承認欲求

「ほーら、38℃超えてる。これは早退を薦めるわ安西君」


 学校の保健室。女性養護教諭である還暦間近な風貌の笠井が体温計を見てから、ベッドに寝かされている勇遂を見下げる。やはり彼は授業を受けられる体調では無かったのだ。


「春日さんも、ここまで連れてきてくれてありがとうね。倒れたせいか、安西君の腕には打ち身もあるし、熱で身体も相当しんどかったと思うの」


「いいんです。とりあえず休養だけでなんとかなるようで、安心しました……」


 春日はベッド横にある丸椅子に腰掛けてホッと一安心。寝かされている勇遂は、具合が悪いのを誤魔化せずゼエゼエと顔を上げる。流石に息苦しいので、マスクはゴミ箱にポイである。


「悪りぃな春日、ここまで付き合わせて」


「ううん、いいのいいの。無理しないで安西君」


「今、身体を冷やすもの持ってくるわね」


 笠井はアイスノンを探しに、保健室の冷凍庫をバッと開く。しかし手を伸ばしてどれに触っても解凍してふにゃふにゃしているものしかない。


「あらやだ。まだ凍ってない。朝練の運動部が今日は押し寄せてたせいかも……仕方ないわ、氷枕を作りましょう」


 アイスノンが品切れなので、笠井は氷枕を作る事にした。熱で苦しんでいる生徒がいる為、作らないわけにもいかない。棚から分厚いゴム袋を出すと、そこに水道水を注いでいく。


「春日さんごめんねぇ、この冷凍庫には製氷器がなくてね。家庭科室から貰ってくるから、もう少し保健室にいてくれるかしら?」


「はい、大丈夫です!」


「授業前なのに悪いわね、すぐ戻るから」


 そう言って笠井は急ぎ足で氷を貰いに保健室を出た。休み時間なので、校舎内は騒がしさがそこそこ壁越しに伝わってくるが、その場には勇遂と春日の二人っきりだ。


「……。安西君、まだ身体しんどい?」


「全身がだりぃんだわ、早退はラッキーだが、もうちょい寝ないと帰れそうにねぇよ」


 横になったまま両腕を後頭部に回し、いつも通りの口調だが、顔色はよくない。不良少年でも病気には勝てないのだ。


「ま、少し寝て……帰る前、高城になんら問題ねえって言ってやらねーと。あいついちいち心配し過ぎだっつうの」


 当たり前のように出てきた澪への文句。それは胸躍らせる春日の顔を、ほんの少しだけ落ち込ませた。


「安西君は……いつも澪ちゃんの事ばかりだね」


「あ? あいつはほっといたら死んじまいそうなくらいどんくせぇ女子だしな、おれなりのスパルタってやつだよ」


 勇遂は遠回しに事実を言う。隙あれば彼の口から出てくる澪の存在。春日に許された場所が狭まっていく。


「……」


「春日も高城と仲良いのは小学校ン時からずっと見てきたから分かるけどさ、あいつを甘やかすなよー」


 時間が過ぎていく。先生がそのうち保健室に戻ってきてしまう。授業開始の予鈴が鳴ったらこの世界が閉ざされてしまう。彼がまた遠のいていく。


「澪ちゃんは……褒めて伸びる子だしさ」


「はー? 人間、叩かれてこそだろ! 高城はそこら辺の耐性がまるでねぇんだ」


 春日と勇遂の二人っきり。その場の主役が澪になっていくのを、春日の承認欲求が強引に抑止した。


「安西くぅんッ! 私の話、聞いてよぉッ‼︎」


「うぉお⁉︎ ビクッた……な、なんだよ?」


「あっ……。えっと、私が言いたいのは……」


 今なら言える。時が満ちたと、一時的に訪れた沈黙が主張し、春日はその気になった。絶好の機会を掴む一言を探しているうちに、彼女の内にある恐怖と緊張がトクン、トクンと衝突し始める。それにより冷静が加熱し、焦りがぶくりと浮いてきた。


「……」

「は? 何で黙るんだよ」


 反発する感情に驚いた脈が叫び出し、熱い血を顔に巡らせ、膝上に置く両手を、そして唇を震わせ、呼吸を乱す。鼓動は過ぎる時の早さを錯覚させながら、胸の中に隠した言葉を上へ上へと押し上げる。


「あッあのね……安西君、私……私は——」


「おう、なんだ?」


 期待と絶望の予想図が、交互に春日の脳内から描かれる。見えてくるそれを、勇遂を視界に入れる事で覆い隠す。あとは言葉だけ。綺麗に届けたいのに、くしゃくしゃになっていく。しかしそこに包まれている言葉を、感情を少しずつ広げた。


「わたしッ……、私は……!」


 そして春日は——勇遂に隠す事を、やっとやめた。



「安西君の事……好き……かも……」

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