重臣の心配
レルテスは
(改革派で脇を固めたとはいえ……殿下は少し、性急にすぎる)
彼自身、今はもうこの世にいないドミトリー元宰相ら保守派から『急進派』のレッテルを貼られ、散々評議会においてその思想を糾弾された身ではあるが――そんな彼の目からしてもなお、ハンスの考えていることはかなり危ないように見えた。
(ラグーナにメスを入れるなど……)
ラグーナ港湾都市。そこに渦巻く闇は、チザーレで少しでも商業に携わる者なら聞いたことはあると言っても過言ではない。汚職、脱税、官職の売買、禁止されているはずの奴隷を用いた強制労働、禁止品目の取引――枚挙に暇がないほどの犯罪が、あの街で行われている。当代のラグーナ
前大公肝煎りの事業であったこともあり、今や伏魔殿と化したラグーナに関わろうとする人間は、怖いもの知らずの新興商人か、それか一稼ぎする場所を求めるギャングくらいなものだ。当然、チザーレの貴族の誰一人として、あの場所に手を付けることはこれからもないだろう。
だが――あのとても10代に見えないような行動力や胆力を見せる大公は、目敏くラグーナの違和感に気づき、それを確かめようと動き出した。闇が暴かれ、全てが白日の下に晒されるのなら、それに越したことはない。奴隷や密貿易で利益を上げる存在は、商人貴族であるレルテスらからしても愉快なものではない。しかし、そうなる前に、彼が亡き者になってしまっては元も子もないのである。
(止めるべきか……殿下の可能性に賭けてみるべきか……)
レルテスは悩む。先の内乱で、ハンスは大胆にも自ら囮となり、内乱の早期終結に大きな貢献をした。その前例がある。彼の言うことならば……と思う気持ちと、一人の臣下として主君に危ない橋はわたらせられないという気持ちが、せめぎ合っていた。
そんな考えを抱きながら歩いていた彼の前に、大柄な影が映る。ハッとして顔を挙げると、そこには財務卿のリーグ伯の姿があった。レルテスの姿を視認したリーグ伯は会釈をして見せ、それを見たレルテスも会釈をし返す。
「おや、これは宰相閣下。こんなところで出会うとは奇遇ですな」
「これは財務卿殿。ご無沙汰しております。珍しいですね、貴殿が財務府から出張ってくるとは」
「いえいえ、殿下に呼びつけられましてな」
「ほう」
リーグ伯は、代々財務卿を受け継ぐ一族であり、財務府は『リーグ家の別邸』とも呼ばれるほど彼の影響力が強いことで知られる。
「貴殿も耳にしたかもしれませんが、殿下が新たな行政機構の新設を考えておられる件で少しばかり厄介な提案をされましてな……そうだ、今から少し時間を頂けませんかな?」
「今、ですか。ちょうど私も今から殿下の下に向かう用事がありまして。決裁しないといけない書類もありますし……今日の晩ならば都合が付きますが」
「えぇ、構いません。先日貴殿のところの商人からイストーラ産のブドウが届きましてな、それについて謝意を述べたいと思ってたところでありますので」
「あぁ、それは良かった。では後程」
レルテスはそう言ってリーグ伯と別れ、大公の執務室に向けて再び歩き出す。程なくして、彼は大公の執務室にたどり着いた。扉をノックする。
「殿下、私です」
『宰相か、入ってくれ』
中からハンスの声が聞こえてくる。レルテスは入室の許可を得ると、ドアノブに手をかけた。
「殿下が所望されたラグーナについての書類をお持ちいたしました」
レルテスは部屋に入ると、ハンスの座っている机の前に歩み寄り、手に持っていた紙束を差し出した。ハンスはそれを受け取ると、パラパラとページを捲り、目を通す。しばらくそれを眺めた後、ハンスは口を開いた。
「ありがとう、助かった。すまない、わざわざ来てもらって。取りに行きたいのはやまやまだが、
「いえ、お気になさらず。それと殿下……」
「ん?」
「つい先ほど、リーグ伯と会いました。『少し厄介な提案をされた』と言っておりましたが……」
レルテスがそう言うと、ハンスの表情が一瞬曇った。しかし、すぐにいつもの調子に戻り、 ハンスは答えた。
「……あぁ。少し、な」
「……そうですか。では、僕はこれで失礼します」
「分かった。また何かあったら頼むよ」
「承知致しました」
レルテスは一礼すると、踵を返し、大公の部屋を後にする。廊下に出ると、歩いていたテレノに出会う。
「おや、テレノじゃないか」
「あら、兄さ……宰相閣下。ご機嫌麗しゅうございます」
「そう固くないでくれよ。最近は家でもそうじゃないか」
「……失礼します。急ぎますゆえ」
レルテスの言葉に耳を傾けることなく、彼女は足早に立ち去って行った。レルテスはその背中を見送ると、小さくため息をつく。
「……相変わらずだな」
宮廷内でもその有能さで鳴らす彼女だが、中身は年頃の乙女である。乙女心とは、何とも御し難いものか。
そんなことを考えつつ、レルテスは階段を下りるのだった。
――――――――――
「此度はお招きいただき感謝します、財務卿殿」
「いえいえお気になさらず」
場所は変わって、ここはメディオルムにある高級レストラン。そこには、レルテスとリーグ伯の姿があった。食事に手を付ける前に、レルテスは本題を切り出した。
「それで、先に申されていた『厄介な提案』とは……?」
レルテスがそう訊くと、リーグ伯の眉がピクリ、と動いた。彼はグラスに入ったワインを一口飲み、舌を潤わせると、おもむろに語りだした。
「……『農商務府の長は、平民から選んでくれ』と言われましてな」
「なっ……」
レルテスは驚愕する。彼は知る由もないが、奇しくも、その反応はまさにリーグ伯が大公に対してしたそれと全く一緒であった。リーグ伯はそんな彼の反応に頷き、続ける。
「やはり、貴殿も同じように感じましたか。正直な話、考えたこともありませんでしたからな。驚くのも無理はないでしょう」
「えぇ……殿下は如何にしてそのような提案を?」
「『農業、商業に関しては現場の意見を知るものがトップに立たなければならない』、そう仰られておりました」
「なるほど。確かにそれは理に適っている意見ですが……」
「うむ。我々が一番知るように、この国――いえ、この大陸において貴族と平民という壁は論理を優越する。殿下は聡明であられますが、その――少し理想主義的なところがありますな」
リーグ伯の言葉に、レルテスは心の底から首肯する。ハンス・エリック・フォン・ウェアルスは、紛れもなく稀に見る逸材であろう。およそ16歳に見えないほどの才覚を持つことは、誰の目にも明らかである。
(しかし……それ故に危うい。そして――あまりにも若い)
レルテスの胸中に再び不安が渦巻いていた。己の信ずる理想を無邪気に追い求めることが出来るのは、若者の特権だ。とはいえ――レルテスとてそんなことをいっちょ前に言えるほど、歳を重ねているわけではないのだが。
政治において、おのが信ずるところを持つことは大事なことだ。歴史を紐解けば、自らの意思を持たず
しかし――その信念は、ある程度現実的であることを要求される。君主の独善に陥ってはいけないのだ。信念とは、それを固持するものではない。それは融かした鉄のようなものであり、現実という型に合わせてその形を変化させていくことが求められるものなのである。その点において、ハンスはまだ現実を知らないと言わざるを得ないであろう。
「確かに……それは僕も感じていました。殿下は
「型破りな一手を思いつく、というわけですか。いやはや、あの貴族主義の権化のような帝都ーーそれも宮廷に身を置いてあのような政策を打ち出すとは」
「全くです。それで……財務卿殿は、どう返事をなされたのですか」
「宰相閣下と相談し、貴族評議会に持っていかないことには何とも言えない。そう申し上げました」
「ほう……」
レルテスは意外な気持ちを抱きつつリーグ伯の目を見据えた。国内随一の大貴族として貴族主義を信奉しているとばかり思っていたが、無碍に断ることもせず留保を付けるとは。
そんな彼の考えを読んでか、リーグ伯は弁明するように口を開いた。
「いや、当家はよく貴族主義の権化のような言われ方をすることも多いのだが、私自身はそこまで貴族という身分にはこだわっておりません。むしろ極端な貴族優遇は、国を腐らせるとすら言えるでしょう」
「意外ですね。代々財務卿を受け継ぎ、大公家に次ぐ権力財力を有するとすら言われるリーグ伯爵家の当主からそんな発言が出るとは」
「はは、宰相閣下もそう思われますか。いや、最近諸邦連盟に関して興味深い話を聞いたものでな」
「諸邦連盟?」
「ええ。当家は諸邦連盟との交易が多い故、彼の国の政治経済に関する情報がよく入ってきましてな。彼の国では、地方行政レベルですが平民の社会参加が進んでいるようなのです」
「……なんと。かの国は、帝国に負けず劣らずの貴族主義の国と聞いていましたが……」
「此度の盟主選挙で現盟主のリカルディ家が劣勢で、それを巻き返すために平民に対する官職の開放が進んでいるとか」
「あぁ、なるほど」
レルテスは合点がいったように一つ手を叩いた。シェーン諸邦連盟、他国とは一風変わった政治体制を持つことでも知られる隣国は、国家元首である『諸邦盟主』を選挙で決めるというイベントの真っ最中である。
ツェスライタニア王国・ウンガルン王冠領・ボヘミア=モラヴィア連合公国の三ヶ国が同一の盟主を戴く連合国家でもある諸邦連盟の盟主は、代々ツェスライタニア王家であるリカルディ家が務めている。が、どうやらその伝統が崩れつつあるらしい。
「……それに倣って、この機に我が国でも平民に官職をしてみるのも悪くない、そう財務卿は考えておられるわけですか」
「いや、殿下の話を聞いてみるとそれも悪くない気がしてきましてな。商人貴族の端くれとして、特定の貴族に商業に関する権限を握られるのは面白くない、というのももちろん理由にありますが」
「確かに、それは僕としても面白くはないですね」
レルテスは首肯する。商人にとって、規制は敵である。その観点からすれば、確かにハンスの提案は魅力的なものではあった。しかし――
「評議会を説得するのは、骨が折れそうですね」
「全くですな。”チザーレ五伯”のうち我々が賛成するとしても、他の3名の賛成が得られるかどうか……」
再びレルテスは頷く。『チザーレ五伯』とは、チザーレに5家存在する伯爵家のことであり、帝国との取引によって大公家以外の侯爵家以上の家格が認められない公国において最高の家格を有する大貴族のことである。
かつては目の前にいるリーグ伯が当主を務めるリーグ伯爵家、評議会議長のウェディチ伯が当主を務めるウェディチ伯爵家、チザーレ五伯唯一の地主貴族であるペーチ伯爵家、チザーレ南部のオストヴィターリ帝国弁務官区との国境地帯を守るボルジア伯爵家、そして元宰相ドミトリー伯が当主であったドミトリー伯爵家の五家が名を連ねていた。
しかし、公国の内乱を首謀した罪によって当主が処刑されたことによってドミトリー伯爵家は廃され、かろうじて遠縁のシエナ男爵家が存続を許されるのみになり、その代わりに
当然ながら彼らは大貴族であり、全員がリーグ伯のような変わり者というわけではない。評議会での議論は紛糾することが予想された。
「ま、どちらにしろやらないといけないことですな。我らが大公殿下はそれをご所望のようですから」
「全く、彼には振り回されるばかりです。僕は」
「噂に聞くところによると、宰相閣下は殿下にかなり気に入られておられるようですからな」
「よしてください。彼といるとこちらの心臓まで縮み上がりそうになりますよ。……彼が、僕の知る世界とは別の世界に生きているのではないかと思うときもあるくらいです」
「それは言い得て妙な例えですな」
レルテスのぼやくような言葉に、リーグ伯は笑って応じたのだった。そのあと2人は、運ばれてくる料理に舌鼓を打ち、大いに語り合うのだった……
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