」

と言って、左手を小さく掲げながら走り去った。


私はやはり少し汗で湿っているバンダナの温もりを胸に抱いて、しばらくその場に佇んでいた。薄暮の中で時折吹いてくる薫風に身をまかせていると、あれだけこだわっていたものが、霧が晴れたように消えている自分に気づいた。今この瞬間だけは、物語の結末を迎えた主人公のように胸がいっぱいになり、私は幸せだった。



 夏休みに入る前に、あなたは学校に来なくなってしまった。父の話によれば、お母さんの調子があまりよくないらしい。お見舞いに行くこともはばかられ、私たちは会えずじまいのまま夏休みに入ってしまった。

 そしてその年一番の暑さといわれた、ある夏の日。あなたのお母さんの訃報が、ひっそりと私の耳に届けられた。お葬式は密葬で既に終わっていると聞いた時、すべてを察した私の胸は、締め付けられるように痛んだ。

あなたは二度と学校に来なかった。風の噂に、遠い町に引っ越したと聞いた。あれから連絡は一度も来なかった。きっとあなたはすべて抱え込んで、今も自分を責め続けているんだろう。そして、ゴールのない迷路をすごいスピードで走っているに違いない。その苦しみを理解してあげられたらあるいは、と思うのは傲慢なのだろうか。



 ある日、中学三年で受ける春の全国模試結果をぼぅっとながめていたら、頭を割られたようなショックをおぼえた。全国6位にあなたの名前があった。私はほっとすると同時に、無性に腹が立った。でも、本人に自覚なく突き抜けて目立っているのは相変わらずで、いかにもあなたらしくて、ちょっと笑った。

私は友人にすらなれなかったのだろうか。いや、違う。私は自分の気持ちを知られるのが怖くて、歩み寄る一歩を踏み出せなかっただけだ。


あなたが止まれないなら、私が走り出すしかない。私は、苛烈なスケジュールを組んでいろいろなことをはじめた。まずはその背に追いつかなきゃ、あなたの本当の気持ちはわからないだろう。

「ここからはじめたっていいんだ。今度は私の番よ」

あなたが先に私の物語に口を出したんだから、私にだってあなたの物語を書き換える権利はあるのよね。

おせっかいと言われても、いつか隣を走れる友人になって、まずはその頬っぺたを引っ叩いてやる。

そうしたら、今度こそ私の本当の気持ちを伝えるんだ。


 石垣の上には競うように紫がかった赤色のツツジが咲き誇り、晩春を祝福しているようにみえる。晴れ渡った空に映える赤のじゅうたんに私は一瞬目を奪われたが、すぐに青いバンダナを結び付けたカバンを片手に、図書館のほうに向かう。遠く離れていても、時の流れは変わらない。その先に二人の物語が交差することを信じて、私は迷いのない歩調で再び歩みはじめた。もう、二度と振り返らないことを心に誓って。

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慕 情 さがむそら @Clarise

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